第119話 月給日
第四〇一日、《送り火》はテネブラエ港に入った。
〈野辺送り〉の終結に伴い、送り火隊には三十日の整備待機が下令されていた。《迎え火》と《燈籠》は方面軍の工廠に入渠し、旗艦だけが、整備の名目で古巣の港へ帰ることを許された。条項の運用上、《送り火》の整備に軍の工廠は使えない。使えない理由を、軍は訊かない約束になっている。
桟橋の感触は、十月ぶりだった。
港は変わっていた。部分動員令から三月、還らず艦案件を失った傭兵の何割かは輸送護衛に流れ、何割かは軍の臨時雇いに吸われ、残りは港の酒場で安くなっていた。ギルドの掲示板は輸送と修理と人探しの依頼で埋まり、賞金首の貼り紙は隅の一枚だけ——海賊崩れの小物が一件、八十万cr。葬儀屋稼業の墓場は、葬儀屋ごと国有化されて、跡地はこういう顔をしている。
第四〇二日、端末が入金通知を灯した。嘱託給与、八〇〇万cr。三回目。
帳簿を開く。撃破数、二十三。残高、九、四五三万cr。収入の欄には三月続けて、同じ数字が同じ日付で並んでいる。経費の欄は軍の負担で痩せ、収入の欄は判で押したように太る。
数字は、安定していた。
その安定が、ハルにはいちばん据わりが悪かった。七年間、彼の帳簿は自転車操業だった。賞金が入れば杭代に消え、杭代が浮けば修理が喰う。不安定さは正直だった。稼ぎの隣にはいつも、何で稼いだかが血の色で書いてあった。月給はそれを書かない。八〇〇万という数字は先月も今月も同じ顔をしていて、先月の十五人と今月の静けさを、区別しなかった。
ギルドの窓口で、ミミナが溜まった文書の束を寄越した。
「おかえり、葬儀屋さん。等級は凍結のまま、転送だけ溜まってる」
「窓口は暇そうだな」
「暇よ。暇な窓口っていうのは、誰かが余所で忙しいってことなの」彼女は束の上に肘を置いた。「十五人、だったんですってね。軍の広報は撃破九の方を大きく刷ってたけど、こっちに流れてくる噂は、数字の順番が逆だった。……あんたの部隊の噂は、いつも順番が逆で流れてくる。悪い癖が、うつってるのよ、回廊に」
束の中に、保安機構経由の事務通知が一枚あった。布告第七二一号に基づく優先指定の解除に伴い、凍結中の民事・宗務系請求は受理順に審査を再開する。別紙、当該請求一覧。その三行目に、それはあった。浄火教団による異端審査請求。凍結解除予定、第四四〇日。
導火線は、消えていなかった。軍の優先指定という重石の下で、燃えずに待っていただけだった。重石は作戦の終結と一緒に、静かに退けられていた。ハルは通知を帳簿の裏に挟んだ。残り三十八日、と書き添えて。
保安機構の分署にも、義理で顔を出した。カンプは決裁の山から目を上げず、座れとも言わなかった。
「軍の犬の襟巻きは、よく似合ってるか」
「給料は出ます」
「だろうな」分署長は判を一つ捺し、ようやく目を上げた。「お前の照会書式が、最近うちに回ってこない。寂しくはないが、覚えてはおく。——一つだけ言っておくぞ、葬儀屋。猟犬の値打ちは、獲物がいるうちの値打ちだ。死者の艦隊が片付いた日に、軍がお前の艦の素性をどう扱うか、考えたことはあるか」
「……あります」
「考えてるなら、いい。考えてない顔で月給を数える奴を、俺は三十年でだいぶ見送った」
それで面会は終わりだった。役人の言葉の層の下に何が入っていたのかを、ハルは桟橋までの道で二度考え、二度とも同じ答えが出た。あれは取引相手への、在庫確認だった。
戦没者の壁には、新しい名前が十五、増えていた。
輸送艦の民間乗組九名はテネブラエの徴用船員で、壁はもともと彼らの分を待っていた。軍籍の六名は、誰かが書式を通したことで、同じ区画に並んだ。誰が通したのかを、ハルは確かめていない。要った判子の数なら、知っていた。
ヨルは壁の前に、長いこと立っていた。
外套の頭巾の下から、刻まれたばかりの十五を、上から順に読んでいるのが分かった。読み終えてから、彼女は言った。
「名前が増えるの、わたしは、嫌い」
主語と述語と、感情の置き場の揃った、正確な文だった。十月前、彼女の言葉は単語が一つずつ転がり出るだけだった。文になった最初の感想が、これだった。
「……俺もだ」
「でも、名前が、ないのは、もっと嫌い」と彼女は続けた。「むずかしい」
「難しい」とハルは同意した。それ以上うまい答えを、三十一年生きた側も持っていなかった。
少し離れた柱の陰に、ヴェインが立っていた。壁には近寄らない。この壁に刻まれているのは連合側の死者で、彼の死者の名前は、どこの壁にも刻まれていない。それでも彼は、ヨルが読み終えるまでそこを動かなかった。読む者と、読まれない者の側に立つ者と、両方がいて、壁は初めて墓の仕事をする。
「……飯にしよう」と、操舵手が言った。それが彼の弔辞だった。
夜、ホークから私的回線で通信が入った。用件は特進上申の決裁完了の報せだった。十一個目の判子は職権の優先処理の付箋つきで捺され、十五名の特進と九名の準軍属認定は、全て通った。用件は二分で終わり、残りは用件のない話だった。
「七年前」と、切る間際にホークは言った。「私は調査委員の末席で、お前たち末端を守れなかった。書類の暴力に、書類で負けた。……今度は守る。戦隊も、お前も、お前の艦の中身も、だ」
艦の中身、という言葉の射程を、ハルは一瞬だけ測った。条項で隠した全部のことか、ツクモのことか。測って、やめた。守ると言われて射程を測るのは、七年の癖だ。癖と目の前の恩義のどちらに従うかは、もう何週間も前に決めてある。
「……恐縮です」
「月給は出たか」
「出ました」
「使え。貯まる一方の金は、勘定が合っていない証拠だ」と恩人は言って、回線を切った。
切れた回線の前で、ハルはしばらく座っていた。勘定が合っていない、はその通りだった。八〇〇万の月給で買われているものの目録を、彼はまだ自分で書けない。戦術か、悪名か、七年分の通信記録か、それとも帳簿のつけ方そのものか。買い手は目録を見せない。売り手にできるのは、売った覚えのないものが減っていないか、時々棚を数えることだけだ。今夜の棚卸しでは、減っているものは見つからなかった。見つからないことと、減っていないことは、同じではない。
酒場の隅で、ナナオが一人で飲んでいた。
休暇から戻って以来、老医の軽口は数を減らしていなかった。減っていないことを、ハルは数えて知っていた。一杯目の減りが、前より速いことも。
ヨルがその隣に座った。何も訊かず、何も注文せず、ただ座った。聴音の規定時間の外で、彼女は彼女のやり方で、誰かの音を聴くことがある。老医は何も言わず、空のグラスを一つ、彼女の前に伏せて置いた。酒は注がない。置くだけだ。それで席は、二人の席になった。
しばらくして、ヨルが小さく言うのが聞こえた。
「ドクの、おと。とまって、ない。だいじょうぶ」
「……そうか。そりゃ、何よりじゃ」
何の音の話なのかを、老医は訊き返さなかった。訊き返さない程度には、彼はこの患者に診られることに慣れ始めていた。
ハルは少し離れた卓からそれを見ていた。見ているところへ、ミミナが通りすがりに一言だけ落としていった。
「保険の受取人、まだ空欄よ」
「……知ってる」
消灯前、艦に戻ったハルに、ツクモが言った。
「艦長。本日で雇用は三月、入金は三回。雇用は安定しました」
「そうだな」
「前回の安定した雇用主が艦長に何をしたか、記録は消去しないことを推奨します」
「……七年前の話か」
「七年前の話です。推奨は以上です。おやすみなさい、艦長」
寝台の脇で、ハルは腕章を外した。外して、畳んで、嘱託士官証の上に重ねた。
腕章は外せる。月給は、外せない。入金の通知音は月に一度、几帳面に鳴る。あの音が鳴るたびに、七年が誰かの差し出した形に少しずつ均されていく——そう感じるのは、たぶん癖の方だ。癖であってくれ、と思いながら、彼は灯りを消した。