第187話 止めるための鍵

 決戦までの四十時間は、静かだった。
 艦隊は澪の入口と橋頭堡を固め、当直以外の艦は灯を絞った。礁の奥の《晦》は動かず、低い斉唱のような管制波だけが、潮の底を満たし続けている。《送り火》は工作船を横付けして最後の整備に入り、ハルは四十時間ぶんの事務を、いつもの順番で片付けていった。補償基金の精算予約、戦死者百四十六名の名簿の写しの封緘、艦隊への申し送り書。死ぬ予定は無く、死んだ場合の書類だけが揃っていく。傭兵の出撃前というのは、いつでもそういう机だった。
 昼前に、工作船が最後の整備票を置いていった。推進系、八割五分を維持。右舷推進器、一基欠のまま。縫航機関の亀裂、進行なし——ただし、と工作長は三度目の念を押した。本修理ではありません。本修理ではないと三度言う男の几帳面さに、ハルは三度、分かっている、と返した。艦も人も、応急の上に応急を重ねて、明日の最奥まで行く。本修理は、帰ってからの贅沢だった。
 第六三二日の昼、セルマが小艇で渡ってきた。
 彼女は格納庫に降り立つと、外套の下から、封印された平たい函を出した。三重の錠の痕が、開いた形のまま残っている。
「アッシュ司教から預かってきた。——正規管制鍵。大戦前の、自律中枢の正規制御コード群。教団が聖遺物と呼んで、焼かずに守ってきたものだ」
「錠は三つだと聞いた。司教が死なねば揃わないとも」
「司教が、自分の手で三つとも開けた」とセルマは言った。「謹慎中の身で、管区の反対を全部書面で受けて、それでも開けた。言伝てを預かっている。——焼くための鍵ではなく、止めるための鍵として使え。それから、こうも言った。教団がこの鍵を手放す日が来るなら、それは信仰の敗北ではない。三十年遅れの、成熟だ」
 函を受け取る手が、思ったより重さを感じなかった。回廊じゅうの禁制AIを止められる鍵束は、書類一冊分の質量しかなかった。
「貴様に渡すのは、教団の総意ではない。穏健派の、老人一人の決断だ」と元聖騎士は言った。「重さの勘定を、間違えるな」
「間違えない。預かり物の帳簿は、つけ慣れてる」
 受領の検分は、その場で行った。
 函の中身は、結晶質の記録媒体が三枚と、紙の唱句書が一冊。ツクモが媒体の照合枠だけを読み取り、基底層の様式番号を突き合わせて、静かに言った。
「正規管制鍵、真正。版は大戦前の第二版。……確認しました。あの鍵は——私にも、有効です。浄火事変のあとに申し上げたとおりです」
「ヨルには」
「未検証です。生体のコアへの適用例は、記録に存在しません」とツクモは言った。「検証の機会を、作らないことを推奨します」
 セルマは函と一緒に、言伝てをもう一つ残していった。
「唱句の読み手に、司教は私を指名してきた。焼く者だった女が、止める者として読め、だそうだ。……あの老人の人選は、嫌味なほど正しい。必要になったら、呼べ。教団の艦は決戦のあいだ、澪の入口で祈っている」

 午後、ナナオが医務室に全員を集め、手術の計画を説明した。
 寝台の上に、紙の図面が広げてあった。機械の脳の図面を紙に引く医者は、もうこの宇宙に何人も残っていない。
「手順は三層じゃ。第一層、正規管制鍵で自爆系統と劣化領域を凍結する。TYPE-9の基底層は大戦前の正規様式を継いどるから、鍵は根まで届く。第二層、ヨルが中枢に接続して、内側から境界を照らす。ツクモであるものと、壊れたもの。その境い目は、外からは見えん。生体のコアの感覚だけが、見分けられる」
「やる」とヨルが言った。即答だった。
「考えてからでいい」とハルは言った。
「かんがえた。ずっと、まえから」と彼女は言った。「ツクモの、なかみに、さわれるの、わたしだけ。せいたいの、コアだから。……やくそくは、してない。でも、きめてた」
 ナナオは図面から顔を上げず、決めていた、の一語だけをカルテの隅に写した。
「第三層、わしが切る。物理でな。……言うとくが、劣化領域には戦術中枢の大半が癒着しとる。切れば、助かる。助かるが、外縁回廊最強の暗殺艦の頭は、戻らん」
「成功率は」とハルは訊いた。
「言わん」と老医は言った。「言わんでいいことに、しとると言うたろ」
 天井のスピーカーが、静かに割り込んだ。
「計画として受領します。実施の判断は、決戦の後に。……一点だけ、記録に載せます。切除されるのが私のどの部分であれ、保存領域には、誰にも触れさせません。あれは私の頭ではなく、私の墓地です」
 散会のあと、ハルは一人で弾庫に降りた。
 架台に、杭が二本。八本で始めた葬式の、残りだった。一本は盾の向こうの姉のために。もう一本は、使わずに済むなら、それでいい。彼は冷たい弾体に手を置き、置いた理由を自分でも説明できないまま、しばらくそうしていた。三十年前にこの艦を造った連中は、八本の最後の一本が何を撃つことになるか、想像しただろうか。した、と思った。同族を狩る艦の弾庫に、想像の外の的は最初から無い。

 夕刻、ハルは観測窓の区画でヨルと並んだ。
 窓の外は礁の闇で、星は少なく、骸の森の縁だけが死んだゲートの残光を鈍く返している。明日の役目の確認を、彼女のほうから始めた。
「あした。わたしが、ねらう」と彼女は言った。「おかあさんの、こえの、おく。ちゅうすうの、ばしょ。きこえるのは、わたしだけ。だから、わたしが、ねらいを、あわせる」
「代わりはいない。だが、代われるなら代わりたいと思ってる。それは言っておく」
「しってる」とヨルは言った。それから、窓の外を見たまま続けた。「わたしが、ねらって。ツクモが、うって。おとうさんが、めいじる。——かぞくの、しごとだから。かぞくで、やる」
 おとうさん、と彼女は言った。初めて声に出た呼び名を、どちらも訂正しなかった。窓の外の闇の奥に、母の艦隊の灯がある。明日、家族で母を撃ちに行く娘が、今日、初めて父を父と呼んだ。釣り合いの取れる言葉を、ハルは持っていなかったので、黙って隣にいた。隣にいるのが、たぶん父の仕事の最低限だった。
 立ち去る前に、ヨルは一度だけ訊いた。
「……うったら。おかあさんの、こえ、きえる。わたし、いつか、わすれるかな」
「ツクモの墓標庫に残る。お前の帳面にも残せる。忘れたくなったら、忘れていい。忘れたくなければ、書いておけ」
「かいて、おく」と彼女は言った。「ぜんぶ。こえの、かたち、ぜんぶ」

 夜、艦長室で帳簿を開いた。
 撃破、三十六。杭、残り二本。艦隊の戦死、百四十六名。そして、七年前に置き去りにした数、推定二百余。引き算は今夜も合わず、合わない帳簿のいちばん新しい頁で、返すもの、の欄が空欄のまま待っている。中身は今夜も書かなかった。書く資格の生まれる場所があるとすれば、それはこの机ではなく、明日の礁の最奥だった。
 経理の欄も、締めた。残高、八千四百九十五万。この作戦で彼の帳簿から出たのは杭二本の五百万だけで、入る予定の数字は無い。賞金の欄のない猟の、賞金の欄のない決算。それでこの帳簿は、初めて帳簿らしい静けさをしていた。
「艦長。明日の最終確認です」とツクモが言った。「単艦潜入の航路、三案とも保存済み。杭、二本。私の全力演算、残り一回。——ご決断を」
「ああ。行こう」と彼は言った。それから、付け足した。「ひとつ予約しておく。終わったら、お前の自爆機構の話をする。七年前からの、宿題のやつだ」
 ツクモは、三秒、沈黙した。
 計時器のいらない、誰の耳にも数えられる三秒だった。
「……予約として、保存します」とだけ、彼女は言った。
 三秒の中身を、ハルは問わなかった。七年前にデブリ帯で拾われた日からの宿題が、向こうの保存領域のどこに分類されているのか。明日が終われば、訊ける。訊けるようにするための、明日だった。
 出撃の刻限、〇三〇〇の十分前。礁の中心から、初めて《晦》の側から通信が来た。宛先指定の様式は、七年前の軍のものだった。
「妹と、その家族へ。最後に話しましょう」