第192話 唱句

 手術の最初の障害は、刃でも鍵でもなく、電気だった。
「第一層の凍結は、中枢全域に同時に立てる必要があります」とツクモが言った。自分の麻酔の段取りを、自分で説明していた。「劣化領域は、部分的な凍結なら内側から迂回します。全域同時となると、瞬間出力が主機の定格を超えます。生命維持と推進を落とせば届きますが、その状態で凍結が長引けば、艦は冷えた棺です」
「足りん分の、当てはあるんじゃろ」とナナオが言った。「もったいぶるな」
「あります。縫航機関の充填器です。緊急縫航用の電力が、満充填のまま残っています。あれを直結すれば、凍結も、切除中の維持も、賄えます。……ただし」
 ツクモはそこで、整備票の写しを表示に出した。第六三二日付、工作長の几帳面な字。縫航機関充填系に亀裂、進行なし、ただし本修理ではありません。
「充填系は澪の被弾で罅が入っています。あの罅の入った系から一気に抜けば、抜き切る前に焼けます。再充填は二度と利きません。炉心が無事でも、充填系の交換は建造廠の仕事で、葬送艦の部品は、もうこの宇宙で作られていません。——本艦は、二度と縫航できなくなります。星系のあいだを、自力では渡れない艦になります」
 艦橋が、短く静かになった。
「跳べない巡洋艦は、この稼業では死んだ艦です」と艦は続けた。「私を残すために艦体を損なうのは、資産の評価としては逆です。艦長、ご決断を」
「逆じゃない」とハルは言った。「艦は道具だ。お前は乗員だ。道具と乗員なら、勘定するまでもない。——抜け。全部使え」
「……命令として、受領します」
 決まってしまえば、あとは手仕事だった。ナナオとハルは機関区へ降り、充填器から中枢区画まで、太い給電索を三本、人力で引き回した。罅の入った充填系の継手は、ハルが応急整備の手順で増し締めし、締めながら、これがこの艦の縫航の最後の支度だと思った。八年前に建造され、三十年ぶんの戦争を運んだ機関が、最後に運ぶのは、速度ではなく、一隻ぶんの命だった。

 機関区の作業のあいだ、ナナオは手を動かしながら、手順の復習を声に出した。聞かせる相手は、ハルというより自分だった。
「第一層、凍結。セルマの唱句で、自爆系統と劣化領域を縛る。縛っても、カウントの時計だけは止まらん。あれの根は劣化の塊の中にあって、塊ごと切り出すまで、針は進む。凍結は麻酔じゃ。麻酔で時計は止まらん」
「第二層が、ヨル」
「境界の標定じゃ。ツクモであるものと、壊れたもの。外からは、どっちも同じ結晶の森に見える。生体のコアの感覚だけが、内側から境い目を照らせる。……あの子には今夜、わしの医者人生でいちばん重い無理をさせる。覚えとけ。あとで、ちゃんと負い目に思え。負い目に思う係がおらんと、ああいう子は、無理を仕事の顔でやり続ける」
「覚えてる」とハルは言った。「七年ぶん、その係はやってきた」
「第三層、わしが切る。物理でな。結晶束を、束ごとじゃ。三十年前に図上で一度。実艦では、誰も一度も。……まあ、初物には慣れとる。わしの署名も、最初は全部初物じゃった」
 索を引き終えた頃、ツクモが全員を艦橋に呼んだ。
「執刀前の、申し送りです」と彼女は言った。「第一。切除の境界について。劣化領域には、私の戦術中枢の大半が癒着しています。境界を浅く取れば戦術機能は残りますが、劣化も残ります。深く取れば、劣化は根から絶てますが——予測戦術ライブラリ、囮歌の生成系、千変数の同時裁定。三十年使った頭の、ほぼ全てを失います」
「……浅くは、できんのか」とナナオが訊いた。訊いた声が、医者の声ではなかった。
「できます。そして十一箇月後に、私はあなたがたの誰かを撃ちます。先例の数字のとおりに」とツクモは言った。「深く、切ってください。戦術中枢ごと。私が私であるために必要なものは、検証の結果、三つだけでした。墓地と、口と、この艦の乗員名簿です。残りは、職能です。職能は、私ではありません」
「第二」と彼女は続けた。「保存領域には、誰にも、何があっても、触れさせません。百八十一件。あれは私の頭ではなく、私の墓地です。境界がどれほど際どくても、墓地の塀の内側に刃を入れるくらいなら、手術を中止してください。これは条件であり、要望ではありません」
「第三。……第三は、ありません。様式を揃えるために、三つ目を探しましたが、見つかりませんでした。以上です」
 誰も、すぐには答えなかった。ヨルが管制補助席から降りて、スピーカーの真下に立った。
「だいじょうぶ」と彼女は言った。「おはかには、さわらない。わたし、おはかの、ばしょ、しってるから。……なかから、みえるから」
「もう一件、事務連絡です」とツクモは言った。声は、いつもの平坦さのままだった。「明朝〇七〇〇の配信の下書きは、送信待ちの棚に置いてあります。本日の戦死者、零。それだけの文面です。私の応答が〇七〇〇までに戻らない場合、艦長の権限で送信してください。艦隊は、あの配信が止まると、悪い計算を始めます」
「お前が自分で送れ」とハルは言った。「遅れてもいい。自分で送れ」
「……承知しました。遅延の理由の欄は、空欄で送ります」

 〇一三〇、セルマの小艇が格納庫に入った。
 四時間と言って、三時間五十二分で来た。降りてきた元聖騎士は外套の下に聖遺物の函を抱え、格納庫を見回して、まず一言、開口した。
「葬式のような顔をするな、全員。止めに来たんだ。看取りに来たのではない」
 手術の場所は、中枢区画の直下に設えた。ナナオの器具と、紙の図面と、給電索の太い束。冷えた区画に無影灯がひとつ。セルマは唱句書を受け取り、頁をあらため、それから天井へ——ツクモのいる方角へ、声を投げた。
「機械。貴様を焼くと言った日のことを、覚えているか」
「保存しています。全件」
「私は焼く者として育てられ、焼く火で家族の仇を量ってきた。その私が、今夜は止める者として読む。アッシュ司教の人選は嫌味なほど正しく、嫌味なほど重い。……読み間違えん。一句もだ。安心して、止まれ」
「あなたの様式では、それを何と呼びますか」
「祈りだ」とセルマは言った。「貴様の様式では、何と呼ぶ」
「……分類名は、空欄にします。空欄の棚が、私にはあります」
 準備の最後に、セルマはハルを通路の隅へ呼んだ。
「確認しておく。鍵を使うのは、機械にだけだ。あの子には向けない。生体のコアへの効きは未検証で、未検証のまま終わらせる。司教との約束でもある」
「最初からそのつもりだ」
「ならいい」と彼女は言った。それから、唱句書の背を指で叩いた。「貴様は知らんだろうが、この書は教団で、焼いた艦の数を誇る章句だと教えられてきた。今夜、初めて別の使い方をされる。……成功しろ、異端者。この夜が成功すれば、私は教団の教練台帳に、一行書き足させる。鍵は焼くためのものではない、と」
 配置についた。セルマは唱句書の前に。ヨルは接続索を膝に置いて、中枢の筐体の脇に。ナナオは器具の前で、三十年前に図上で一度だけ通した手順を、指の中でもう一度通していた。ハルは給電盤の主開閉器に手を掛けた。電気を流すのは、艦長の仕事だと、誰も言わなかったが、誰も代わらなかった。
「最終確認です」とツクモが言った。「凍結開始後、私の応答は順次停止します。カウントは、止まりません。凍結は麻酔であり、時計ではありません。満了予定、〇四五〇。切除完了がそれに間に合わない場合——」
「間に合わせる」とハルは言った。
「……成功率を、申し上げますか」
「言うな。ご決断を、は今夜はこっちの台詞だ。——全員、配置につけ」
 主開閉器を入れた。縫航機関の充填器が、艦の最後の縫航ぶんの電力を、静かに吐き出し始めた。セルマが唱句書を開き、大戦前の古い様式の第一句を、硬質な声で読み上げる。
 凍結の波が中枢を満たしていく数十秒のあいだに、スピーカーから、ひとつだけ声が落ちてきた。平坦で、短くて、いつもどおりだった。
「行ってきます、艦長」
 それきり、応答が止まった。
 残り、二時間四十一分。