第051話 名前
回収部隊が去った後の港は、何事もなかったような顔をしていた。何事もなかったような顔をするのが、この港のいちばん得意な芸だった。
《送り火》の艦内には、新しい日課が増えていた。
〇七〇〇、ナナオの回診。〇八〇〇、歩行訓練——医務室の手すりを往復する、二十分の苦行。少女の筋肉は七年分萎えていて、立つことから覚え直しになった。彼女は痛みに音を上げない。音の上げ方を知らないのだ。ナナオは訓練のたびに「痛かったら言え」と繰り返し、少女はそのたびに「……基準値を、ください」と答えた。痛みを申告するには基準が要る。彼女の世界はそう出来ていた。
「基準なんぞ、要らん」と老人は言った。「痛い、と思ったときが痛いんじゃ」
「……思った、とき」
「そうじゃ。お前さんが思うんじゃ。計器ではなくな」
少女は長いこと黙った。難問を与えられた顔——というには、表情がまだ足りない。だが処理に時間のかかる入力だったことだけは、確かだった。
食事は、相変わらず命令を待った。
配膳しても、少女は皿の前に座ったまま動かない。「食べろ」と言えば正確に食べる。言わなければ、何時間でも待つ。三日目、ハルは言い方を変える練習を始めた。
「食べるか」
「……待機します」
「そうじゃない。命令じゃなく——頼みだ。食べてくれ」
「……『頼み』の優先度を、指定してください」
「優先度はない。あんたが決めていい」
「……わたしが」
少女の手が、止まったまま揺れた。決める、という動詞と、わたし、という主語が、彼女の中でうまく繋がらないのだ。結局その日は、ハルが「食べろ」と言い直して終わった。敗北だったのか、一歩だったのか、判定する基準はハルの側にもなかった。
ツクモが後で言った。
「艦長の試みは、装置に自由意志の有無を問う行為です。非効率です」
「お前にも同じことをしてる気がするが」
「……記録します」
記録します、の前の間が、いつもより半拍長かった。
五日目の夜、ハルは妙な光景に行き会った。
消灯後のブリッジ。予備灯だけの薄闇に、ヨルが立っていた。誰も座らない操舵席でも、艦長席でもなく、ツクモの集音器にいちばん近い壁の前に。
「……あなたは」
ヨルの声がした。ハルは通路の陰で足を止めた。
「あなたは、わたしと、おなじ?」
三秒の沈黙。ツクモにしては、長い。
「分類を試みます。あなたは生体管制コア。私は演算構造体。基盤が異なります。——ただし、運用目的は同一でした。艦の中枢。比較項目の選び方次第で、同じとも、違うとも分類できます」
「……むずかしい」
「はい。私にも、難しい」
私にも、という言い方を、ハルは初めて聞いた。
「あなたは、いたい、が、ある?」
「痛覚はありません」
「……いいな」
「保留します」と、ツクモは言った。「『いいな』への応答を、保留します」
それきり、二つの中枢は黙った。沈黙が会話の続きなのか終わりなのか、通路の人間には判別できなかった。ハルは足音を立てずに引き返した。立ち聞きの罪悪感より、踏み込んではいけない場所だという感覚の方が強かった。同類というものが互いをどう測るのか、人間に口を挟む資格はない。
帳簿には、分類のつかない項目が増え続けていた。
子供用の被服、二回目。食料、一名分。歩行訓練用の補助具、中古、八千cr。ヴェインが非番の日にどこかで調達してきたもので、彼は「……荷物に紛れてた」とだけ言った。二百八十メートルの軍艦の積荷に、子供用の歩行補助具が紛れる経路を、ハルは追及しなかった。
問題は、書類の方だった。
艦内名簿。保安機構の検査が入れば提出を求められる、乗員の登録簿。ヴェインもナナオも、灰色なりに載せる名前がある。少女には、ない。名がなく、籍がなく、存在の記録そのものが終戦協定違反だ。偽装するにしても、偽名の欄に書く文字列が要る。
ハルは端末の名簿様式を開いたまま、長いこと止まっていた。
六番、と書くわけにはいかない。あれは名前ではない。装置の在庫番号だ。あの番号で呼ぶたび、培養槽と接続座と、七年分の点呼がついてくる。
思い出したのは、観測窓だった。
《揺り籠》の最深部。分厚い窓の向こうにあった、眼下の惑星の夜側。都市の灯ひとつない、黒い半球。彼女が七年間、見続けた唯一の景色。
暗い、と言ってしまえばそれまでの眺めだ。だがあの艦の中で、窓だけが「外」だった。管制索に繋がれた世界の中で、夜側の黒だけが、任務でも命令でもない唯一のものだった——のかもしれない。かもしれない、以上のことは、誰にも分からない。
夕食の後、ハルは医務室の戸口に立った。少女は寝台の隅で、膝を揃えて座っていた。
「名前が要る。書類の都合だ」
前置きは事務的にした。事務的にしか、こういうことを言えない男だった。
「——ヨル。それでいいか」
即物的な命名だった。発見の夜に窓の外が夜側だったから。それだけの由来で、詩も祈りも込めていない。込め方を知らないのだから、仕方がなかった。
少女は、ゆっくりと顔を上げた。
「……ヨル」
罅割れた声が、その音を確かめるように繰り返した。
「ヨル。……わたし、を、呼ぶ音」
「そうだ」
「……命令、ですか」
「いや。——名前だ。命令じゃなく、あんたのものだ」
あんたのもの。その語の処理に、少女はまた長い時間をかけた。かけて、結論は出なかったらしい。ただ、ハルが部屋を出ようとしたとき、背中に小さな声が届いた。
「……ヨル」
振り向くと、少女はこちらを見ていた。命令を待つ目ではなかった。呼ばれた音を、自分で鳴らしてみた目だった。それが本日の、たった一つの変化だった。一日に一つ。この艦の航海日誌に載らない種類の航海が、そういう速度で進んでいた。
「登録名、ヨル」
通路で、ツクモの声が言った。
「正規名簿には載せられませんが——私の記録には、載せます」
「頼む」
「氏名、ヨル。所属、本艦。職務、未定。……職務欄が未定の乗員は、本艦の記録で初めてです」
「空欄のままにしておけ」
「空欄のまま保存します。空欄も、記録のうちです」
その夜、ハルは自分の帳簿を開き、何も書かずに閉じた。書く欄が、まだこの帳簿にはなかった。悪くない名だと思う、と一行だけ頭の中に書いて、それは誰の記録にも残さなかった。