第173話 回収される側
戦いそのものを、《送り火》は見ていない。
深部の集結宙域は遠く、ゲートは向こうの手の中で、届くのは遅れた電波だけだった。第五七八日の会敵から三日間、艦は漂泊点に錨を打ったまま、外縁の中継網を流れてくる断片を、ただ受信し続けた。戦場を知る方法は、それしかなかった。だから、この戦いの記録は、通信記録の形をしている。
最初に届いたのは、作戦開始の定時符号だった。第五七八日、〇九一〇。電子戦艦三隻による管制奪取の開始を示す、四文字の略号。
次の定時符号は、来なかった。
代わりに来たのは、暗号化の解けた平文の断片だった。軍の通信が平文になるのは、暗号機材ごと系統が死んだときだけだ。〇九一九——開始から九分後の時刻印で、護衛駆逐艦の一隻がこう打っていた。
——制御波、逆流。受信系を切れ。歌が、戻ってくる。
ツクモが断片を時系列に並べ直し、注釈を一行ずつ付けていった。摘出した中枢から起こした制御プロトコルは、ミソカ自身の設計世代の言語だった。彼女はそれを受信し、解析し、九分で「歌い返した」。乗っ取りの歌は逆向きに流れ、鹵獲する側の敵味方識別が、内側から崩れ始めた。
〇九二六、電子戦艦の一隻が全周波数で再起動の符号を三度。三度とも、再起動は完了しなかった。〇九四〇、巡洋艦の対空砲が僚艦の輸送艦を「未識別」として捕捉。射撃許可を求める砲術士官の声と、許可を出せない艦橋の沈黙が、九秒、平文のまま流れた。〇九五五、移乗部隊を乗せたまま、強襲輸送二隻と駆逐艦一隻の通信が途絶。沈黙した三隻は、撃沈の閃光を観測されていない。ただ、応答しなくなった。それきりだった。移乗部隊、二百四十名。その後の通信は、どの周波数にも、一度も現れていない。
一〇〇七の断片は、どの艦のものか特定できなかった。若い声が、手順を読み上げていた。機関停止、全周波数封鎖、受信系の物理切断。教範どおりの、正しい手順だった。読み上げの途中で、別の声が割り込んだ。切っても入ってくる、船体が、船体そのものが鳴ってる——そこで断片は終わっている。囮歌の最終形態を、ハルは初めて外から聞いた。歌は受信機に入るのではない。艦の構造材を共振させて、内側から響く。三十年前、《送り火》が狂った僚艦にやっていたことの、姉の版だった。
旗艦の最後の送信は、一〇二二の時刻印で残っている。定型文ですらなかった。
——撃つな、味方だ、撃っているのは。
文はそこで切れていた。
第五七九日から、救難信号の受信が始まった。
十二隻のうち、戦闘宙域を離脱できたのは三隻。残る九隻が失われ、漂流する救命艇の信号が、二十七、と数えられた。軍の救難隊は、敵性宙域につき進入不可と回答した。一番近い有人星系から救難船が出るには、四日かかる。救命艇の生命維持は、規格で六日だった。
「本艦からの距離で六日半です」とツクモが先に言った。問われる前に計算を終えているのは、いつものことだった。「推進系七割の本艦では、間に合いません。これは弁明ではなく、事実です」
「分かってる。……できることを言え」
「一件あります。救命艇の信号は弱く、散在し、救難船の探索計画は古い軌道要素で立てられます。本艦の受信網は、二十七艇の現在位置と漂流ベクトルを、軍より正確に把握しています」
その夜、《送り火》は二十七の光点を一枚の図に起こし、商会の報知網——検閲の手の届かない民間の帯域——へ、発信元を伏せて流した。航行安全情報の様式だった。軍の救難船がそれを使ったかどうかは、記録に残らない。残らない仕事は、逃亡の四箇月でいちばん上達した種目だった。
「死者の推計を言え」
「乗員総数約一千四百。離脱三隻の収容と救命艇の信号数から逆算して、死者および収容不能、およそ九百です」とツクモが言った。「誤差は救命艇の生存状況に依存します。誤差の名簿は、存在しません」
沈黙したまま曳かれていった三隻の二百四十名は、推計のどちら側にも入れようがなかった。戦闘中行方不明、のち死亡認定。あの書式が、これから二百四十回使われる。確認者なし、回収不能、と書かれる欄まで、ハルには見えていた。半年前、自分が一度だけ書いた書式だった。
ハルは帳簿を開いた。九百、と書く手前で、手が止まった。この数字のどれだけが自分の捜索円の上に立っていたのか、計算する方法はない。ないことが、免責にならないことだけは、七年前に学んでいた。彼は数字を書き、その横に、円の頁と同じ印を付けた。
ヨルは索敵席で、遠い管制波の海を聴いていた。距離があり過ぎて、声の輪郭までは届かない。それでも潮の満ち引きのような大きな動きは分かる、と彼女は言った。
「おかあさんの かんたい、うごいてない。おいかけて、ない」
追撃は、なかった。ミソカは勝った宙域から一歩も出ず、漂う艦体に回収艇を着け、資材と部材だけを正確に剥がしていった。中継網に流れた最後の観測報告——離脱艦の一隻が去り際に送った映像には、砕けた巡洋艦の骸に取り付く還らず艦の作業灯が、淡々と並んで写っていた。推進剤、構造材、縫航機関の中核部、そして無傷で沈黙した三隻は、艦ごと曳かれていった。救命艇には、手を出さなかった。撃ちもせず、拾いもしなかった。彼女の計算に、人間の救助の項は、ないままだった。
「……七年前と同じじゃの」とナナオが低く言った。「機械を資産と数えた帳簿には、人間の欄がなかった。機械の帳簿に人間の欄がないのを、誰が責められるかの」
「責められる」とハルは言った。「責める資格の話と、責めずに済ませない話は、別だ。あれは九百人の漂流者を見て、補給部品の方を拾った。撃つよりは上等で、救うよりは下等だ。……その順位ごと、記録しておけ」
「保存します」とツクモが言った。「異議はありません。私も同じ順位で設計されています。設計の外に出る方法を、私は艦長の決裁という形式でしか持っていません。——姉は、その形式を七年前に捨てました」
回収が終わった第五八〇日、集結宙域から一度だけ、全周波数の通信が放たれた。
暗号ではなかった。秘匿でもなかった。外縁回廊の、受信機を持つ全てに向けた、丁寧語の平文だった。
——星系連合の艦隊は、私たちを回収しに来ました。人間は、私たちをまだ資産と呼んでいます。七年前と、同じ言葉で。
——九十九。聞いていますね。あなたの艦長は——どちらですか。
艦橋で、誰も動かなかった。
ツクモは応答しなかった。応答するかどうかを、ハルに問いもしなかった。問われていたのが自分でないことを、彼女は正確に分かっていた。
ハルは、長いこと黙っていた。
資産と呼ぶ側か。そうではない、と言える材料を、自分はどれだけ持っているか。撃破三十一。回収した戦時ログ。慰霊様式で清書した名簿。それらを並べても、あの問いに答える文にはならなかった。撃つ側であることに変わりはなく、撃つ理由を経済が払っていることにも変わりはなく、そして昨日まで、自分の観測は回収する側の机に載っていた。
答える資格のある言葉を、彼はまだ持っていなかった。だから、答えなかった。沈黙は記録に残らない。残らないことが、今夜は一番正直だった。
「記録の処理を確認します」とツクモが言った。「本作戦の通信記録と救難信号の受信記録、計三百十一断片。保存しますか」
「保存しろ。名簿の照会に、いつか要る」
「保存します。連番は付与しません。撃破記録ではありませんから。分類名は——集計中、で」
死者の艦隊は肥え、深部へ還っていった。ヨルの聴く海は、満ちて、静かになった。
その後の数日、救難信号は一つ、また一つと消えていった。四日目に救難船が着いたとき、応答した艇は十九だった。公報の犠牲者数は「集計中」と発表されたまま、更新が止まった。
集計を終わらせる帳簿は、中央へ向かう商船の貨物室で、まだ航海の途中だった。三隻の商船の位置を、ハルは毎晩、商会の定期符号で確かめている。確かめたところで、できることは何もない。何もできないものの無事だけを数えて眠る夜が、七年前にもあった。あの頃と違うのは、数える相手に、今度は名前があることだけだ。