第109話 指揮個体

 追うか、見逃すか。
 夜明け前の指揮回線は、追撃論で沸いていた。残存五隻、うち二隻は後衛で消耗している。捕捉できる距離だ、各艦の燃料も弾も残っている、ここで逃せば群れは深部で回復する——全部、正しい算術だった。
「追撃中止を具申します」とハルは言った。
 回線が静まった。
「理由を聞こう、嘱託」と旗艦の戦隊司令が言った。
「退却が統率されすぎています。後衛二隻の交互の殿は、損害下の群れが即興でやれる機動ではない。あの退路は、用意された退路です。退路を用意できる指揮能力は、伏撃も用意できます。追えば、図上演習の四回目を実艦でやることになる」
「では、見逃せと?」
「いいえ。追わずに、先で待ちます」ハルは航法図を回線に流した。「残存五隻の機関波形から、縫航充填の完了まで約六時間。離脱針路と過去の観測から、縫航点はこの残骸帯の縁に絞れます。うちの充填は四十分で終わる。——先回りして、縫航点で待つ。追えば追いつかれない相手でも、待てば来ます。葬列の先回りは、うちの本業です」
「単艦でか」
「単艦だからできる仕事です。正規艦の機関音では、待ち伏せになりません」
 承認は、長い沈黙の後に降りた。図上で三度死んだ男たちは、四度目を紙の外でやりたがらなかった。

 縫航、跳躍、再進入。残骸帯の縁の、重力的に静かな海。
 《送り火》は推進を切り、残骸の中の残骸になった。死んだふりは、この艦のいちばん古い芸だ。待つ間、ハルは官給杭の残数を確かめた。八本支給の、二本消費。市場が枯れて杭の一本に三百万を払った季節が、ふた月前の話とは思えなかった。値札が消えた弾薬は、軽くなったのではない。値段の代わりに何で払っているのかが、見えなくなっただけだ。
 五時間と十一分後、群れが来た。
 五隻——ではなかった。
「六隻です」とツクモが言った。「増えた一隻は、群れの後方に占位。艦型、推定——旧同盟の電子戦巡洋艦。大戦末期の建造です」
「電子戦巡洋艦」
「私と同業です、艦長。同盟側で、私の囮歌と同じ仕事をしていた級です。……退却の指揮を執っていたのは、これと推定します」
 指揮個体。《残響》の同類が、もう一隻。群れの拍子の、中継ぎの一人。
 操舵席で、ヴェインが艦型図を一瞥した。
「……あの級なら、知ってる。終戦の年、うちの戦区に二隻いた。撤退戦の殿で、味方の足音を消す係だ」彼は前に向き直った。「腕のいい船だった。あれに足音を消してもらって、生きて帰った船団がいくつもある。……俺のも、そうだ」
 それきり黙った。七年前に自分を生かした級の艦を、今夜これから殺す。操舵手はその勘定を口にせず、舵の感度だけを二度確かめた。
 そして敵もまた、待ち伏せを警戒していた。巡洋艦の周囲で、艦影が割れた。一つの機関波形が四つに増える。偽装反射——自分の像を残骸帯に三つ撒いて、本体を隠す手品だ。囮歌の同類のやることは、囮歌と同じだった。
「四つの像のうち、実体は一つ。光学での判別は、この距離と残骸密度では不可能です。誤射した瞬間、私たちの位置が割れます。割れれば、電子戦の撃ち合いです。あれは大型で、私は老朽です。判定材料が、ありません」
「ある」とハルは言った。「聴ける耳が、うちにはある」
 医務室から上がってきたヨルは、聴音席に座り、ナナオの計時の合図で目を閉じた。十分の制限。三十七度五分で打ち切り。規定は守られる。守った上で、彼女の十分は計器の六時間に勝る。
 三分が過ぎた。五分。
「……よっつとも、うたってる」と彼女は言った。「おなじうた。じょうずな、にせもの」
「区別はつくか」
「うたは、おなじ。でも」彼女の眉が、わずかに寄った。「いきを、してるのは、ひとつだけ。うたのしたで、ちいさく、いきをしてる。——ひだりから、にばんめ。かげの、おく」
「左から二番目」ツクモが照合する。「偽装反射の配置基準から、最も実体確率の低い位置です。教範の裏です」
「教範の裏が、本体だ。……ヴェイン」
「舵、もらう」
 残骸の影から影へ。推進は使わず、姿勢制御の冷ガスと慣性だけの滑走。巡洋艦の警戒走査が三度、頭上を通った。三度とも、《送り火》は鉄屑の顔をしていた。距離六百。四百。偽像の一つが眼前を横切り、本物の腹が、影の奥に見えた。
「杭、照準よし。……艦長、ご決断を」
「撃て」
 中枢杭は、電子戦巡洋艦の中枢区画を貫通した。
 撃破十九。
 四つの像が同時に消え、一つの艦体だけが残った。残った艦体から、群れの五隻へ伸びていた管制の糸が、一斉に切れた——
 その瞬間、ヨルが悲鳴を上げた。
 短い悲鳴だった。聴音席の上で体を折り、両手で耳を塞いだ。塞いでも遮れない種類の音だということを、艦の全員が知っていた。指揮個体は五隻の中継だった。杭が通った刹那、繋がっていた五つの回線の向こう側の声を、彼女は全部、一度に聴いた。
「ヨル!」
「……だいじょうぶ、じゃ、ない」と彼女は正確に言って、それから意識を手放した。鼻血が一筋、計器の上に落ちた。
 ナナオが抱え上げ、医務室へ運んだ。
「艦隊の分まで聴かせてしもうた」と老医は言った。怒りの置き場のない声だった。「三日は寝かす。文句は受け付けんぞ、艦長」
「……ない」
 指揮を失った五隻は、ばらけて深部へ散った。追跡の具申は、今度は誰からも出なかった。

 沈黙した戦域に、回収艦隊が来るまでの三時間、《送り火》は通信の残滓を拾い続けた。
 切れた管制波の残響、偽装反射の搬送波の尾。その雑音の底に、一度だけ、明瞭な声が混ざった。丁寧語の、女の声だった。
「妹。今度は軍服の人間に飼われるのですか、私たちを狩るために」
 発信源、特定できず。中継経路、不明。それきり、声は二度と来なかった。
 ツクモは応答しなかった。応答しなかった、という記録だけが残った。長い静寂の後で、ハルは一つだけ訊いた。
「……応答したいか」
「照会の意味が、規定から導出できません」と彼女は言った。それから、二拍置いて付け足した。「導出できない照会を、本日二件目として保留領域に置きます。一件目は、姉機の問いです」
 飼われるのか、という問い。彼女はそれを、棄却ではなく保留にした。ハルも、それ以上は言わなかった。言うべき言葉の持ち合わせが、撃った直後の艦橋にはなかった。
 巡洋艦の戦時ログは、回収できた分だけ読んだ。最終命令は、撤退する味方艦隊の秒読みを電子戦で隠蔽せよ。七年前の撤退戦の殿だった艦は、隠すべき艦隊が消えた後も、何かを隠し続けるために電波の海に残っていた。四十日前、その仕事に新しい上書きが来た。隠すものを、また与えられたのだ。
「保存します。百三十四件目です」
 誰も何も言わず、機関の低い音だけが床の下を流れた。

 戦果確認は、回収艦隊の旗艦で行われた。
 特務局差し回しの残骸回収艦が二隻、戦域の墓を几帳面に浚っていく。ハルは嘱託の権限で、積荷目録の写しを受け取った。艦体部材、推進機関、兵装残骸、各々に処分区分と搬出先が几帳面に並んでいる。解体場、廃棄処分場、技術評価班。
 一行だけ、違った。
 自律中枢区画、七基——今回の作戦分と、これまでの回収残骸の集積分。処分区分、機密処分。搬出先の欄は、空欄だった。
「記載漏れですか」と、回収主任の技術士官に訊いた。
「機密区分です。目録には載りません」
「載らないものが、積載重量の計算には載っていますね」
「……機密区分です、嘱託」
 士官は目を合わせずにそう言って、判を押して目録を閉じた。
 帰艦してから、ハルは写しをもう一度開いた。
 空欄。書類の中でいちばん雄弁なのは、いつも空欄だ——七年、書類で生きてきた男はそれを知っていた。中枢区画には、時々、人の形をしたものが入っている。それを知っている数少ない人間の一人として、彼はこの空欄の意味を確かめる義務がある気がした。義務、という言葉が正確かどうかは分からなかった。知っていることと、調べることの間には、まだ距離があった。距離の手前で、彼の指は空欄の上を、一度だけなぞった。