第200話 送り火

 係留墓地は、テネブラエ港の外周にある。
 大戦で退役した艦々が、解体の予算も再就役の見込みもないまま、静かに繋がれている区画だ。巡洋艦が三隻、輸送艦が十数隻、艦級も分からないほど改装を重ねた老兵が数隻。どの艦も灯を落とし、係留索だけが律儀に張られて、港の灯を遠くに映している。墓地と呼ぶのは港の人間の俗称で、公式の名称は第三係留区という。公式の名称を使う者は、誰もいない。
 《送り火》がそこへ曳かれていったのは、戦没録の公開の翌週だった。
 移動の朝、埠頭には少しだけ人が出た。誰が報せたわけでもない。ミミナは窓口の遅番を代わってもらって来ていたし、カンプは「巡回の途中だ」と言い張る位置に立っていた。曳船が索を張り、黒い艦体がゆっくりと岸を離れるとき、誰も帽子は取らなかった。死んだ艦の見送りではないからだ。眠る艦の引っ越しに、取る帽子はない。
 係留墓地の指定の区画に、艦は収まった。
 索が固定され、主機が落とされ、艦内の電力は係留区の給電に切り替わる。最後に残った仕事は、銘板だった。係留区の規定で、繋がれる艦は船首近くに退役銘板を掲げる。艦名、艦級、建造年、退役年。様式どおりの四行を、ハルは様式どおりに発注し、取り付けの日に見に行って、四行の下に五行目が彫られているのを見つけた。
 ——葬儀屋。
 発注書にない一行だった。彫った職人を問い詰めると、職人は悪びれずに言った。港の連中の寄せ書きみたいなもんだ、消せと言うなら消すが、彫り直し代はあんた持ちだぜ。ハルは銘板を見上げ、長いこと黙って、それから言った。
「……いい。その名は、この艦のものだ」
 八年、彼はその名を嫌い続けた。否定もしなかった。悪名は黒い艦と共に働き、黒い艦と共に畏れられ、最後の年に、誰かの墓参りを助ける名前になった。なら、艦と一緒にここで眠るのが筋だ。これからの彼の仕事には、もう少し地味な名前がいい。

 それから数ヶ月が、事務で過ぎた。
 精算は長かった。特命の残務、補償係争の最後の八分、サルベージ権の分配の異議申し立てが二件。報奨の打診がもう一度来て、もう一度断った。ギルドの除籍手続きは、最後に回した。窓口で書式を出すと、ミミナは受け取る前に一度だけ訊いた。
「ほんとうに除籍? 休眠って手もあるのよ。第二級の席は、戻りたくなっても戻れないわよ」
「猟はもうしない。傭兵の登録だけ残すのは、席の無駄だ」
「……了解。除籍理由の欄は?」
 書式の選択肢には、引退、転属、死亡、その他、とあった。ハルは、その他に丸をつけ、自由記載の欄に、転業、と書いた。ミミナは判を捺し、捺してから、台帳の備考欄に何かを書き足した。何を書いたかは、見せてくれなかった。彼女の私的な名簿に、また一行増えたのだろうとだけ、思った。
 転業先の艇は、港の中古市で見つけた。
 全長三十一メートルの縫航艇。元は鉱区の調査船で、船齢は若くないが機関は素直、艇体は頑丈、武装はない。値は二千六百万。艤装と改修に七百万。ツクモのコアの移設には、ナナオが中央の往診から帰るのを待って、さらに二週間かかった。管制席の筐体に収まったコアは、巡洋艦時代の何百分の一の領域で、それでも保存領域だけは、墓標庫ごと、欠けずに移った。墓地の引っ越しだけは、何があっても丁寧にやれ——施工の注文は、その一点だった。
 艇の名前は、ヨルが付けた。
 命名の権利を誰が決めたわけでもない。ただ、登録書式の艇名の欄を前にして、全員が自然に彼女を見た。彼女は何日も前から決めていたらしく、即答だった。
「《燠火》」と彼女は言った。「おくりびが、もえおわった、あとにのこる火。よあけまで、きえないやつ。……ナナオが、おしえてくれた。ことばのほう。火のほうは、まえから、しってた」
 誰も対案を出さなかった。出す理由がなかった。

 出港の前夜、ハルは艦長室——もう艦長室ではない、係留された艦の、ただの一室——で、最後の荷造りをした。
 持っていくものは少なかった。帳簿。ヴェインの遺品のうち、操舵手袋と星図。《グロム》機関科からの手紙。保安機構の様式の控え一式。荷物は鞄二つに収まり、八年の航海の私物としては、我ながら少ないと思った。傭兵の財産は帳簿に載らないところに溜まる、と誰かが言っていた。載らない分は、全部持っていける。重さがないからだ。
 最後に、帳簿を開いた。
 四千十二。重なる、三十八。置き去りにした数、推定二百余。撃破の頁は、これでほんとうに動かなくなった。完済はなかった。最後まで、なかった。罪は公的には雪がれ、紙面は彼を英雄と書き、議会は感状をくれた。どの紙も、四千十二を一人も減らさなかった。だから帳簿は閉じない。閉じない帳簿を持って歩く係が、この宇宙に一人くらいは要る。八年やって、向いていることも分かった。
 彼はペンを取り、一年半空欄だった欄の前で、今夜は止まらなかった。
 返すもの。
 ——帰還命令。
 四文字だった。書いてみれば、最初からそれしかなかった。撃つことは、終わらせることだった。終わらせる仕事は、終わった。残っているのは、届け損ねたものを届ける仕事だ。七年前の夜、彼の卓から先へ行けなかった一行を、宛先の数だけ、一隻ずつ。受け取らない艦もいるだろう。受け取れないほど壊れた艦もいるだろう。そのときは、また誰かが撃たねばならず、その帳簿も誰かが持たねばならない。持ち方なら、知っている。
 経理の頁も、最後に締めた。
 残高、四千百三万。八年の猟の純益としては、笑うほど少なく、小さな艇の航海資金としては、数年ぶんある。艇の燃料は補給一回で十一万、保険と係留料は月に九万。巡洋艦を飼っていた男の帳簿は、一桁ずつ身軽になった。収入の欄の見込みは、航路調査の委託料が少々と、あとは空欄。空欄の収入で空欄の罪を返しに行く決算書に、ツクモは「健全性の評価、不能。前例なし」という所見を付けた。前例のない帳簿だけが、彼の持ち物の中で唯一の新品だった。
 帳簿を閉じ、鞄に入れた。

 出港の朝は、晴れていた。宇宙港に晴れも曇りもないが、そういう光の朝だった。
 《燠火》は第七桟橋の端に泊まっている。小さな艇だ。巡洋艦の格納庫にも入る寸法で、武装はなく、船足も平凡で、ただ、索敵と通信の装備だけは身の丈に合わない上等が積んである。乗員は三名と、一機。
 ナナオは医務と整備。中央の保管庫で診てきた数基のコアの経過観察が、彼の新しい往診先のいちばん遠い丁目になる。「開業医はの、患者のおる方へ引っ越すもんじゃ」と老医は言った。ヨルは索敵と、操舵。操舵の腕は、もう艇の正規の一系統目だった。いつか必要になる日のため、ではなく、毎日必要な腕として。管制席のツクモは、艇の機関と生活系を受け持つ。戦術機能はない。口は、減っていない。
 出港届は、ハルが自分で書いた。
 艇名、《燠火》。船籍、テネブラエ。目的、外縁回廊深部の航路調査および——様式の目的欄は二行しかないので、二行目は短くした。残存自律艦の所在確認と、通信文の配達。乗員名簿には三人の名を書き、三行目の、ヨル、の姓の欄は空欄のままにした。家の名は、艇の名で足りる。
 職業欄には、少し迷って、こう書いた。
 配達人。
 受理印を捺した港湾の窓口員は、欄を二度読み、何も訊かなかった。訊かれたら答える用意はあった。届け先の一覧なら、鞄の帳簿に揃っている。眠ったまま礁を漂う哨戒個体が一隻——あれが最初の配達先だ。ガロの台帳に載った深部の七十隻。回廊のあちこちで観測されたまま消えた、名もない輝点たち。それから、まだ誰も数えていない艦。
 届けるものも、決まっている。
 七年と数ヶ月遅れの帰還命令。ただし、今度の命令文には、続きの一行を足してある。役所と議会を半年押して、ようやく通した一行だ。帰投先、テネブラエ港第三係留区。処分、なし。係留墓地は、もう退役艦だけの場所ではない。帰ってきた艦を繋ぐ岸壁が、一隻ぶんずつ、空けてある。最初の岸壁の隣は、黒い葬送艦の指定席だ。帰り着いた還らず艦は、三十八隻を沈めた艦の隣で眠ることになる。それがいいことなのかどうか、ハルには分からない。分からないことは、保留の棚へ。考える時間は、航海の長さだけある。
 桟橋に、見送りは桟橋の作法どおり、少なかった。
 ミミナが遅番前に手を振り、カンプが巡回の途中の顔で頷いた。それだけだった。それだけが、ちょうどよかった。
 《燠火》は係留索を解き、桟橋を離れた。
 港の外周を回る針路で、艇は係留墓地の脇を通った。観測窓の向こうに、黒い艦体が見える。灯を落とし、係留索に繋がれて、銘板に五行を刻んだ艦。八年前、デブリ帯で終わりたくないと思った艦は、いま、終わらないまま眠っている。ヨルは窓に額を寄せてそれを見送り、ナナオは見送らずに薬品の棚卸しを続け、ツクモは——三秒だけ、沈黙した。
「管制機ツクモより、退役艦《送り火》へ」と、それから彼女は言った。送信先のない送信だった。「留守は、預かりました。……行ってきます」
 艇は加速に入った。
 ハルは操舵席の後ろに立ち、前方の闇を見た。外縁回廊の深部、ヴェインの星図のいちばん端の、名前の刷られていない暗がり。地図はそこで終わっている。終わっている場所から先が、配達区域だった。
「艦長」とツクモが言った。「針路の、ご決断を」
「艦長じゃない。艇長だ」
「では、艇長。——ご決断を」
 ハルは、暗がりを指した。
 ヨルが復唱し、針路を合わせ、加速の前に、操舵桿を指で一度、軽く叩いた。誰の癖かを、誰も言わなかった。言わないまま、艇の手順の一部だった。
 帰還命令は、まだ全部は届いていない。
 小さな火がひとつ、夜の側へ出ていった。