第010話 第五級
翌朝、口座から係留費の二日目分、三万クレジットが音もなく引き落とされた。
残高十三万五千。艦は係留されているだけで、彼の七年分の蓄えを数日で食い尽くす速度で金を燃やしている。ハルは端末を閉じ、傭兵ギルドテネブラエ支部の扉をくぐった。
支部の中は、朝から人いきれと安蒸留酒の臭いがしていた。掲示板の前に傭兵の群れ、奥の酒場区画に夜勤明けの群れ。壁には歴代の「上がり」を出した傭兵の写真が並び、その隣に、同じくらいの数の、黒い枠のついた写真が並んでいた。どちらの列も、誰も見上げていなかった。見上げる習慣のある人間は、たぶんこの商売に向いていない。向いている人間だけが残った部屋は、こういう温度になる。
受付カウンターには、三十代半ばの女が一人で座っていた。胸の名札に「ミミナ」とある。
「登録か、依頼か、苦情か」
顔も上げずに、女は言った。
「登録だ」
「身分証と、職歴の申告。虚偽申告は除名で、除名歴は全星系の支部で共有される。本当のことだけ言うのが結局安い」
事務的で、速くて、無駄がなかった。ハルは身分証を出した。ミミナは端末に通し、画面を読み、それから初めてハルの顔を見た。値踏みする目だった。買い物の値踏みではない。帳場の人間が、長持ちするかどうかを見る目だ。
「元連合軍。通信科。除隊後はサルベージ。戦闘職歴、なし。……うちに何しに来た」
「仕事を探しに」
「護衛と回収の下働きなら日給八千からある。あんたの経歴ならそっちが順当」
「艦を持ってる」
ミミナの指が止まった。
「外周第七の、あれ?」
「耳が早いな」
「窓口は港の耳たぶなの。二百八十メートルの拾い物を一人で転がしてきた変な男の話は、三日前から酒の肴。賭けも立ってる。軍の残置艦だ、いや幽霊船だ、いやどこかの強硬派の隠し艦だって。あんた、どれが正解?」
「放棄艦のサルベージだ。書類は通ってる」
「書類は、ね」
ミミナは深追いしなかった。窓口の人間の作法だった。聞いた答えを記録し、聞かなかった答えを詮索しない。詮索した窓口から順に、この商売は人が離れる。
「艦持ちなら話が変わる。艦付き登録は等級査定が別枠。と言っても、初回は誰でも最下級。第五級から」
「構わない」
「登録料五千クレジット。等級の上げ方は実績のみ。金でも経歴でも上がらない。下がるのは速いけど。第五級は単独受注に上限がある——賞金五百万以下の案件まで。ギルド手数料は一律十五パーセント。手数料の対価は、依頼の保証と、賞金の取り立て代行と、死亡時の事務処理」
「死亡時の事務処理」
「遺体があれば送る。なければ、名前を処理する。それも仕事のうち」
処理、という言葉を、彼女は別の言葉で飾らなかった。飾る言葉を全部使い切った後の窓口の声だった。
親指を当てた。残高、十三万。ギルドの認識票が発行された。第五級、アマノ・ハル。等級章は、安い灰色の樹脂だった。軍の階級章は金属だったな、と意味のない比較が頭をよぎった。金属は死んだ兵士から回収して使い回す。樹脂は、おそらく回収しない。等級章の材質ひとつにも、この稼業の死亡率が織り込まれている気がしたが、考えすぎかもしれなかった。
「それで、艦持ちの第五級さんは、何を獲るつもり?」
ミミナは登録控えを揃えながら聞いた。世間話の声で、世間話ではなかった。
「実入りのいい仕事を」
「艦持ちの実入りのいい仕事は三つ。船団護衛、海賊狩り、それと——還らず艦」
最後の一語だけ、彼女の声は半音だけ平らになった。
「順に相場を言う。護衛は一航海で五十万から百万、拘束が長くて艦の燃料は持ち出し。海賊狩りは賞金制だけど、海賊は群れるし、恨みも群れる。緋蓮団あたりを突くと、報復が港まで来る。還らず艦は——小型で三百万から。中型なら一千万。撃破証明はコアタグ、中枢の残骸の認識票ね。残骸のサルベージ権がおまけにつく」
「数字だけ聞くと、三つ目が桁違いだな」
「桁違いの理由を言ってない」
ミミナはカウンターに肘を置いた。
「去年一年、この支部から還らず艦専業で出たのは七組。戻ったのは三組。死亡率の数字は本部が公表してないけど、窓口は帳面で知ってる。あたしの仕事はね、登録した名前を帳面に書いて、戻らなかった名前に線を引くこと。線を引く方が、ずっと多い月もある」
「……四組は、何にやられた」
「正面から行ったのよ、みんな。相手は七年間、戦争だけやってきた機械よ。眠らない、怯まない、撤退の判断基準が人間と違う。賞金の額は艦隊が放置した額。艦隊が放置するのは、艦隊で行っても採算が合わない相手だから。それを傭兵の二、三隻で獲りに行く。逆さにした算術でしょう。だからこの稼業、陰で何て呼ばれてるか知ってる?」
「いや」
「葬儀屋稼業。獲物を葬る方じゃなくて、自分の葬式を先払いで挙げに行くって意味」
ハルは何も言わなかった。ミミナは肩をすくめて、端末を彼の方へ回した。
「依頼掲示の閲覧権限、付けといた。まあ、あんたは護衛から始めなさい。死なれると線を引く手間が増える」
掲示板へ向かう途中、酒場区画の脇を通った。昼前から埋まっている卓の一つで、年嵩の傭兵が若いのに何かを教えていた。声は抑えていなかった。
「——だからな、賞金の額ってのは墓石の値段なんだよ。四百八十万って書いてあったら、それは『この石の下に三人埋まってます』って読むんだ。読めない奴から埋まってく」
「じゃあ何で専業がいるんです」
「いねえよ、もう。この支部の専業は去年で半分になった。残ってるのは、腕がいいか、頭がおかしいか、両方かだ」
若いのが笑い、年嵩は笑わなかった。ハルは足を止めずに通り過ぎた。墓石の値段、という言い方を、彼は頭の中の語彙の棚に黙って収めた。正確な言い方だと思ったからだ。
掲示板の端末の前で、ハルは自分の帳簿と向き合った。
残高十三万。艦の固定費は係留費と保険と港湾使用料で月九十万。保険はまだ入ってすらいない。無保険の艦は港湾規則で六十日しか置けない。つまり彼はいま、稼ぐ前から月八十万近い赤字を抱えて立っている。護衛仕事の五十万では、固定費にすら届かない。日雇いの日給四千では、係留費の七分の一にもならない。艦を売る、という選択肢は最初から存在しない——売るためには素性を明かす検分が要り、検分は彼とツクモの両方の終わりを意味する。
あの艦が稼げる仕事。あの艦の設計が向いている仕事。撃ち合わず、忍び寄り、自律中枢を一突きで殺す艦が、最も高く換金できる獲物。
答えは最初から一つしかなかった。経済が彼の首の後ろを掴んで、掲示板の前に立たせていた。
——そう、自分に言い聞かせられることが、せめてもの救いだった。金のためだ、という理由は清潔だ。誰にでも見せられる。帳簿に書ける。その下にあるもう一つの理由を、彼はまだ自分の言葉にしていなかった。七年つけ続けた私的なファイルのことは、考えの外に置いたままにした。置いたままにできている、と思うことにした。
還らず艦の頁を開いた。
依頼は四件。中型二件は賞金一千万超、推奨戦力の欄に「三隻以上」とあり、第五級の受注上限の外でもある。問題外だ。小型の一件は第五星系の奥で、往復の燃料と反応材だけで五十万を超える。赤字の獲物は獲物ではない。
念のため、還らず艦以外の頁も繰った。護衛依頼が十一件。鉱石船団の随伴、最長で四十日拘束、報酬七十万、燃料持ち出し。差し引きすれば、四十日かけて赤字を二十万埋めるだけの仕事だ。沈む船の傾きを、椅子の置き場所で直そうとするような算術だった。海賊狩りの頁には緋蓮団系の懸賞が並んでいたが、デブリ帯の一件の借りがある身で緋蓮団を突くのは、報復の呼び水にしかならない。
頁を、戻した。
残る一件を、彼は開いた。
——標的:大戦期同盟製小型護衛艦一隻。所在:第三星系航路際、座標は別添。挙動:同宙域を七年間継続して哨戒、接近する船舶を攻撃。賞金:四百八十万クレジット。撃破証明:コアタグ。残骸サルベージ権付帯。推奨戦力:記載なし。
賞金四百八十万。第五級の受注上限、五百万の内側に、あつらえたように収まっている。手数料の十五パーセントを引けば手取りは四百八万。頭の中の算盤が勝手に弾く。そこから杭を一本使えば二百五十万が消え、燃料と反応材で五十万からが飛ぶ。命の値段を別にすれば、成功してようやく、月の固定費がひと月分払える。それがこの稼業の算術だった。算術は彼に向かって、やめろとも、やれとも言わなかった。数字はいつも黙っている。黙って、退路だけを一本ずつ外していく。
備考の欄に、小さな文字で過去の挑戦記録があった。傭兵二組が交戦。一組は損傷撤退。一組、三名——未帰還。
その下に、被害記録の欄があった。
ハルはそれを、最初の行から読んだ。七年前、哨戒圏に入った採掘船、死者五名。五年前、航路を外れた貨物船、死者九名。三年前、航法故障で漂入した旅客艇、死者二名、うち一名は十二歳。日付と、船の名前と、数字。彼が七年間、別の場所で数え続けてきたのと同じ形式の行が、依頼票の中に並んでいた。読みながら、頭の中で照合が勝手に走った。五年前の貨物船の九名は、彼のファイルの、上から四十三行目だった。
彼は最後の一行まで読んだ。読み終えるまで、掲示板の前を三人の傭兵が通り過ぎた。賞金額を見て、備考の未帰還を見て、舌打ちして去る者たちだった。賞金額より先に被害記録を読む者は、彼のほかにいなかった。
ハルは依頼票を端末から印刷した。印刷、という古い形式が、ギルドの規約では受注意思の正式な表明とされている。紙は撤回できないからだ、と規約の注記に書いてあった。紙を持つ手は、震えていなかった。あの日のデブリ帯と同じだった。
窓口へ歩いた。
カウンターに置かれた紙を、ミミナは見た。それから、ゆっくりと顔を上げた。
「単艦で?」