第027話 難民区画の医者
テネブラエ港、難民区画。書類を求めない医者は、書類を持たない人間の場所にしかいない。
出発前、ツクモは反対した。
「負傷者の艦外搬送は、目撃と照会の機会を増やします。難民区画の非正規医療の質は保証されません。本艦の医療キットでの継続観察を提案します」
「対処可能性三割未満、と言ったのはお前だ」
「はい。三割の側に賭ける選択肢を、提示する義務があります」
「却下だ。七割の側を取る」
「記録します。……艦長。操舵手の生存は、本艦の戦力上も望ましい結果です。搬送の成功を」
最後の一文が激励のつもりなのか、確率表明なのか、判別はつかなかった。判別のつかないまま、妙に背中を押されたのは確かだった。
朝の区画は日雇いの列で始まる。日給四千crの仕事を求める列が荷役口まで三百メートル続き、列の脇では子供が再生水の容器を売っていた。一本五十cr。ハルは断り、三本買った。断り方を知らない種類の目で、見られたからだ。
荷役用の電動台車に毛布を敷き、ヴェインを乗せて区画の通路を行く男を、誰も振り返らなかった。熱を出した人間が台車で運ばれていく光景は、ここでは日常の側に属していた。診療所の場所は、列の整理をしていた老婆が教えてくれた。貨物コンテナを三つ繋いだ建物で、看板はなく、扉の横に消毒液の匂いだけがあった。
待合いに使われている一つ目のコンテナには、咳をする老人と、腕を吊った荷役夫と、眠る子供を抱いた母親がいた。誰もハルたちを見なかった。この区画では、他人を見ないことが礼儀だった。
奥のコンテナで、老人が手を洗っていた。痩せて、背が高く、白いものの方が多い髪を無造作に束ねている。年は六十手前か。袖をまくった前腕に、古い加圧服の擦過痕があった。
「順番は」と老人は振り返りもせずに言った。
「急患だ。発熱と、左腕の創部感染。受傷は四日前」
「受傷原因は」
「……作業事故だ」
「ほう。作業事故」老人はそこで初めて振り返り、台車の上のヴェインを一瞥した。「破片創に急減圧の顔色。たいした作業もあったもんじゃな。——運べ。診る」
処置台に移されたヴェインを、老人の手が喋るより速く調べ始めた。創部を開き、洗浄し、検体を採って小さな分析器に掛ける。聴診器を胸に当て、肋骨の線を指で辿り、患者がうめくと薬剤の量を即座に変えた。手順に迷いがなく、省略に根拠があった。野戦医療の手だ、とハルは思った。それも、艦の中の野戦の。
「処置は誰がやった」
「俺だ。止血と固定、鎮痛剤。軍の救護講習の範囲だ」
「ふん。講習にしては死なせとらん」
それが褒め言葉のすべてだった。老人は手を動かしたまま、診断を口にした。
「減圧外傷。肋骨三本。創部感染は、まあ間に合う段階じゃ。それと、古い癒着が二箇所——」
指が、ヴェインの左胸の古い骨折線の上で止まった。
「——同盟艦乗りの骨じゃな、これは。艦橋で潰された骨のつき方だ。座席に固定されたまま、横から潰された」
ヴェインの目が薄く開いた。熱に濁った目が、それでも一瞬で警戒の色になる。戦犯リストに名の残る男にとって、「同盟艦乗り」と言い当てられることは、診断ではなく宣告でありうる。
老人は患者の目を見返して、肩をすくめた。
「安心せい。骨は喋るが、わしは喋らん」
「……医者か」とヴェインが掠れた声で言った。
「ほかに何に見える」
「……死神かと、思った」
「よく言われる。だが請求書を出す死神はおらんよ」
処置は二時間で終わった。抗生剤の投与計画、肋骨固定帯の交換時期、禁酒の期間——「最低三十日。酒の抜けた血の方が、薬がよう効く」——が、端末ではなく紙に書かれて渡された。紙のカルテは照会できない。それがこの診療所の流儀なのだと、ハルは理解した。処方棚の薬剤は半分が軍の放出品で、半分はラベルのない再生品だった。
処置の後、ヴェインが眠るのを待つ間、ハルは待合いのコンテナの隅に立っていた。
診療は流れ作業のように続いた。咳の老人には薬が三日分だけ出た。「三日で来い。まとめて出すと、売りよるからな」と老人は叱られ、叱られ慣れた顔で頷いた。腕を吊った荷役夫は無料だった——「先月、屋根を直してもろうたからの。相殺じゃ」。眠る子供を抱いた母親の番になると、ナナオは子供を起こさずに診て、起こさずに済む処置だけを選び、薬代の代わりに「列の整理を二日」という労役を処方した。
金のあるところからは金を、ないところからは別のものを。帳尻の合わせ方が、ここでは医術の一部だった。ハルは自分の艦の帳簿を思い出し、それから、思い出すのをやめた。比べていい種類のものではなかった。
処置室の奥で、熱に浮かされたヴェインが何かを呟いた。同盟訛りの、短い音の連なり。点呼のような律動があった。ナナオは手を止めず、しかし一拍だけ目を上げて、眠る男の顔を見た。
「……艦長じゃったか、こいつは」
「なぜそう思う」
「うわ言で人の名を順に呼ぶのはな、名簿を預かっとった人間だけじゃ」老人は点滴の速度を直した。「兵は自分の名を呼ぶ。士官は部下の名を呼ぶ。艦長は——全員の名を呼んで、それでも足りん顔をする」
足りない分の名前がどこへ行ったのか、ナナオは訊かなかった。ハルも言わなかった。診療所の流儀が、ここでも仕事をしていた。
「今夜は預かる。熱が引くまで動かすな。明日の夕方、迎えに来い」
「治療費は」
「薬代込みで十二万cr」
ハルは即座に払った。港の正規医療なら概算八十万crに、身元照会がついてくる。十分の一の値段で、照会はゼロ。値切る理由は宇宙のどこにもなかった。
「相場より安いな」
「相場というのはな、払える者の間でだけ成立する約束ごとじゃ」老人は器具を片づけながら言った。「ここの患者は払えん者ばかりでな。払える患者から取れるだけ取ると、帳尻だけは合う。あんたは払える側じゃろ。顔に書いてある」
「顔に?」
「請求書を三度読み直す顔をしとる」
ハルは礼を言い、それ以上は踏み込まなかった。元軍医であることは手際が語っている。艦載環境の外傷を知り尽くしていることも。それだけの経歴の男が、なぜ難民区画のコンテナで紙のカルテを書いているのか——問えば、こちらも問われる。素性を探られたくない者は、他人の素性を探らない。それが辺境の礼儀であり、ハルたちの生命線でもあった。
「わしはナナオ。ここではドクと呼ばれとる」と、老人は問わず語りに言った。「あんたは名乗らんでいい。患者の連れの名は、カルテに要らん」
翌夕、迎えに行くと、ヴェインの熱は三十七度台まで下がっていた。台車はもう要らなかった。診療所を出る間際、ナナオは戸口に寄りかかって、ハルの顔をしばらく眺めた。診断の目が、もう一度だけ仕事をしていた。
「あんた、通信屋の手だな」
「……なぜ」
「鍵盤を叩く指の胼胝は消えん。軍の通信卓は配列が古うてな、小指の付け根に独特のたこが残る」老人は自分の掌を開いてみせた。「医者の手にも消えん痕があるんじゃ。お互いな」
その掌に何の痕があるのか、ハルには見えなかった。見えなかったが、あることだけはわかった。
「抜糸は十日後じゃ。創の経過も診たい」ナナオは紙のカルテを棚に差しながら、こともなげに続けた。「で、あんたらの船はどこの泊地だ? 抜糸には往診してやる。——どうせ、人に見せられん船なんじゃろ」
咄嗟に答えなかったハルの沈黙を、老人は満足げに肯定として受け取った。