第099話 帳簿の前で
戦争の終わりは、書類の山の形をしてやって来る。七年前にそれを知った男は、今回は受け取る側の机に座っていた。
シネレオ港、第三桟橋。《送り火》は焼けた外皮を晒したまま係留され、ハルは六日間、精算の事務に沈んだ。
入る金から先に書く。指揮個体《残響》の共同拠出賞金、五千万cr。構成艦三隻——採掘場の二隻と残骸の海の重コルベット——が告示どおり一律三百万で九百万cr。合計五千九百万、ギルド経由のため手数料の一割五分、八百八十五万が消え、入金五千十五万cr。検認には三者の判子が要り、統治府と連合は二日で押し、分離派は四日渋った。渋った理由は思想ではなく、拠出金の振込が遅れていたからだった。敵同士が出し合う財布は、最後まで敵同士の財布だった。
介入契約の完了残額、千二百万cr。これは保安機構の直接契約で、手数料なしに入った。任務完了の判定理由の欄には「当該星系の航路阻害要因の除去」とあった。内戦も群れも、書類の上では同じ十一文字に畳まれていた。
出る金は、入る金より行が多かった。
被弾修理。ステルス外皮二区画の張替えに二千二百万cr。葬送艦の外皮材は市場に存在せず、ナナオが骨市の伝手の残りと軍払い下げの規格外品を継いで、それでもこの値段だった。左舷光学センサ群の換装に六百六十万。四ヶ月先送りにしてきた入渠整備の最低限が四百八十万。合わせて三千三百四十万cr——掠っただけ、の値段だった。撃ち合えば負ける艦は、掠られた時点で負け分を払う。帳簿はそれを毎回、正確に思い出させてくれる。
中枢杭の再調達は、四本で一千万cr。手配したのは、私掠免状を持ってきたあの連合の文官だった。軍保管分の払い下げ、一本二百五十万の正規価格。伝票は一日で通った。
「市場では一年枯れてる品だ」とハルは言った。「軍の棚には、あるんだな」
「在庫管理の妙、とでも言っておこう」文官は伝票に判を押した。「請求先の心配より、補充した四本を使う相手の心配をすることだ。葬儀屋の艦長」
枯れた市場と、満ちた棚。誰かが買い漁り、誰かが備蓄している。その二つが同じ誰かなのかどうか、判を持つ側は教えてくれなかった。
最後に、誰にも請求されない出費を二件。沈没フリゲートの三十九名の遺族基金に三百九十万、採掘場の死者七名の遺族に七十万。一人あたり十万cr。命の値段ではない。値段のつかないものに数字の形だけ整えて送る、それだけのことだった。月次の給与と保険と港湾費で百五十五万。それから戦功配当として、ヴェインに百万、ナナオに百万、ヨル名義の積立に百万を付けた。
「わたしの、すうじ?」と、伝票を覗き込んだヨルが訊いた。
「おまえの数字だ」
「……つかいみち、ない」
「無いまま持ってるのも、持ち物のうちだ」
ヨルは頷いて、自分の小さな帳面を開き、百、と書いた。それから頁を遡って、別の欄に小さく、三十九、七、八、と書き足しているのが見えた。彼女の帳簿の流儀を、ハルは教えたことがない。見て、覚えたのだ。誰の帳簿を見てかは、考えるまでもなかった。
精算の末、残高は六千十八万crになった。撃破数、十四。ハルの帳簿の引き算は、四千十二引く十四。数字は、ほとんど減っていなかった。
「艦長。精算記録を確定します」とツクモが言った。「ひとつ、確認事項があります。《残響》の残骸サルベージ権は賞金に付帯しますが、売却手配の指示がありません」
「指揮通信中枢の周辺機材は、売らない。粉砕処分だ。費用はこっちで持つ」
「相場の三倍で買う者がいる品目です」
「だから売らない」
「……承知しました。処分費、二十二万crを計上します」彼女はそれ以上、最適解を主張しなかった。死んだ中枢の欠片がどこへ流れ、何の餌になるかを、この航海で全員が見てきたのだった。
港は、停戦の噂で揺れていた。
噂は六日目に公示になった。統治府と分離派、停戦交渉開始。二年間の内戦を交渉の席に着かせたのは、正義でも疲弊でもなく、還らず艦の艦隊という共通の恐怖だった。撃ち合いをやめる理由が恐怖なら、恐怖が去れば、また理由が要る。その注記を、ハルは保安機構への最終報告の備考欄に書きかけて、消した。備考欄に書ける種類のことではなく、書いたところで読む者の役にも立たなかった。
修理部材の受け取りで桟橋を歩いた帰り、観測ドームの前を通った。停電の夜ではないのに、子供が三人、天蓋の下で空を見上げていた。手分けして空を区画に割り、係を決めて、数えている。
「動く星、へったよ」と、いちばん小さいのが言った。「せんしゅうは、九つ。きのうは、みっつ」
「ばらばらに、なった」と別の子。「もう、ならんでない」
数えている子らは、自分たちが何の出席を取っているのかを知らない。並んでいた星々がどこへほどけていったのかも、二つだけ更地の解体場へ向かって飛び続けていることも。ハルは立ち止まらずに通り過ぎた。通り過ぎてから、部材の伝票を持つ手に、必要のない力が入っていたことに気づいた。
私掠免状は、失効しなかった。
戦時特例の許可状は停戦交渉入りと同時に効力を見直すのが筋で、ハルは返納の打診さえした。返ってきたのは、対象条項を確認せよ、という一行だった。第三項、無主自律艦及びその支援勢力。内戦が終わっても、この紙の本命は終わらない——連合がこの紙を回収しない意味を、彼はまだ正確には知らなかった。知らないことだけを、知っていた。
ギルドからは昇級通知が来た。第二級。撃破実績と「組織行動を行う無主自律艦への対処実績」が査定理由だった。第二級は外縁回廊に十七人しかおらず、うち還らず艦狩りの専業は、これで二人になった。もう一人は三年前から行方不明のままで、除名手続きだけが進んでいないのだという。葬儀屋稼業の出世の階段は、上るほど前を歩く者が減っていく。
通知の末尾に、テネブラエ支部の受付の私信が一行だけ転送されていた。
——等級が上がると、死亡保険の枠も上がるの。生きて使いなさい。
ミミナらしい祝辞だった。葬儀屋稼業の昇級祝いは、墓の値段の話になる。
夜、食堂で茶が出た。
ヴェインが淹れた。酒瓶は、もう棚の奥で何ヶ月も動いていない。彼は自分の湯呑みを両手で包み、誰に言うでもなく言った。
「……全員、何かを隠して乗ってる船だった」
ナナオが顔を上げた。ヨルが、湯呑みの中の自分の顔を見た。
「俺の過去は、骨市で割れた。ドクの署名と、ツクモの仕様は、この航海で割れた。……隠し事が、一人ずつ減っていく」
それ以上は言わなかった。誰の方も見なかった。見なくても、湯呑みの中の茶柱の数まで分かる沈黙だった。残っているのは一人だけだ、と食堂の全員が知っていて、全員が知らない顔をした。それは責めではなかった。むしろ、待つことに決めた者たちの沈黙だった。
ハルは茶を飲み干し、礼を言って、自室に戻った。
机の抽斗の、いちばん奥。七年間そこにあって、誰にも見せたことのないファイルの控えを、彼は初めて机の上に出した。日付と、宙域と、死者の数。千行を超える数列。最初の頁の最初の行は、終戦の四十一日後、外縁第二航路、貨物船、死者十一名。書いた夜の手の冷たさまで、行ごとに思い出せる。最後の頁の最後の行には、引き算が並んでいる。
四千十二、引く、十四。
彼は朝までそれを机に置いたままにした。眠れたのか眠れなかったのか、自分でも分からない夜だった。分かっているのは、隠したまま沈むのはやめてくれ、と言った男の声と、保留します、と言い続けている艦の声と、それから——同じ艦に、聞いた上で答えていない問いが、まだいくつも浮かんでいることだった。
朝、ハルは艦内放送の回線を開いた。
「全員、食堂に集まってくれ。話がある」