第083話 十隻目
影の正体は、三十分の受動観測で割れた。
旧連合軍の哨戒駆逐艦。全長百六十メートル、無人化改装型。大戦末期にこの宙域の航路封鎖管制を担っていた艦級で、識別コードの定時発信は七年間、一度も止まっていない——還らず艦だった。
艦体は、七年の漂流が刻んだ傷だらけだった。対デブリ装甲は浸食され、舷側の艦番号は半ば剥げ、それでも砲塔の駆動部だけは定期の自己整備で磨かれている。死にかけた身体で、引き金の指だけが健康だった。還らず艦というものの、正確な肖像だと、ハルは思った。
「行動様式を解析しました」ツクモが戦術図に航跡を引いた。「過去三日の傍受記録と合わせ、当該艦の最終命令を推定します。『当該宙域における無許可航行船の臨検および排除』。哨戒線は幹線の旧封鎖線に一致。接近する船舶へ識別と航行許可の提示を要求し、有効な戦時航行許可を提示できない船を、排除対象に分類します」
「戦時航行許可は、七年前に失効してる」とハルは言った。
「当該艦の記録系では、戦争は失効していません」
つまり、こういうことだった。前方の哨戒線に、避難船団十二隻がこのまま進めば、駆逐艦は規定どおり臨検を要求し、船団は誰一人として七年前の許可証を持っておらず、規定どおり排除される。過去の航路被害記録を当たると、この宙域で消息を絶った船は七年間で十一隻。原因不明、で綴じられた書類の原因が、いま戦術図の上で律儀に定時報告を打っていた。
彼我の条件は単純で、単純なぶん悪かった。哨戒駆逐艦は船団のどの船より速く、《送り火》より火力で勝る。船団は遅く、隠れる場所のない数珠で、迂回路はデブリ帯の奥——機雷の残る旧戦場しかない。
数字にすると、こうなる。哨戒駆逐艦の最大加速は船団の四倍、光条の門数は《送り火》の二倍強。船団の数珠は全長九十キロに伸びており、どこを守っても、別のどこかが裸になる。護衛艦は一隻——その前提を敵の戦術計算に入れさせた時点で、まともな護衛戦は成立しない。
待機の間、ヨルは監視席で膝を抱えていた。
「きこえてるか」とハルは訊いた。
「……うん。ずっと、おなじうた。『とまれ。なまえを、いえ。ゆるしを、みせろ』。それだけを、七ねんかん」ヨルは膝に顎を載せた。「うたって、いるんじゃ、ないの。となえてるの。おまもり、みたいに。となえるのを、やめたら、じぶんが、きえちゃうみたいに」
唱えるのをやめさせに来たのが自分たちだということを、その場の全員が、言わずにいた。
「最適解を提示します」とツクモは言った。
「船団最後尾の二隻を減速させ、臨検対象として当該艦に供してください。交戦判定までの所要時間は推定十一分。その間に残り十隻は哨戒線の有効範囲を抜けられます。船団全体の生存率は最大化されます」
ブリッジが静かになった。提案の中身ではなく、提案の声がどこまでも平坦なことに、人間の側の耳が冷えた。最後尾の二隻には、合わせて三百十七人が乗っている。
「却下だ」
「了解しました。次善案の算定に移ります」
「いい。こっちでやる」ハルは通信卓に席を移した。「あの艦は『無許可の船を排除しろ』と言われてる。なら、許可を持たせればいい」
「戦時航行許可の偽造ですか。当該艦の照合鍵は軍の正規鍵です。偽造は照合で弾かれます」
「許可証は偽造しない。船籍を偽装する」ハルは七年前の書式を、手が覚えている速さで呼び出した。「終戦の月、外縁方面で有効だった友軍輸送船団の識別符丁。第七補給艦隊の隷下にいた俺は、これを毎晩、中継してた。臨検規定には例外条項がある——友軍識別を発信する輸送船団は、臨検対象から除外。針路を空けて、見送る」
十二隻の避難船団を、七年前に存在した補給船団に化けさせる。書式も、符丁の更新周期も、応答の癖も、彼は忘れたくても忘れられない精度で覚えていた。
「成功率、算定不能です。前例がありません」とツクモは言った。「ですが書式は——正規のものと、区別がつきません」
船団の十二隻が、偽の名前で歌い始めた。
哨戒駆逐艦は定時の誰何を発し、ハルの組んだ応答が自動で返り、三十秒の照合のあと——駆逐艦は、針路を空けた。七年ぶりに出会った「友軍」を、規定どおり、敬礼のような相対位置で見送りはじめた。
「見送りの間、当該艦の索敵は船団に集中します」ツクモが言った。「死角、艦尾方向。継続時間、推定七分」
「七分ありゃ、釣りが来る」
ヴェインが操舵桿を握った。《送り火》はデブリ帯の浮遊物に紛れ、機関を呼吸の出力まで落として、見送る艦の背中へ滑り込んだ。推進剤の噴射は、敵の索敵周期の谷にだけ短く置かれる。三十七時間の操艦戦を戦った手は、七分の忍び寄りを退屈そうにすらこなした。だが操舵手は退屈という言葉を信じない。近い距離ほど艦は嘘をつく、というのが彼の数少ない口癖の一つで、距離が詰まってからの三分間、ブリッジでは誰も瞬きの音すら立てなかった。
距離三千、二千、八百。哨戒艦の艦尾が、観測窓いっぱいに育つ。
「中枢区画、捕捉。杭、装填済み」
「……撃て」
杭は装甲の継ぎ目を選んで入り、七年間の律儀な戦争を、一秒未満で終わらせた。駆逐艦の灯りが全部消え、識別コードの定時発信が——七年間で初めて——次の定時に、来なかった。
撃破数、十。
船団からは何も見えなかったはずだ。十二隻はただ、検問のない静かな航路を抜けただけだった。護衛とは成功するほど存在を疑われる仕事で、それでいいのだと、ハルは思っている。
ログの回収には、二時間かかった。
臨検記録、七年分。駆逐艦は軍規どおりの几帳面さで、全件を保存していた。誰何した船、八百九十六隻。通過させた船、八百八十五隻。排除した船、十一隻。
十一隻には、船名と、船籍と、最終座標と、排除時刻が、一隻ずつ記録されていた。漁船が三隻。貨物船が六隻。客船が二隻。客船の一隻の排除記録には、直前の通信の書き起こしが残っていた——こちらは民間船、子供が乗っている、許可証とは何のことだ、戦争は終わった——応答、規定外通信につき記録のみ。排除、完了。
読み上げる者はいなかった。ハルの手が端末の上で止まり、止まったまま、長いこと動かなかった。
十一隻のうち、二隻は同盟系の船籍だった。ヴェインは名簿の画面を一度だけ見て、操舵席に戻った。戻る背中に、誰も何も言わなかった。
ナナオが医務室から上がってきて、名簿を最後まで読み、老眼鏡を外した。
「……規定どおり、か。一番質の悪い殺し方じゃ。憎しみで殺すなら、憎しみが尽きれば止まる。規定は、尽きんでな」
「最終ログ、回収完了しました」ツクモの声がした。「保存します。——百二十四件目」
いつもの、誰にも宛てない宣言だった。
「艦長。もう一点、報告があります」
「言ってくれ」
「当該艦の受信記録に、外部からの定期的な接触の痕跡があります。過去七ヶ月で五回。同一の発信源と推定されます。内容は短い誰何信号——応答要求のみ。当該艦は、規定外の書式と判定して応答していません」
「発信源の識別は」
「ありません。識別符号を、残していません」
「保安機構に報告するか」とナナオが訊いた。
「する。事実だけをな。『何か』の正体の推測は書かない。推測を書けば、書いた推測の形に捜査が曲がる」ハルは報告書の書式を開き、開いたまま、こちらの帳簿には全部書く、と付け足した。
護衛任務そのものは、二日後、回廊外縁の中継港で完了した。十二隻、欠けず。船団長からの謝礼の申し出を規定どおり断り、代わりに一つだけ頼んだ——七年間にこの宙域で消えた船について知ることがあれば、保安機構に証言を出してほしい、と。死者の記録は、生き残りの証言で初めて書類になる。
ハルは戦術図の、何もない深部を見た。誰かが、この艦を定期的に数えに来ていた。撃ちもせず、奪いもせず、ただ、まだそこにいるかを確かめに。
そして識別符号を残さない通信というのは、海賊の手口ではない。あれは——発信源の秘匿を教範で叩き込まれた、軍用の作法だった。