第044話 痛がる艦

 嘘の継ぎ足しは、嘘を信じた相手の真面目さに助けられた。

 偵察から戻りかけた子機に対し、ハルは「候補座標の再測量」を命じる追伸を送った。理由は気象——恒星風の擾乱による測位誤差の再確認。退屈で、定型で、軍の司令部がいかにも言いそうなことだった。本物の軍隊では、現場はこういう二度手間を呪いながら従う。子機には呪う機能がないぶん、従うのは本物より速かった。子機は素直に反転し、穴は八時間、開いたままになった。

 十九時間の減速進入は、艦を棺桶に変える時間だった。機関停止。主電力を絞り、暖房を最低限に落とし、排熱を艦体の片面だけに逃がす。艦内温度は十度を切り、クルーは防寒着のまま配置についた。レーダーは沈黙、通信は受信のみ。デブリの流れに紛れた黒い艦体は、計器の上では岩と区別がつかないはずだった。「はず」という言葉の上に、三人と一基の命が載っていた。

 十九時間の果てに、《送り火》は《揺り籠》の腹の下——係留腕の作る鋼の森の陰に取り付いた。

 頭上九百メートルにわたって、死んだ船団が並んでいた。

 七番係留腕の貨物船への移乗は、ハルとナナオの二人で行った。ヴェインは操舵席を離れられない。発見された瞬間に艦を捨てて離脱するのが、最後の保険だったからだ。

「三十分ごとに定時連絡。途切れたら、二回までは待て」とハルは言った。

「……三回目は」

「待つな。離脱しろ。契約の主任務は撃破だ」

 ヴェインは何も答えなかった。答えない返事の意味を確かめる時間も、惜しかった。

 貨物船の船内は凍りついていた。電力の落ちた通路に、四ヶ月分の静寂が積もっている。携行灯の光の輪の中を、浮遊した粉塵がゆっくりと流れた。居住区の食堂には、食器が三人分、テーブルの固定具に留められたままだった。減圧はしていない。ただ、住んでいた人間の方が先にいなくなった部屋だ。機関区画の手前の隔壁に、内側から溶接の跡があった。ナナオが照らし、短く言った。

「……立て籠もりの教科書どおりじゃ。開けるぞ」

 切開した隔壁の奥、非常灯一つの機関区画に、男はいた。

 毛布の山に埋もれ、痩せて、髭が伸び、酸素瓶の残量計を抱きかかえるようにして眠っていた。ナナオが脈を取ると、男は目を開け、長いあいだ二人を見て、それから掠れた声で言った。

「……あんたら、本物か」

「本物じゃ。歩けるか」

「……四ヶ月ぶりに、信号に返事が来たと思ったら」

 男は笑おうとして、失敗した。笑い方というものは、四ヶ月使わないと錆びるものらしかった。

 収容艇に運び込まれ、点滴に繋がれてから、男は機関士だと名乗った。失踪した貨物船の、唯一の生き残りだった。

 停船を強制されたとき、船長は振り切ろうとして推進部を撃たれた。減圧で三人死に、残りは救命艇で脱出を試みて——子機に「隊列から逸脱した僚船」として回収され、戻されたという。逃げた船員を、艦は罰しなかった。ただ、迷子を連れ戻すように、丁寧に網で拾って元の位置に戻した。それを二度繰り返して、生き残りは彼一人になった。

「あの艦は」

 男は天井を見たまま言った。

「毎日、決まった時刻に、全部の船へ点呼の信号を送ってくる。応答信号の自動返信が生きてる船には、それで済む。死んだ船にもだ。返事のない船に、何度でも、同じ時刻に」

 男の声は平坦だった。四ヶ月かけて、感情の方が先に磨り減ったのだろう。

「最初の頃は、俺も手動で返事をしてた。点呼に答えてれば、餌でもくれるかと思って。……途中でやめた。あれは聞いてない。返事があってもなくても、次の日も同じ時刻に来る。あれはただ——」

「任務をしとるだけじゃ」

 ナナオが静かに引き取った。男は頷き、それきり黙った。

 艦内が静まった。点呼。死んだ十一隻への、七年分の点呼。誰もその数を計算しようとしなかった。計算なら一秒でできる者が一名いたが、彼女も黙っていた。

 離脱は進入よりさらに遅かった。機関を吹かせば熱で終わる。係留腕の陰から陰へ、姿勢制御の冷ガス噴射だけで漂い出る、四日がかりの後退だった。

 その四日が、艦の空気を削っていった。

 睡眠は四時間交代。食事は加熱なしの保存食。保存食の箱は予定より早く軽くなり、ナナオは患者と乗員の双方に投薬量の帳尻を合わせ続けた。ヴェインは操舵席で仮眠を取り、起きている時間の全部を、九百メートルの死角の計算に使った。誰も愚痴を言わなかった。愚痴は酸素の無駄だった。

 二日目、頭上の母艦が一八〇〇の点呼を放った。至近で浴びる船団統制波は、受信機を介さずとも艦体の構造材をかすかに鳴らした。十一回、宛先を変えて、同じ問いが繰り返される。応答、ゼロ。収容艇の寝台で、機関士が毛布を頭まで被るのが見えた。四ヶ月、彼はこの音の真下で生きていたのだ。

 三日目の夜勤で、ハルは医務室の前を通りかかり、ナナオが受信機に向かっているのを見た。

 《揺り籠》の管制波を、復調して、音にして聴いている。

「……趣味が悪いぞ、ドク」

「医者の聴診じゃ」

 ナナオはイヤホンの片側を外さなかった。

「機械の信号いうもんはな、艦長。健康なら退屈なもんじゃ。同じ波形が、同じ間隔で、いつまでも続く。心音と一緒じゃ。じゃがこれは——」

 老人はしばらく黙って聴いた。携行灯の薄明かりの中で、その横顔から飄々が抜け落ちているのを、ハルは初めて見た気がした。

「……周期が、揺れとる。点呼の間隔が、応答のない船の数だけ、毎日ほんのわずかに縮んどる。再送の回数も増えとる。命令の解釈系が軋んどる音じゃ。任務は完了せん、対象は応答せん、それでも処理は止められん。——これは機械の譫妄ではない。痛がっとるんじゃ」

「痛がる?」

 機械が痛がる。その言い方は比喩のはずだった。だが老医師の口調は、比喩を口にする者の口調ではなかった。診断を下す者の口調だった。

「忘れてくれ。年寄りの聴き間違いじゃ」

 ナナオはイヤホンを外し、受信機を切った。その手つきが普段より一拍速かったことに、ハルは気づいた。気づいたが、問わなかった。素性を探られたくない者は他人の素性も探らない——この艦は、その礼儀で成り立っている。

 だが扉口で、老人の背中が一度だけ言った。

「……艦長。あれを楽にしてやれるんは、あんたの杭だけじゃぞ」

 四日目、安全距離に達した《送り火》の艦橋で、ツクモが報告を上げた。

「離脱中の受動観測で、副次的な記録を得ました。「集積仮説」ファイルに追記します」

「言ってみろ」

「この宙域には本来、識別の壊れた小型還らず艦が三隻、生息していた記録があります。三年前のギルドの脅威評価に記載済みです。現在、三隻とも存在しません」

「《揺り籠》が撃ったか」

「交戦痕がありません。残骸も、ありません。三隻は《揺り籠》の縄張りの外周から、それぞれ別の時期に、きれいに立ち去っています。残された航跡擾乱の向きは三隻とも同一——回廊深部方向です」

 はぐれたのではない。移動した。行き先がある。

 あの斥候、受領通知、残骸の走査。記録は一行ずつ、同じ方向を指し始めている。ツクモはそれ以上の推論を口にせず、ハルも求めなかった。仮説に名前を与えるには、まだ早い。早いと思いたかった。

「それと、艦長。本命の方が動きました」

 メインモニタに、《揺り籠》の管制波の解析が映った。七年間変わらなかった待機系列が、組み変わっていく。

「先刻送信した偽の集結指令——「船団を再編成し、新集結点へ向かえ」——に対し、《揺り籠》が応答。船団の組み直しのため、全哨戒子機の収容を開始しました」

 網が、自分で畳まれていく。

 十四の光点が、一つずつ母艦の腹へ帰っていく。七年待った言葉を受け取った艦は、律儀に、教範どおりに、出発の支度を始めていた。係留腕の固定を確かめ、死んだ十一隻を抱え直し、誰もいない集結点へ向かうために。護衛艦が護りを解く、七年に一度の瞬間が近づいていた。

「総員、戦闘配置。——杭、起こせ」

 懐が開く。

 ハルの手帳には、鉛筆書きの名前が七十四並んでいる。消しゴムで消せると決まったのは、まだ一つだけだった。