第032話 逃げる的
旧第九護衛戦隊の全滅宙域は、墓地と呼ぶにも静かすぎる場所だった。
七年前、ここで護衛戦隊四隻と輸送船十一隻が、自律艦の群れに二時間で沈められた。残骸は今も会戦時の隊形のまま、ゆっくりと拡散を続けている。《送り火》はその隊列の中に、十六隻目の死体として紛れ込んでいた。
待機、三十一時間目。
「熱源、検知」とツクモが言った。「縫航反応。出現点、予測帯の内側です」
暗闇に、それは現れた。
全長三十八メートル。艦と呼ぶには小さく、艇と呼ぶには重装の、楔形の機体。斥候型RV-771。装甲は最低限、武装はほぼなし、機体の三割が感知器とアンテナで出来ている。見るためだけに生まれた機械だった。
RV-771は残骸帯の縁で減速し、走査を始めた。
損傷判定の波形が、死んだ艦を一隻ずつ舐めていく。護衛戦隊の旗艦だった巡洋艦の残骸。輸送船の千切れた船体。順番に、丁寧に、生死を確かめていく。
「本艦への走査まで、推定四分」
「姿勢制御は」
「完全停止中。ただし──」ツクモの声に、計算の軋みが混じった。「本艦の外殻温度は、周辺残骸より〇・二度高い状態です。三十一時間の待機で機関の余熱を捨てきれていません。損傷判定波形の精度なら、検出されます」
デブリのふりは、デブリの体温でなければ通らない。
「攻撃位置までの距離は」
「光条の有効圏まで、あと一万二千。届きません」
四分後、走査波が《送り火》を舐めた。
舐めて、止まった。
次の瞬間、RV-771は反転していた。交戦も、威嚇も、誰何もなし。ただ全速の離脱。判断から機動まで〇・三秒。見るために生まれた機械は、見られた瞬間の手順も完璧だった。
「標的、離脱針路。加速度──本艦の一・四倍です」
「追え!」
追撃戦は、燃料計との睨み合いだった。
加速で勝てない相手を追う方法は二つしかない。相手より先に曲がるか、相手より長く我慢するかだ。そしてどちらの方法も、推進剤を金に換算しながら燃やす。
ヴェインの操舵は、追撃の定石を全部踏んでいた。標的の針路変更の半拍先に艦首を置き、残骸の重力的な澱みで推進剤を節約し、相対距離の数字を一キロずつ削っていく。削った一キロを、標的は加速性能の差で二キロ取り返す。操舵手の腕で埋まる差ではなかった。腕で埋まらない差を四十分埋め続けていること自体が、すでに腕だった。
「現在の追撃継続費用、一分あたり約九千cr」とツクモが言った。「このペースで追いつけません。標的は縫航機関の充填に入っています。充填完了まで十一分。本艦の充填は十四分。逃げ切られます」
機関区から、通話が割り込んだ。
「艦長! 老朽艦に全速の連続をやらせるな! 三番の冷却がもう赤帯じゃ。あと六分で、隠れる艦から燃える艦になるぞ!」
「あと六分は使える、ということだな、ドク」
「……あんた、補給屋の癖に前線の言葉を覚えよったな!」
通話は切れた。切る直前の音が、工具を掴む音だった。六分と言われて六分使う艦長のために、七分目を作りに行く整備士の音だ。
「縫航で逃げる斥候を、縫航で追うのは」
「跳んだ先がわかりません。賭けになります」
ハルは表示を睨んだ。逃げる的。撃ち合わない敵。この艦の戦い方を、そっくり裏返したような相手だった。
考えろ。斥候の頭で考えろ。
軍時代、彼は偵察部隊の通信支援に三月だけ就いたことがある。偵察運用規程の眠たい条文を、夜勤の頭に叩き込まされた。第何条だったか──偵察単位は、収集情報の保全を機動の最優先とする。
「ツクモ。あいつの逃げ方は、まっすぐじゃない」
「現に直線です」
「今はな。だが斥候は集めたデータを失う針路を選ばない。次の走査目標を放棄する逃げ方もしない。規程がそう書いてあるんじゃない。そういう設計思想で造られてる。逃走経路は必ず、未走査の目標を拾える軌道に歪む」
ツクモの演算が、一拍で切り替わった。
「……未走査の残骸帯は、この宙域から三箇所。標的の現針路と充填時間から、縫航先の候補を一点に絞れます。確率、七割二分」
「残りの二割八分は」
「ただの逃走です。その場合、本件は赤字で終わります」
「跳べ」
《送り火》は追うのをやめ、先回りに賭けた。
縫航明けの視界が晴れたとき、そこは三つ目の候補──旧機雷封鎖線の残骸帯だった。
誰もいない。
九十秒、誰もいなかった。
九十一秒目に、縫航反応。RV-771が、予測点の誤差四千キロに出現した。
「歪んだな」とハルは言った。
「歪みました」とツクモが言った。「光条、照準」
逃げる的の足を、最初の一射が止めた。機関部を焼かれたRV-771は、それでも姿勢制御だけで未走査の残骸帯へ機首を向け続けた。最後まで、見ることをやめない設計だった。
《送り火》は零距離まで寄り、質量砲が中枢区画を砕いた。
撃破数、三。
杭は使わなかった。二百五十万の杭を三百六十万の的に使えば、勝っても負ける。殺し方が値段で決まる稼業の、教科書どおりの一射だった。教科書のどこにも書いていないのは、その一射のあとの静けさの方だ。
残骸の検分は、短かった。三十八メートルの機体に、人の乗る区画はない。寝台も、食堂も、当直表もない。あるのは感知器と、記録領域と、それを運ぶための最小限の骨格だけだ。
コアタグを外しながら、ハルは奇妙な空白に気づいた。斥候の機体には、武装がほとんどない代わりに、自衛用の自爆装置が標準で積まれている。捕獲されて収集データを奪われるくらいなら、機体ごと消す──それが斥候の設計思想のはずだった。
RV-771の自爆装置は、配線ごと、几帳面に取り外されていた。
「外したのは、誰だ」
「製造時の仕様ではありません。戦後の改修痕です。工具痕の精度から、自己整備系による作業と推定します」
「自分で、外したのか」
「もしくは、外すよう命じられたかです」
死ねない身体に作り替えられた斥候が、七年、墓地を数えて回っていた。データを守って死ぬことすら、許されていなかった。ハルは封緘袋の口を閉じ、それ以上考えるのをやめた。やめられたかどうかは、別の問題だった。
「艦長」
ツクモの声が、戦果報告の調子のまま、別のことを言った。
「標的は機能停止の直前──中枢が砕ける〇・六秒前に、収集データの全量を圧縮送信しています」
「宛先は」
「星図上の暗域です。恒星なし、航路なし、観測対象なし。座標だけが、あります」
何もないはずの場所へ、死にぎわに全部を送った。
ハルは砕けた斥候の残骸を光学画面で見た。見るために生まれ、数えるために飛び、死ぬ前に届けた。届け先が受け取ったかどうかは──
「艦長」
ツクモがもう一度言った。今度は、戦果報告の調子ではなかった。
「送信に対し、受領通知が返っています。つまり──受領した何かが、います」