第130話 閑話・聖騎士の祈り
セルマ・ヴィオは、いまでも収穫前の畑の匂いを覚えている。
乾いた蜂蜜のような、改良麦の匂い。あの匂いの中で交わされた最後の食卓の会話を、彼女は一語ずつ覚えている。来年は灌漑を東に延ばす、と父が言った。先に屋根でしょう、と母が言った。刈り入れ機、と弟が言った。自分が何と言ったのかだけ、十二年経っても思い出せない。家族の最後の食卓で、彼女だけが台詞を失くしたままだ。
それから、警報は鳴らず、光は十四秒ごとに降りた。
二本目まで十四秒。三本目まで十四秒。四本目まで十四秒。怒りで撃つ者は間隔が乱れる。憎しみで撃つ者は燃えるものに執着する。あの艦にはどちらもなかった。畑も、倉も、逃げる人間の列も、同じ一マスとして、手順どおりに焼いた。八百人の入植地で生き残りは六十一人。彼女の家からは、一人。
灰の朝のことも、覚えている。炭になった畑の真ん中で、靴の中の水が冷たかった。蜂蜜の匂いは、もうしなかった。あの朝から十二年、彼女は収穫前の畑に近づいていない。匂いの方は、向こうから来る。眠りの浅い夜に、決まって。
枷なきAIは魂を喰う——教義として教わる前に、彼女はそれを見ていた。だから十二年、彼女の信仰は信じる作業ではなかった。思い出す作業だった。剣を取ってからの十二年は、あの夜を二度と起こさせないための十二年だった。浄火した還らず艦、十六隻。一隻ごとに艦歴を調べ、一隻ごとに理由を確かめ、一隻ごとに祈った。憎むな。十四秒に堕ちるな。祈りは、そうならないための拍子だった。撃つ前に唱え終わるよう、長さまで自分で調えた拍子だった。
拍子は、十六隻のあいだ、一度も乱れなかった。
乱れはじめたのは、艦を焼いているときではない。あの黒い艦の手順を、検分の距離から見ていたときだ。死者の声を写し取り、墓の軌道を整え、七年鳴り続けた救難標識を最後に止めた、あの手つき。焼却は浄め、埋葬は執着——教義はそう言う。教義は正しい。正しいはずの教義が、あの手つきのどこを指して冒涜と呼ぶのか、報告書を書く段になって、語彙が足りなくなった。足りないまま提出した報告書が、いまの彼女の居場所を決めた。
随伴命令は、報告書を出した五日後に来た。
イグナーツ司教座の艦隊に、聖騎士一名、随伴すべし。理由は書かれていなかった。書かれていなくても読める。彼女の報告書は「異端者の手順の観察記録」に紙幅を割きすぎ、断罪の語彙が足りなかった。穏健派に近い、と査定された者を、強硬派の旗艦の目の届くところに置く。見せしめと監視を一枚の書式で済ませる、教団の正確な人事だった。組織の手続きは、いつも正確だ。正確さに不服を申し立てる様式は、存在しない。
旗艦は、祈りの満ちた船だった。
乗員の半分は、彼女と同じものを見てきた者たちだ。機械に夫を喰われた砲術士。入植地ごと家族を失くした機関員。通路ですれ違うたび、彼らは互いの目の中に同じ夜を確かめ、短く目礼する。教団は憎悪の組織だと世間は言う。半分は正しい。もう半分は、ここは誰にも読まれなかった調書の保管庫で、乗員の一人一人がその調書だということだ。セルマはこの船の中で、十二年ぶりに、説明の要らない場所にいた。説明の要らない場所が、これから何をしに行くのかを除けば。
移乗の翌日、若い砲術士が祭壇の間で彼女を待っていた。二十歳そこそこの、まだ祈りの拍子の硬い娘だった。出撃の前に、聖騎士さまに砲の祝別を、と娘は言った。断る理由は様式のどこにもない。セルマは手順どおりに祝別の文句を唱え、焼夷砲の冷たい砲尾に聖印で触れた。娘は深々と礼をした。機械に母を喰われたのだと、礼の角度が語っていた。祝別の言葉は正しく唱えられた。唱え終えた口の中に、灰の味だけが残った。
第四六〇日の夜、作戦要綱を受け取った。
浄火作戦要綱、ヴェスペラ。対象一、漂着せる魂喰いの艦。対象二、当該港湾構造物。砲撃は晩課の刻限に開始。第一射は港湾第三区画——禁制品の市の立つ区画——への直射。住民の退避完了は、砲撃開始の要件としない。
要件としない、の一行を、セルマは三度読んだ。三度読んでも、行は変わらなかった。
民間人の項には、こう書かれていた。殉教者は浄火に抱かれる。
一行で済んでいた。二万一千人が、一行で。
砲撃諸元の頁をめくる。焼夷砲の冷却循環に合わせた、斉射の周期が記されていた。
一四秒。
彼女は要綱を閉じ、開き、もう一度その数字を見た。数字は変わらなかった。技術的な必然だ。焼夷砲の冷却には一四秒かかる。あの夜の艦の光条も、たぶん同じ必然で撃っていた。冷却と充填の都合。それだけのこと。必然と必然のあいだに区別をつける言葉を、彼女は探した。見つかる前に、消灯の鐘が鳴った。
具申は、その夜のうちに出した。
退避猶予七十二時間を求める。対象一の浄火を先行し、対象二は退避状況を確認の上で再令されたし。様式は正規、宛先は司教座、写しは宗務院。聖騎士の権限で出せる、いちばん強い紙だった。
書きながら、自分の手が検分の日の異端者の手順をなぞっていることに、途中で気づいた。退避の確認。名簿の保全。順番を守ること。……気づいて、手を止めず、最後まで書いた。
却下は四時間で戻った。理由の欄には教義の引用が一行。——火は選ばない。選ぶのは人の傲慢である。
翌朝、イグナーツは彼女を祭壇の間に呼んだ。叱責ではなかった。老司教は痩せた手で彼女の具申の写しを示し、穏やかに言った。
「良い信仰は、問いを恐れない。貴官の具申は記録された。教団は貴官のような者を必要としている」
「では、なぜ」
「問いは記録される。だが火は、問いを待たない」と司教は言った。「貴官は十二の歳に、選ばれなかった側に立った。だから選びたいのだ。選り分けたいのだ。その傷は尊い。傷は尊いが、セルマ・ヴィオよ——選り分けは、人の手には余る。選ぶのは神おひとりだ。我らはただ、火を運ぶ」
「あの夜、私の家族を選り分けなかったものも、火を運んでいただけです」
言ってしまってから、彼女は自分の声の冷たさに驚いた。イグナーツは怒らなかった。悲しみさえした顔で、ゆっくりと首を振った。
「あれは魂なき火だ。我らのは、祈りを乗せた火だ。同じに見えるのは、貴官の傷がまだ生身だからだ。……祈りなさい。区別は、祈りの内に与えられる」
この人は答えを持っている、とセルマは思った。どの問いにも、即座に、継ぎ目なく。
答えなかった男のことを、なぜかそのとき思い出した。デブリ帯の闇に向かって、何が違うと問うたとき、あの異端者は最後まで黙っていた。位置を隠すためだと、戦術的にはそう読める。だが彼女は十六隻ぶんの祈りの耳で、あの沈黙の質を聴いていた。あれは隠れている者の沈黙ではなかった。答えを持たない者が、持たないまま、問いを捨てもしない沈黙だった。
すべてに答える司教と、何も答えない墓掘り。
焼くべきものと、そうでないものの境い目が、十二年で初めて、霧の中にあった。霧の中のまま、彼女は配置の時刻を迎えた。
晩課の刻限が来た。
ヴェスペラの鐘が、公開波に乗って旗艦の艦橋まで届いた。古い、良い鐘だった。いつもより長い打ち方なのは、あれが避難の合図を兼ねているからだと、艦橋の誰もが知っていて、誰も口にしなかった。九隻の艦隊が展開を終え、焼夷砲の砲門が、港に向かって順に開いていく。照準諸元が読み上げられる。第三区画。退避完了の報は、要件ではないので、誰も読み上げない。
セルマは配置についた。配置につくことが、命令に服するということだった。
唇の内側で、祈りの文句を唱え始める。十六隻のあいだ一度も欠けたことのない、いつもの拍子で。憎むな。十四秒に堕ちるな。選り分けよ、焼くべきものと——
そこで、拍子が止まった。
砲門の向こうに、燃える家の窓が見えた。水路の冷たさが、十二年ぶりに膝から上がってきた。あの夜、空にいたものは手順どおりに撃った。いま、彼女の足の下にいるものも、手順どおりに撃つ。一四秒ごとに。畑と、倉と、逃げる人間の列に。祈りを乗せた火だと、司教は言った。乗せた祈りが火の落ちる場所を一マスでも変えるのか、要綱のどこにも書いていなかった。
あの夜の火と、いまから放たれる火の、区別がつかなかった。
初めて、つかなかった。
「——浄火、開始」
号令が艦橋に響いた。
祈りの文句は、最後まで唱え終わらなかった。