第054話 二度目の喪
標的を光学に捉えた瞬間、操舵席の空気が変わったのが、ハルには背中で分かった。
中型駆逐艦。全長百八十メートル。同盟海軍の主力駆逐艦級——大戦で最も多く造られ、最も多く沈んだ級だ。
ヴェインがかつて艦長として乗っていたのと、同型だった。
「……D7型。後期生産分だ。砲塔の防盾が増厚されてる」
ヴェインの声は平坦だった。平坦すぎた。
「同型艦の経験は、猟の役に立つか」
「……立つ。立ててみせる」
それ以上、誰も触れなかった。触れない流儀で回る艦だった。
ブリーフィングの席で、ヴェインは標的の艦内図を要求しなかった。
要求する必要がなかった。D7型の艦内を、彼は目を閉じて歩ける。機関区の天井の低さも、操舵席の桿の渋みも、第三隔壁の歪みやすい蝶番も。二十年かけて骨に刻んだ知識が、いまは同型を殺す道具になる。道具になることを、彼は拒まなかった。拒まない、という払い方で、何かを払い続けている男だった。
「……一つだけ言っておく」と、彼は図面の前で言った。「D7はいい船だ。乗員に無理をさせない設計で、沈むときは最後まで艦体が保つ。あの級に拾われた命が、同盟に何千とある。俺のも、その一つだ」
「ああ」
「だから——手早く頼む。いい船が壊れていくのを、長く見たくない」
手早く。それが彼の注文のすべてだった。
観測は一日で切り上げた。標的の状態が、時間を許さなかった。
「識別波の劣化が進行しています」とツクモが言った。「敵味方識別の応答が、正常値から断続的に逸脱。現状は『無応答の船を警戒する』段階ですが、劣化がもう一段進めば『全応答を敵性と判定する』段階に移行します。無差別交戦型への転落です。推定残余時間、七十時間から百時間」
セルマの入植地を焼いたのと、同じ壊れ方だった。
いま撃てば、まだ誰も殺していない艦を撃つことになる。待てば、最初の犠牲が出てから撃つことになる。撃つ判断の正しさは、今回は時間の前借りで成立していた。借りた正しさは、利子がつく。つくと知っていて、借りるしかなかった。
「攻略案。標的は駆逐艦であり、機動力は本艦と同等以上。哨戒型のような固定パターンを持ちません。ただし——」
ツクモは戦術図に、標的の回避機動の再構成を並べた。
「同盟駆逐艦の操艦教範には、世代ごとの癖があります。操舵手。確認を求めます」
ヴェインは図を一瞥して、頷いた。
「……D7の回避は、右に深い。右舷の姿勢制御が強いんだ。設計の癖だ。追い込むなら左から押して、右に逃げた鼻先を取る」
「同意見です。予測ライブラリを操舵手の経験則で補正します」
禁制AIと敗残の駆逐艦長が、同じ図の上で同じ結論を指す。この艦の戦力の本体は、杭でも囮歌でもなく、この噛み合わせなのかもしれなかった。
接近戦は、夜——艦内時間の夜に始まった。
ステルス十五分。囮歌で偽の航路ブイを歌わせ、標的の針路を残骸帯の浅瀬へ寄せる。左から光条で圧をかけ、右へ逃げる鼻先に《送り火》が先回りする。教範どおりの追い込みが、教範どおりに進んだ——七分目までは。
「標的、変針——予測帯から外れます」
右に深いはずの回避が、左に切れた。予測ライブラリの的中率が音を立てて崩れ、追い込みの網が裏返る。標的の砲塔がこちらの未来位置を舐め、ヴェインの操舵が紙一重でそれを外した。艦体を、掠めた光条の熱が舐めた。
「七年ものの個体です。教範の癖が、劣化で崩れて——」
そのとき。
「……みぎ」
小さな声が、ブリッジの入口から言った。
ヨルだった。寝ているはずの少女が、隔壁に手をついて、立っていた。目は標的の方位を——艦の壁を抜いて——まっすぐに見ていた。
「つぎは、みぎ。あのふね、みぎの、いたみを、おぼえてる」
「ヨル、戻——」
「みぎの、うしろが、いたかった、って。ずっと、おぼえてる。だから、こんどは、みぎをかばう。みぎに、にげない」
右舷後部に古い戦傷がある。だから右の機動を本能的に避ける——教範の癖を、七年の「痛みの記憶」が上書きしている。
判断の時間は、二秒もなかった。ハルは選んだ。
「ヴェイン! 右はない、左で追い込め——杭、左舷側の先回りに置き直せ!」
舵が唸り、《送り火》は左へ。標的は教範を裏切って左へ逃げ——逃げた先に、黒い艦がいた。
「距離六百。中枢杭、照準固定。——艦長、ご決断を」
「撃て」
二本目の杭が、闇を渡った。
駆逐艦は回避機動の途中の姿勢のまま、すべての灯を失った。撃破、六隻目。まだ誰も殺さないうちに終わらせた、初めての猟だった。借りた正しさの利子を、誰も払わずに済んだ。
済まなかったのは、別の払いだった。
振り向いたとき、ヨルは隔壁の根元に崩れ落ちていた。
ナナオが駆けつけ、抱き起こす。脈は速く、呼吸は浅く、体温が下がっていた。能力の使用は、撃沈される艦の最期を——管制波の途絶を、直接聴くことだ。彼女は標的の「痛みの記憶」を読み、そして標的が砕ける瞬間まで、回線を開いたままだった。
「……ないて、いた」
医務室に運ばれる途中、ヨルが小さく言った。
「あのふね、さいごに。ないて、いた」
それきり、眠った。ナナオは点滴を組みながら、誰にともなく言った。
「……能力は使わん、と決めたんは、正しかったの。決めても、こうなる。この子は、自分で決めて、聴いたんじゃ」
使わないと決めることと、聴こえないことは、違う。医者の言ったとおりだった。
撃破の後の手順を、ハルは一人で済ませた。
コアタグの回収。戦時ログの吸い上げ——ツクモは今回も全件を保存した。百二十件目。最終ログによれば、この駆逐艦の最後の命令は「撤退する輸送船団の後衛」だった。
ログには、一つだけ救いに似た行があった。
任務開始から六時間後の航法記録。船団十八隻、縫航ゲート通過、全船離脱確認。——後衛は、仕事をやり遂げていた。守った船団は、一隻も欠けずに下がった。そのことを確認した記録を最後に、撤収命令の受信待ちが七年分続く。仕事を果たした艦が、果たしたことを誰にも報告できないまま、次の命令を待ち続けた七年。
ハルはその一行を、撃破報告書の参考資料に含めた。含めて、どうなるものでもない。だが十八隻ぶんの誰かが、いまもどこかで生きている。守られたことを知らないまま。知らせる宛先のない手紙のような一行を、彼は公文書の中に埋葬した。
帰路の艦内、ハルは入金通知の数字を確かめた。一千二百万、手数料を引いて手取り一千二十万。無機質な数字の隣に、医務室で眠る小さな熱源がひとつ。報酬の隣に、失われたものを書く——この帳簿の流儀は、今夜も守られた。
深夜、ハルは艦尾の観測区画で、ヴェインを見つけた。
操舵手は窓の外——駆逐艦の残骸が漂う後方の闇に向かって、立っていた。やがて彼は背筋を伸ばし、同盟式の敬礼を、ひとつだけした。
古い軍隊の、誰も見ていないはずの敬礼だった。
ハルは声をかけずに通路を戻った。見なかったことにする技術なら、この艦の全員が一流だった。