第006話 撃ち合わない艦
「交戦を承認する。制約は維持。——実行」
「了解しました。囮歌、本旋律に移行します」
最初に起きたことは、発砲ではなかった。
三番艇の敵味方識別表の中で、一番艇の応答符号が「未確認」から「不明艦」に変わった。同時に、一番艇のリンク上では、三番艇の位置が実際より二・二キロ岩塊寄りに表示されている。二番艇は僚艦二隻の中間で、両方から微妙に矛盾した位置情報を受け取り続けていた。
三隻は止まった。獲物の航跡を追う隊形が乱れ、相互確認の通信が飛び交い始める。ツクモはその通信さえ歌の素材にした。一番艇の照会に、三番艇の符号で偽の応答を返す。応答の中身は規格通りで、ただ、座標だけが嘘だった。
「傍受通信を音声に出せるか」
「出せます。推奨しません」
「出せ」
スピーカーから、ノイズ混じりの怒声が流れ始めた。おい三番、位置を寄越せ、お前どこにいる。こちら三番、送ってる、届いてないのか。届いてる数字がおかしいんだよ。同盟訛りの、疲れた男たちの声だった。七年前なら、敵の声だ。いまは、ただの困っている人間の声だった。ハルは一分聞いて、音声を切らせた。推奨しません、の意味は一分で分かった。声を聞いてしまえば、輝点は輝点でなくなる。
「一番艇、機動開始。『不明艦』に対する威嚇射撃の構えです」
「向かう先は」
「三番艇の、実際の位置です」
ハルはスクリーンの中でそれを見た。一番艇の軽質量砲が閃き、岩塊の間を弾体が走った。狙ったのは「不明艦」のいるはずの空域——リンク上の幻影。だが幻影の二・二キロ横には、本物の三番艇がいた。弾体は三番艇の至近を抜け、岩塊で砕けた。
三番艇から見れば、僚艦のいるはずの方向から、突然撃たれたことになる。
「三番艇、応射」
通信が悲鳴になるのが、傍受波形だけで分かった。誰何、罵声、符号の照会、その全部に偽の応答が混ざり込んで、誰も互いの言葉を信用できなくなっていく。嘘は三隻の間にもう一隻、見えない艦を作っていた。それぞれの艇が、それぞれ別の場所にいる「裏切り者」と戦い始めていた。
三番艇の応射は一番艇の至近を掠め、一番艇は本格的に回避機動へ入った。
デブリ帯の岩塊の間で、回避機動は賭けになる。
一番艇は二発目を避け、三発目を避け、四発目を避けた先の岩塊に、艇首から入った。
爆発はなかった。光条戦の派手さも何もなかった。秒速数百メートルの艇体が岩に触れ、艇首が潰れ、潰れた断面から空気と燃料が白い霧になって噴き、艇体が裂けながら岩を滑って、止まった。
「一番艇、構造崩壊。生命反応の途絶を確認。乗員四名、即死と推定します」
ハルは、何も言わなかった。
無力化に限る、と彼は命じた。ツクモは一発も撃っていない。撃たせたのは敵自身で、岩に当てたのは敵自身の操縦だった。制約は守られている。命令の文面の上では。
文面の上では。
「記録のため確認します。一番艇の結果は、交戦制約に抵触しますか」
「……あんたはどう判定してる」
「当機の判定では、抵触しません。死因は操縦員の判断です。当機は彼の見る世界を変えましたが、操縦桿には触れていません」
「その理屈で、あんたの帳簿は軽くなるのか」
「当機に帳簿はありません。あるのは記録だけです」
記録と帳簿の違いを問い返す余裕は、なかった。戦闘はまだ続いていた。
「二番艇、本艦の方位へ機動。受動センサーで本艦の輻射を拾った可能性があります。光条による機関部の無力化が可能です。射程内です」
「乗員区画に当てるな」
「機関部のみ。保証します。本艦の光条は対艦戦闘では『限定的』ですが、静止目標に等しい相対速度の小艇が相手なら、外科手術が可能です」
「……撃て」
近接光条が、一度だけ瞬いた。
二番艇の機関部が白熱し、推進が死んだ。艇は慣性のまま、ゆっくりと岩の流れに乗っていく。動力を失った艇内で非常電源が立ち上がるのが、輻射の変化で読めた。生きている。漂っているが、生きている。
「二番艇、航行不能。生命維持は非常系で稼働中。乗員六名、生存」
「ミサイルは」
「発射機は通電しましたが、発射には至っていません。機関停止により火器管制も落ちました。光条の照準点は、その判断を織り込んで選定しています。機関部の第三隔壁直後——火器管制の主電路が機関冷却系と束ねられている位置です。同盟の艇載哨戒艇は全艇この配線です。建造所が配線図を使い回したためです」
「……配線図まで覚えてるのか」
「予測戦術ライブラリの収録範囲です。同盟の量産艇は、設計の節約が急所の節約になっています」
敵の艇を造った工廠の手抜きが、七年後に乗員六人の命を救った。因果の帳簿はどこまでも出鱈目だった。
初めて自分の命令で撃った一発が、いまのところ誰も殺していない。その確認を、ハルは自分が必要としていることに気づいた。指揮官失格の確認だった。まともな指揮官は、撃った後にそれを数えない。数える者は、長くは指揮できない。
「三番艇は」
「観測中です。——三番艇、停止。本艦を目視した模様です」
囮歌の混乱の中で、三番艇だけが冷静さを残していたのだろう。あるいは一番運が良かったのか。リンクを捨てて目視に切り替えた判断は、三隻の中で唯一まともだった。そのまともな目が、岩塊の陰から滑り出た《送り火》の黒い艦影を、正面に見た。
巡洋艦級の質量。識別信号のない、光を吸う艦体。僚艦が一隻岩で死に、一隻が漂流に変わった戦場の真ん中で、音もなく現れた黒い艦。
三番艇は、反転した。威嚇も、捨て台詞の通信もなかった。機関を全開にして、来た方向へ、振り返りもせずに逃げた。
「追撃可能です。機関部への光条照準、完了しています」
「……追うな」
「確認します。三番艇は本艦の艦影と交戦記録を持ち帰ります。本艦の存在の秘匿性が低下します。将来の脅威度は、放置により上昇します」
「追うな。逃げる敵を背中から撃つ理由が、こちらの帳簿にはまだない」
「『まだ』を記録しました」
ツクモは引き下がった。三番艇の輝点が、戦域図の端で小さくなり、消えた。
「交戦終了。戦果を報告します」
声は、点呼のように平坦だった。
「撃破一。無力化一。離脱一。本艦の損耗、ゼロ。弾薬消費、光条一射分。所要時間、介入開始から二十二分。仕様通りです」
仕様通り。
その四文字を、ハルは口の中で繰り返した。何の仕様だ、と問えば、答えは機密事項です、だろう。だが今日の戦闘が証明書になっていた。欺し、同士討ちさせ、損耗ゼロで終える。この艦は仕様通りに動いた。つまり、こういうことをするために造られた。
ハルは戦術席を立って、観測スクリーンの前へ歩いた。勝った、という言葉を、頭の中で一度だけ置いてみた。置き場所がなかった。
彼は一発も「撃ち合って」いない。敵の見ている世界に嘘を流し込み、同士討ちをさせ、岩に当てた。残った一隻の機関を、座っている椅子から一瞬で焼いた。最後の一隻は、艦影を見せただけで逃げた。
これがこの艦の戦い方だ。撃ち合ったら負ける。だから撃ち合わない。理屈は出港前から知っていた。理屈と、岩の上で裂けた艇を見ることとは、別の知識だった。
「一番艇の残骸の観測データを出せ」
「推奨しません」
「出せ」
スクリーンに、拡大映像が出た。
裂けた艇体の周りを、装甲材と凍った霧が緩く回っている。その中に、宇宙服がひとつ、混ざっていた。緊急脱出の途中だったのか、衝突の瞬間に放り出されたのか。服は膨圧を保っていたが、生命反応の欄は空白だった。
死体は、ゆっくりと回転していた。両腕が体側に揃い、脚が伸びていた。脱力した死体は、ああはならない。あれは姿勢を整えたまま死んだ人間だ。元兵士だったのだろう。最後の瞬間、放り出されながら、体が勝手に教練の姿勢を取った。
ハルは長く、それを見ていた。
海賊だった。獲物を狙って網を張り、網ごと食われた。撃たれて当然の側、という整理は可能で、その整理は映像の前では何の役にも立たなかった。七年前まで、彼の仕事はああいう男たちの声を中継することだった。今日からの仕事は、ああいう男たちを岩に当てることらしかった。
気がつくと、自分の両手を見ていた。震えてはいなかった。震えていないことが、安心ではなく、別の種類の不安として残った。初めて人死にの出る交戦を指揮した男の手が、二十二分後にもう震えていない。軍隊が彼の体に教え込んだものは、列の並び方だけではなかったらしい。
「艦長。心拍と皮膚電位に変動があります。医務区画の鎮静剤の使用が可能です」
「要らない」
「了解しました。変動は正常範囲です、と申し添えます」
「……どういう意味だ」
「人を死なせた直後の人間の生体反応として、教範の正常範囲内という意味です。異常はありません。どちらの方向にも」
慰めなのか、観測報告なのか。おそらくツクモ自身にも区別はなかった。ハルはそれ以上聞かなかった。
「艦長。針路の再入力を推奨します。三番艇の帰投先からの増援の可能性があります」
「……ああ。離脱点アルファ、針路再開」
「了解しました」
「待て。その前に、交戦記録は」
「全経過を保存済みです。消去しますか。本艦の素性の秘匿には、消去が最適です」
「消すな。封印して保持しろ。正当防衛の立証が要る日が来るかもしれない」
「『来るかもしれない』のために、リスクを保存するのですね。記録しました。——人間は、保存と廃棄の基準が一貫しません」
「一貫してたら、人間の帳簿はもっと薄い」
艦が動き出した。黒い艦体が岩の流れを抜けていくあいだ、ハルは戦術席に戻らず、スクリーンの前に立ったままでいた。
逃げた三番艇は、二日後に緋蓮団の根城に帰り着く。
持ち帰るのは、死んだ四人の名前と、漂流する六人の座標と、それから一つの観測記録だ。デブリ帯の深部に潜んでいた、識別信号のない黒い巡洋艦。一発の砲声もなく僚艦二隻を仕留めた、どの艦級表にも載っていない艦。
緋蓮団の帳面に、まだ名のない艦が一隻、書き込まれた。