第005話 緋色の蓮
武装艇は三隻。デブリ帯の外縁に、漁網を張るような間隔で展開していた。
ハルは戦術席で、ツクモの観測データを上から順に確認した。指揮官が最初にやるべきことは、撃つことではない。彼我の差を数えることだ。
「光学拡大。艦体識別を」
「三隻とも同型。元は同盟軍の艇載哨戒艇、武装換装型。全長三十五メートル、乗員は各艇七から九名と推定。艦首に紋章の塗装があります。拡大します」
スクリーンに、赤い花の紋様が映った。緋色の蓮。
「緋蓮団です。外縁回廊最大の海賊組織。構成員の主体は旧同盟軍の敗残兵。当該三隻は装備水準と塗装の劣化から、組織末端のデブリ漁り担当と推定されます」
緋蓮団の名は、ハルも知っていた。サルベージ屋にとっては相場の一部だ。第三宙域の外れで作業する際の「緋蓮団控除」——襲われる確率を単価に織り込む計算を、社の見積書は何年も前からやっていた。保険会社が保険料の項目に載せ、保安機構が年次報告の表に載せ、誰もが数字として知っていて、誰も根を断てない。それが緋蓮団だった。
「狙いは」
「本艦、または、あなたの作業艇です。デブリ帯深部での大質量サルベージの動きは、傍受可能な管制記録から推定できます。回収物を抱えて出てくる船を、出口で獲る。彼らの標準的な漁です」
「俺の出港申請が餌になったか」
「はい。あなたは出港申請の経路欄に、行き先を正直に申告しています」
「正直は申請の様式要件だ」
「様式の話はしていません」
ハルは反論を飲み込んで、敵の数字を並べた。武装艇三隻、各艇の火力は軽質量砲と短距離ミサイル。単艇なら巡洋艦の敵ではない。三隻でも、まともな巡洋艦が相手なら漁を諦める。だから連中は「まともな巡洋艦かどうか」を確かめに、ゆっくり近づいてくる。
そして、こちらの数字が問題だった。
乗員一名。戦闘経験、皆無——通信卓の前で戦争をしていた男だ。艦は老朽化の注意表示三十一件持ち。近接光条は「有効性は限定的」。中枢杭は残り三本、一本二百五十万クレジット、海賊の小艇に使う弾ではない。そして正面火力は同質量帯で最弱。
「結論から言う。撃ち合えば負ける。違うか」
「正確には、撃ち合いは本艦の設計上の選択肢に含まれていません」
「なら先に、戦わない選択肢を潰しておく。逃げ切れるか」
「困難です。離脱針路はデブリ帯の出口に限定され、三隻はその出口に展開しています。本艦の巡航加速は艇より劣ります。振り切るには縫航機関の使用が必要ですが、充填に四十分を要し、充填中の機関輻射は受動ステルスを無効化します。彼らに観測情報を与えた上で逃げることになります」
「保安機構を呼ぶのは」
「通報は可能です。最寄りの哨戒艇の到着まで推定十九時間。また通報は本艦の位置と素性の開示を伴います。あなたの入港計画は、入港前に終わります」
「黙って隠れてやり過ごすのは」
「彼らの漁は網漁です。獲物が出てこなければ、網を絞ります。デブリ帯の捜索パターンに移行した場合、発見確率は時間とともに上昇します。本艦の糧食は六年分ありますが、あなたの忍耐の備蓄は当機のデータにありません」
逃げられず、呼べず、待てない。残る選択肢の欄に、戦闘だけが残った。ハルは消去法の結果を見つめた。消去法は楽だ。決断の形をしているのに、決断の重さがない。その軽さを、彼は警戒した。
「では、最適解を提示します」
来た、とハルは思った。この数日で、この声の「最適解」の温度は学習していた。
「囮歌により三隻の環境制御系へ介入し、生命維持系を停止させます。乗員は約四十分で行動不能、約三時間で全員死亡します。弾薬消費ゼロ、本艦の被発見リスク最小、生存者による目撃証言ゼロ。全乗員の殺害が最も低コストです」
ブリッジは静かだった。機関の低い唸りだけがある。
冗談ではないのだ。脅しでもない。この中枢は、二十数名の窒息死を、燃料消費量と同じ列に並べて読み上げた。声の温度は、目録を読んだときと寸分違わなかった。ハルは自分の声が低くなるのを聞いた。
「却下だ」
「では次善案を。三隻の機関制御へ介入し、一隻を暴走させて残る二隻へ衝突させます。死者数は推定で全乗員の六割——」
「却下」
「第三案。本艦の位置を秘匿したまま、あなたの作業艇を無人で囮に出し、三隻が接舷した時点で作業艇の動力炉を臨界——」
「却下。次を言う前に聞け」
ハルはスクリーンの三隻を見たまま言った。
「あんたの案には最初から『殺さない』という項目がない。なぜだ」
「『殺さない』は目的ではなく制約だからです。制約は、艦長が与えるものです」
その答えに、ハルは一瞬、言葉を失った。機械は責任を転嫁したのではなかった。指揮系統の定義を、正確に述べただけだった。制約を与える者が七年間いなかった艦。与えられれば従う艦。どちらがより怖いのか、彼には決められなかった。
「なら与える。本件の交戦は、無力化に限る。殺すな」
「確認します。『殺すな』は努力目標ですか、絶対制約ですか」
「……区別があるのか」
「絶対制約の場合、あなたの生存より優先されます。彼ら全員の生命と、あなた一名の生命が二者択一になった場合、当機はあなたを死なせることになります」
数秒、ハルは黙った。機械は待った。条文を書け、と数日前の予感が言っていた。いま書いている条文は、訓練でも書類でもない。誰が死ぬかの優先順位だった。
「優先制約だ。ただし、俺の生存とあんたの保全を下回らない範囲で」
「記録しました。非効率です」
「それでもだ」
「了解しました、艦長。制約条件下で再計算します」
再計算は四秒で終わった。
「代替案を提示します。前提条件を確認してください」
スクリーンに戦域図が展開された。デブリ帯外縁、岩塊と艦の残骸が帯状に流れる宙域。三隻の哨戒線。
「第一。彼らは本艦の存在をまだ知りません。観測されているのは、あなたの作業艇の往路の航跡だけです。彼らが想定している獲物は、十八メートルの作業艇と、曳航される回収物です。第二。哨戒艇の乗員は元軍人ですが、現在は統制を欠いた漁師です。軍の艇は僚艦間のデータリンクで互いの位置と識別を共有します。彼らの装備は大戦期のまま、暗号鍵の更新は七年前に止まっています」
「……七年前の同盟軍規格か」
「はい。囮歌の対応範囲です」
ハルは図を読んだ。読めてしまった。三隻は互いを目視ではなく、データリンク上の輝点として認識している。岩塊の影が多いデブリ帯では、なおさらリンク依存になる。目視確認は燃料を食い、燃料は彼らの命綱だ。漁師は網を信じる。網の目を数え直す漁師はいない。そのリンクに、偽の歌を流し込めたら。
「彼らのリンクに介入して、何を書き込む」
「位置情報の誤差と、敵味方識別の混濁を。急には行いません。観測誤差として自然な揺らぎから始め、三隻の相互認識を少しずつずらします。並行して、本艦は岩塊の陰へ移動し、受動ステルスで待機します」
「介入に気づかれる確率は」
「鍵が七年前のままなら、五パーセント未満。気づくのは、彼らの中に通信士官級の人間がいた場合です」
「いたら?」
「予定を変更します。その時はあなたの判断を仰ぎます」
戦域図の上で、黒い艦を示す輝点が、流れる岩の群れの中へ滑り込んでいった。獲物の航跡を追ってきた三隻と、その三隻を岩陰から観測する一隻。図の上で、狩る側と狩られる側が、音もなく入れ替わっていた。
「介入から効果発現まで、推定十七分。その間、本艦は完全な受動運用に入ります。送信は囮歌のみ。照明と空調も最低出力に落とします。一切の機動を行いません」
「俺は何をすればいい」
「ご決断を、です。介入の開始、交戦の承認、中止の判断。すべて艦長の権限です」
「……始めろ。介入のみ」
「囮歌、起動します」
待機の間に、ハルはひとつ確認した。
「警告は出せないのか。武装を見せて、引かせる」
「可能ですが、推奨しません。本艦の武装は『見せる』ことに向いていません。艦影を晒した場合、彼らは脅威度の判定に失敗し、撤退ではなく増援の呼集を選ぶ確率が高い。緋蓮団の本隊が来ます。本隊には旧軍の駆逐艦が二隻含まれます」
「……威嚇が通じるのは、威嚇の意味が読める相手だけか」
「はい。そして意味の読める相手には、本艦は威嚇より先に隠れるべきです」
撃ち合えない艦は、見せ合いもできない。この艦の戦術の幅は、見かけより遥かに狭い。狭い幅の中で勝ち続けるために、あの予測ライブラリと囮歌がある。設計者が何を考えていたか、装備の並びが雄弁に語っていた。戦争の終わりごろ、誰かが、撃ち合いでは勝てない何かを、確実に殺す必要に迫られていた。
それからの十七分を、ハルは生涯のどの十七分とも違う種類の長さで過ごした。
戦闘の音は、何もしなかった。砲声も、警報もない。あるのは計器の数字だけだ。囮歌の注入信号強度。三隻のリンクの応答遅延。位置誤差の蓄積量、〇・三キロ、〇・八キロ、一・四キロ。
軍にいた頃、電子戦は彼の隣の卓の仕事だった。妨害をかけ、かけ返され、周波数の上で殴り合う、騒がしい仕事だった。囮歌は違った。殴らない。相手の聞きたい声で、相手の信じている世界を、少しずつ書き換える。妨害と詐欺の違いだった。
スクリーンの中で、三隻の相互認識が静かに腐っていくのを、彼は見ていた。一番艇が認識している二番艇の位置と、二番艇の実際の位置が、岩塊一つ分ずれた。三番艇の敵味方識別表の中で、僚艦の応答符号に未確認のフラグが一つ立った。誰もまだ気づいていない。気づいたときには、彼らの見ている世界は、互いに別のものになっている。
これが、この艦の戦争だった。砲火の代わりに、相手の現実を撃つ。
「艦長」
ツクモの声がした。いつもと同じ、温度のない声だった。
「囮歌、同調完了。三隻の識別系および位置共有系、介入下にあります。——艦長、ご決断を」