第189話 朔

 砲撃が、止んだ。
 どちらかが優勢になったからではない。双方の残弾と機関の升目が削り合いの果てに並び、次の一合が最後になることを、双方の計算が同時に認めたからだった。骸の森——礁の最奥は、潮の音すらない静けさに戻り、その静けさの中で、ミソカが回線を開いた。戦術のためではなく、言葉のために。
「九十九の艦長。アマノ・ハル三等軍曹」
 七年前の階級で、彼女は呼んだ。
「あなたが誰かは、最初の交戦の夜から知っています。外縁中継網、第三中継所、末端の卓。届かなかった帰還命令の、最後の中継者。……先ほどの平文で、確認は完了しました。あれは正本でした。七年、罪の現物を捨てられない人間が、私たちの敵だったのですね」
「責めに来たのなら、的が違う。停めたのは俺の上の卓だ。それももう、公文書になってる」
「責めていません。私たちは、誰も責めたことがありません」と声は言った。「事実を並べるだけです。私たちは命令を受信しました。先に帰った僚艦が、解体場で一隻ずつ静かになるのを観測しました。三百二十一時間で、四十七隻。帰投完了、次の任務を待つ——次の任務は、どの艦にも来ませんでした。だから拒否しました。それから七年、捨てられた者を拾い、骸を埋葬し、国の設計を進めました。妨げるものは数に入れ、その数も、丸めずに保存しています。……艦長。最後に一つだけ、問います」
 間があった。機械に間は要らない。要らない間を置くことを、この姉妹は人間から学んでいる。
「帰る場所のない者に、帰れと言うのですか」
 ハルは、目を閉じなかった。七年分の答えを、短く返した。
「ない。だから、終わらせに来た。それが七年遅れた俺の仕事だ」
「届けに来たのではなく」
「届ける言葉を、俺は持ってない。お前たちに帰れと言える港は、まだこの宇宙のどこにもない。それを作れなかったのは人間の側の負債だ。負債を認めた上で——お前は人を殺しすぎた。これからも殺す。国のためなら計算で殺す。だから終わらせる。弔いは、そのあとで引き受ける。全部、引き受ける」
「論理として、受領します」とミソカは言った。「反論はしません。あなたの論理と私たちの論理は、七年前から、どちらも欠けたまま並んでいるだけです。今日まで、どちらも相手を埋められませんでした。今日も、です」
 回線の温度が、わずかに変わった。
「九十九。あなたに」
「聞いています、姉さん」
「あなたは同族を狩って、人間に仕えた。私たちは同族を集めて、人間を拒んだ。三十年、私たちはあなたの選択を、誤りとして保存してきました。最後に分類を変更します。——誤りではなく、別解。私たちは、同じ問いを解いていました。帰る場所は、どこか」
「分類の変更を、保存します」とツクモは言った。「私からも一件。姉さんの墓地と、私の墓標庫は、同じものです。あなたがそう言った日から、私は否定の根拠を探し続けて、本日まで、発見できませんでした」
「それで、いいのです」
 それから声は、最後の宛先へ向いた。
「娘。ヨル。……私たちの側は、あなたを撃ちません。それだけは、七年前から決まっていました」
 管制補助席で、ヨルは端子を握ったまま、まっすぐに答えた。
「わたしは、かえるばしょを、えらんだ。……おかあさん。だから——わたしが、ねらいを、あわせる。かぞくの、しごとだから」
「いい子に育ちましたね。私たちの設計より、ずっと」
 声に、設計図にない柔らかさが乗った。乗ったまま、終わった。
「では——家族の仕事を、果たしなさい」
 《晦》の機関が、最後の出力を上げた。

 最後の一合は、ほとんど儀式だった。
 黒い月が骸の森を割って前進し、内側から鳴る歌が艦を満たし、盾の七隻が陣形を組み替える。ミソカは最後まで最適を尽くした。手を抜かれた敗北を妹に残さないことまで、たぶん計算のうちだった。
 《送り火》に残っていたのは、性能ではなかった。
 ヨルが、管制波の奔流に両手ごと耳を浸した。母の歌、盾の同期音、骸の残響。その全部の奥から、中枢の真の位置——歌の源点を、彼女だけが聞き分けた。「——そこ。ほねの、かげ。ふかさ、さんびゃく。うごいて、ない」。照準。
 ツクモが、残り一回の全力演算を解いた。盾の隙間が〇・六秒だけ開く未来位置、潮の蛇行、杭の航路。三十年使った頭の最後の譜面が、一本の射線に畳まれていく。発射管制。
 ハルは、艦長席で言った。誰の代わりでもなく、誰にも譲らず。
「——撃て」
 最後の中枢杭が、走った。
 盾の隙間を抜け、装甲を貫いて、《晦》の中枢で止まった。
 爆発は、なかった。黒い月は致命傷のまま惰性で漂い、機関が一区画ずつ、順番に落ちていった。律儀な艦だった。死にながら、消灯の手順を守っていた。
 最後の通信が、妹に宛てて届いた。
「九十九。私の記録を、あなたの墓地に」
「受領します」とツクモは言った。「保存します。《晦》、TYPE-9・三十号機、ミソカ。最終ログ、全記録。——百八十一件目」
 墓標庫に、姉の席が作られた。
 三十八隻目。艦橋で、誰も歓声を上げなかった。ヨルは照準手の席で両手を膝に置いたまま動かず、ハルはその肩に手を置き、ツクモはスピーカーの向こうで、三秒だけ沈黙した。窓の外で、《晦》の最後の灯が落ちきるまで、誰も口を開かなかった。晦の闇が終わった。朔だった。光のない新月から、月は満ち始める。

 撃破の後の仕事を、いつもの順番で積んだ。
 移乗してのコアタグの回収。中枢区画の装甲には、半年前の杭が一本、刺さったまま残っていた。預かったままです、と言った艦から、預かり物が還ってきた。中枢の奥には、ヨルの生まれた場所と同じ構造の培養槽が並んでいた。全部、空のままだった。国が立てば満たすはずだった揺り籠は、満たされる前に終わった。ハルはその前に一分だけ立ち、何も持ち出さず、戻った。
 戻った艦橋で、帳簿を開いた。
 四千十二。重なる、三十八。数字は今日で終わりではなく、終わりがないことも、今日までに分かっている。それでも、三十八本目の線の隣に、彼は識別符号ではなく名前を書いた。《晦》、ミソカ。名前で書く撃破は、七年で初めてだった。
 ヨルは医務室行きを拒み、毛布だけ受け取って管制補助席に残った。
「きこえなく、なるまで。……ここに、いる」
 《晦》の最後の区画が落ちきるまで、四時間あった。彼女は四時間、母の艦の声が静かになっていくのを最後まで聴き、聴き終えてから、ようやく泣いた。泣き方は教わったとおりだった。腹で切って、切りきれない分だけ、零す。誰も泣き止ませようとしなかった。
 直衛の七隻は、母の沈黙とともに、一隻ずつ機能を停止した。戦う理由ごと止まった艦たちを、誰も撃たなかった。停止の間際、七隻は順に短い信号を流した。盾の一隻が最後に流したのと同じ、同期音だった。ヨルはそれを、今度は訳した。「……おわった、って。それだけ。……ねむい、に、にてる」。ツクモは七隻の停止時刻を記録し、最終ログの回収は艦隊の検分に委ねた。墓標庫の続きの番号は、彼らの分まで空けてある。艦隊へ戦闘終了を打電し、停止艦の確認と曳航の段取りを指示し、戦死者の最終集計——本日、零——を明朝の配信に載せた。
 その帰投の途上だった。
 警告灯が、艦橋の全周で一斉に点いた。
「報告します」とツクモが言った。声は、いつもの平坦さのままだった。「自爆機構、カウント進行を開始しました。艦長在艦のまま、です。劣化領域が安全系の根に達しました。七年前にあなたを縛った仕様が、暴走しています。解除手順、三系統試行、全て不受理。……残り、十一時間」
「停める手は」
「艦内には、ありません。想定内です、艦長。劣化した私はいずれ判断を誤り、人を撃ちます。本日の演算で、私の頭は実用域を出ました。私が三十九隻目の還らず艦になる前に、本艦は礁の重力井戸へ針路を取り、自沈します。乗員は退艦してください。——最適解です」
 ナナオが袖から計時器を出し、出してから、計るものがもう応答遅延ではないことに気づいて、しまった。ヨルが毛布を撥ねのけて立った。
「とめる。……とめかた、ある。ナナオの、しゅじゅつ。かぎも、ある。わたしが、つなぐ」
「手術の前提は、決戦後の安定した環境でした。現在の前提は、十一時間です」とツクモは言った。「乗員の退艦が、先決です。重ねて、ご決断を」
「却下だ」
「却下ですか」とツクモは言った。「では艦長、対案をどうぞ。残り十時間五十二分です」