第154話 退路
撤退戦の盤面を、ハルは全艦に開示した。隠して勝てる数字ではなかった。
「船団の構成。中破巡洋艦一、これを曳航。損傷駆逐艦一。救助艇および脱出艇、十七。徴用補給船二——乗組は民間人だ。送り火隊三隻。船団の最大加速は巡航の四割。縫航ゲートまで十四時間。ゲートの転送充填は周期制で、次の窓を逃せば、その場で三時間待つ」
数字の隣に、もう一つの数字を、彼は自分のためだけに置いた。本作戦の期待収益、ゼロ。救難に賞金はなく、撤退に戦果はなく、調整金が出るかどうかは事後の政治の機嫌次第だった。経費の欄だけが先に埋まっていく帳簿で、それでも引き返す計算は一度もしなかった。葬儀屋の帳簿には、収支の合わない頁が年々増えていた。
戦術図に、追撃の十二隻が表示された。
「追撃個体群十二。駆逐艦級十一と、指揮個体の軽巡級一。彼我の速度差は埋まらない。接触まで七時間。接触後、船団の足では振り切れない。《送り火》は撃ち合えない艦で、《迎え火》は速いが装甲は紙、《燈籠》は牙を持たない。送り火隊全体でも、正面は支えられない。——以上が盤面だ」
沈黙の中で、ツクモが口を開いた。
「最適解を提示します。最も遅い二隻——中破巡洋艦と損傷駆逐艦を遺棄してください。船団の加速は巡航の七割まで回復し、接触前にゲートへ到達します。乗員退去には四時間を要するため、退去の省略を推奨します。艦長、ご決断を」
「却下だ」
「では次善案を。救助艇十七を分離し、救難信号を発信させたまま別針路へ。追撃の損益計算は回収部隊の保護が主項です。分離された遭難者は脅威度が低く、追撃が無視する確率は四割。残り六割の場合でも、本隊の到達確率は——」
「却下」
「では第三案を。本艦が——」
「殿だ」
低い声が、第三案を遮った。
操舵席から、ヴェインが立ち上がっていた。彼は戦術図まで歩き、追撃の十二隻と、機雷原の残骸と、船団の遅い輝点の群れを順に見た。
「追撃の鼻面を挫いて、針路を斜めに散らす。隊列を縦に伸ばせば、十二隻は十二回に分けて来る。七時間は買えんが、七時間ぶんの仕事を薄められる。一隻でいい。数を出せば、船団の盾が薄くなる」
「一隻で、何ができる」
「殿は、頭数の仕事じゃない」とヴェインは言った。「殿は、艦を識る者の仕事だ。追ってくる艦の癖と、逃げる船団の癖と、戦場の床の癖。三つ識っとる人間が、後ろで舵を握る。それだけの仕事だ」
彼は戦術図の機雷原を指した。
「あの機雷は、同盟の敷設教範で置かれとる。撃たれた増援の沈み方で分かる。教範どおりなら、裏の読み方がある。……俺は、敷いた側の人間だ」
誰も、すぐには答えなかった。彼が同盟の撤退戦で何をして、何を仕損じて、その判が七年、首の後ろに残っていることを、この艦橋の人間は知っていた。
「艦は」とハルは訊いた。訊いた声が、自分でも分かるほど硬かった。
「《迎え火》をもらう。足の速さがいる。それと、駆逐艦の操舵系なら、目を瞑っても分かる」ヴェインは初めて、回線の向こうのコルベルへ顔を向けた。「大尉。あんたの艦を貸せ。乗員は全員降ろす」
「お断りします」コルベルの返答は即答だった。「操艦要員だけでも残します。あの艦は単独で回す設計では——」
「設計の話なら、機関出力を艦橋に直結すりゃ済む。三時間でやれる。あんたの機関長なら、二時間半だ」
「人手の話をしています」
「人数の話だ」ヴェインの声は、変わらなかった。「殿の艦には、死ぬ数しか乗せん。一は、一だ。それ以上の数を乗せる理由を、あんたは持っとらん」
回線の向こうで、長い沈黙があった。やがてコルベルは、軍人の声で言った。
「……条件があります。離脱計画を出してください。計画のない殿は、ただの自沈です。自沈に、艦は貸せません」
「出す」とヴェインは言った。「機雷原の縁まで引っ張って、九十分で縫航機関を充填して、跳んでゲートで合流する。死にに行く計画は、立てん主義だ」
離脱計画は、その場で図に引かれた。無理のある線ではなかった。薄氷ではあった。薄氷であることを、全員が知っていて、誰も口にしなかった。
ハルは代案を探した。探す手は止めなかった。《送り火》が殿に立つ案——撃ち合えない艦は、殿に立てば一射で終わる。葬送艦の戦い方は忍び寄る側のもので、引き受ける側のものではない。《燈籠》が立つ案——牙がない。自分が同乗する案——通信士が増えても、舵は速くならない。どの線も、引いた端から消えていった。残ったのは、操舵手の引いた一本だけだった。理屈で消せない線は、理屈で引かれた線だけだった。
ハルは、最後まで許可を出さなかった。
出せなかった。許可という言葉を口にすれば、この計画は彼の命令になる。命令にすれば、結果も彼の帳簿に載る。それを引き受けるのが艦長の仕事だと、頭では分かっていた。分かっていて、声が出なかった。ヴェインも、許可を待たなかった。彼はただ、移乗の支度を黙々と始めた。この艦は、訊かないことで回ってきた艦だった。今夜は、命じないことで回っていた。
移乗までの三時間に、それぞれの仕事があった。
ヴェインは操舵席で、最後の引き継ぎを口述した。《送り火》の推進系の応答の癖、左舷仮外壁の質量の偏り、雪崩で痛めた三番スラスタの遅れ。ツクモが全てを訓練記録の様式で記録した。
「あなたの訓練記録は、全二十一篇、保存しています」と彼女は言った。「応答遅れ時の手動継承の手順も。……あの手順は、要る日が来ないことが最適でした」
「書いた手順は、だいたい要る日が来る」とヴェインは言った。「書かん手順ほど、先に来る。だから書くんだ」
「記録します。操舵手の、最後の教練として」
「最後と決めるな。様式が乱れる」
ツクモは、二秒黙った。
「……訂正します。本日付の教練として」
《迎え火》では、コルベルの機関長が出力系統を艦橋直結に組み替えた。二時間二十分だった。乗員は手順どおりに退艦し、私物を残し、弾庫と消火系を全て生かしたまま艦を明け渡した。最後に降りたコルベルは、艦橋の入口でヴェインに敬礼をしなかった。代わりに、艦の引渡記録の端末を差し出した。
「艦を、お貸しします。返却の様式は、問いません」
「……借りる」
《燈籠》からは、ガロの声だけが来た。
「癖が出たら止めてくれと、昔あんたの艦長に頼んだ男だ。同じ言葉を返す。——止め時を、間違えるな」
「了解」とヴェインは言った。それきりだった。
《送り火》の格納庫で、移乗艇に荷物を積むヴェインの手元へ、ナナオが近づいた。老医は何も言わなかった。診察もせず、説教もせず、ただ酒瓶を一本、荷物の隙間に差し込んだ。同盟領の蒸留酒。封が切られ、グラス一杯分だけ減っている瓶だった。いつかの夜、食堂の卓で注がれて、呑まれなかった一杯の分だけ。
ヴェインは瓶を見て、何も言わずに、荷物の紐を締め直した。瓶は積まれた。
ヨルは、格納庫の隅に立っていた。
行くな、と言える立場の者は、この艦に一人もいなかった。自分が単身で出た艇の整備台が、まだそこにあるのだから、なおさらだった。それでも彼女は近づいて、操舵手の袖を、子供の力で一度だけ掴んだ。
「……わたしの、せいだ」と彼女は言った。「わたしが、かってに、いったから。すくいにいって、それで——」
「違う」ヴェインの否定は、舵の修正のように短く、正確だった。「あの戦隊は、お前と関係なく突っ込んだ。突っ込んだ連中を拾うと決めたのは艦長で、殿に出ると決めたのは俺だ。決めた奴の名前が、それぞれの判の名前だ。……お前の判は、どこにも捺されとらん。背負うな。背負えば、舵が重くなる」
ヨルは袖を掴んだまま、長く黙った。それから、別の言葉を出した。
「……はらで、きるんでしょ」
「そうだ」とヴェインは言った。「腹で切る。教えたことに、嘘はない」
それが別れの言葉の全部だった。約束は、双方とも口にしなかった。約束にできない数字を、双方とも知っていた。
移乗艇のハッチが閉まる寸前、ヴェインは振り返らずに言った。
「……艦長。舵は、あの嬢ちゃんとAIに教えてある」
ハッチが閉じた。
艇は《迎え火》へ渡り、ほどなく、紙の装甲の速い艦が一隻、船団の最後尾から離れて、闇の側へ減速していった。船団は四割の加速で、ゲートへの長い直線を進み始めた。
七時間の砂時計が、落ち始めていた。