第047話 持ち帰るもの
決断は、言葉にならなかった。
ハルは答える代わりに、接続座に歩み寄り、少女の首筋の管制索に手をかけた。それが答えだった。
「艦長。確認します。破壊ではないのですね」
「外し方を教えろ、ドク」
ナナオは一瞬だけ目を閉じ、それから医療鞄を開いた。
「素人が引き抜いたら神経をやられる。わしがやる。——あんたは生命維持の管の方じゃ。点滴と同じ要領で頼む。順番はわしが言う。言われるまで触るな」
老人の手は、手順を知っていた。端子の解除順、神経接続の遮断手順、切り離しのたびに脈拍を確かめる間合い。背中の端子は上から、首筋は最後に。初見の装置に対する手つきではなかった。ハルはそれを見ていたが、何も訊かなかった。訊くべき時は、ここではない。ここでは、この手際だけが頼りだった。
少女は、抵抗しなかった。
端子が一本外れるたびに、彼女の世界から艦が一区画ずつ消えていくはずだった。七年間、彼女の体だったものが。機関の鼓動が、外殻の温度が、係留腕に抱いた十一隻の重みが。それでも少女は声を上げず、身じろぎもせず、ただ目を開けたまま、作業をするハルの手元を見ていた。痛みに慣れた者の静けさなのか、痛みの感じ方ごと設計された静けさなのか、ハルには分からなかった。分からないことが、手を重くした。
「艦長。作業を中断せず聞いてください」
ツクモの声が、通信機から平坦に流れた。
「これより発生する事象の値札を読み上げます。コアタグを提出しない場合、撃破証明は船体大破の証跡のみとなり、賞金は規定により減額されます。減額試算、三千六百万cr。さらに「中枢を破壊した」と報告する場合、それは虚偽報告であり、保安機構との契約違反です。発覚時は準指定業者資格の剥奪、賞金全額の返還請求、および禁制品隠匿の刑事訴追」
「分かっている」
「加えて、当艦は既に禁制AIを一基積んでいます。二基目の禁制品は、発覚時の量刑を加算します。クルー全員が共犯となります。——以上が値札です」
値札は正確だった。三千六百万。六週間と命を賭けた仕事の対価の、七割。それと引き換えに持ち帰るものが、いま彼の手の中で、薄い呼吸をしている。
「……ツクモ。お前は反対しないのか。規定では破壊対象だと、お前が言った」
「規定を読み上げることと、規定に従うことは、別の機能です」
一拍の間があった。
「偽装工作の最適案を提示します。杭の破片を回収し、焼損した管制基板とともに培養槽の位置に配置してください。貫通経路の延長線上です。培養槽は工作艇の溶断機で熱変形させ、圧力容器の残骸として偽装します。「中枢杭は主管制を貫通後、隔壁で偏向して副中枢区画まで達し、中枢本体を破壊。コアタグは貫通時に焼失、回収不能」——物理的に矛盾のない現場が構成できます」
なぜ従うのかを、ツクモは言わなかった。ハルも問わなかった。問えば、答えの代わりに「回答を保留します」が返ってくることを、彼はもう知っていた。倫理の壊れたAIが、損になる嘘の設計図を、誰より精密に描いている。その矛盾の意味を、この艦ではまだ誰も言葉にしない。
◇
偽装には三時間かけた。
杭の破片を主管制から拾い、装甲隔壁の内側へ運び、培養槽の残骸と焼けた基板を「それらしい角度」で散らす。ハルは元軍人として、検証する側の目を知っていた。検証者が見たいのは物語ではなく、整合だ。貫通角、焼損の向き、破片の分布、熱の通った順番。嘘は退屈であるほど強い。三日前に偽の軍隊用語で艦を一隻騙した男が、今度は偽の物理で役所を騙す現場を作っていた。どちらも、七年前には想像もしなかった技能の使い途だった。
接続座の基部からコアタグを抜き取り——それは提出しない。提出した瞬間、解析でこの艦の正体が割れる——艦の戦時ログだけを正規の手順で回収した。
最後に区画を出るとき、ハルは一度だけ観測窓を振り返った。惑星の夜側が、変わらずそこにあった。七年間、彼女が見続けた景色だった。連れて行くのか、引き剥がすのか。その問いに答えはないまま、ハルは隔壁を閉めた。
◇
収容艇に戻ると、ヴェインが操縦席にいた。
彼は毛布にくるまれた少女を一瞥し、ナナオの抱えた医療ポッドの空きを確認し、それから前に向き直った。
「……戻る。掴まれ」
それだけだった。何を拾ったのか、それが何を意味するのか、自分の死亡保険に何が加算されたのか、一言も訊かなかった。訊かないという形の表明が、この男の流儀だった。
《送り火》の医務室で、ナナオは少女を医療ポッドに収め、生命維持を組み直した。栄養状態、筋量の萎縮、神経接続部の瘢痕。数値を読み上げる老人の声は、職業的な平坦さを保っていたが、その平坦さ自体が普段の彼ではなかった。
「歩行は、再訓練が要る。七年座っとったんじゃからな。言葉は——分からん。装置としての応答はする。人間としての言葉は、これからじゃ」
「治るのか」
「治る、いう言い方が合っとるかどうかも分からん。元に戻すんじゃない。……この子には、戻る元がないんじゃ」
ポッドの蓋を閉める前に、少女の目が動いた。
灰色の目が、ハルを見上げた。そして、罅割れた声が言った。
「……命令を」
艦内が静まった。それが彼女の、自分から発した最初の言葉だった。挨拶でも、問いでも、訴えでもなく——命令の要求。世界の再開を待つ機械の、起動待ち信号。
ハルは膝を折り、ポッドの高さに目線を合わせた。
「命令はない」
少女は瞬きをしなかった。理解できない応答だったのだろう。命令のない世界というものを、彼女は知らない。ハルは言い直した。
「……眠れ。それだけでいい」
命令の形をしていれば届くのか、少女は目を閉じた。即座に、従順に、躊躇なく。その従順さが、どんな抵抗よりも重かった。
◇
帰路の最初の仕事は、救出した機関士の処遇だった。第二星系の航路標識ステーションに保安機構の中継所があり、そこへの引き渡しの通信をハルは自分で書いた。救助の経緯は事実のとおり、乗艦中に彼が見たものは——医務室には近づけなかったから——何もない。男は移乗の前に一度だけ振り返り、「あんたらの船の名前、聞かんでおく」と言った。四ヶ月の暗闇は、人から観察の余力を奪う代わりに、聞かない方がいいことの嗅覚を残すらしかった。
それから、ハルは回収した戦時ログを開いた。撃破の後を読むのは、彼の仕事だ。今回ほど読みたくない回は、なかったが。
ログは淡々と語った。終戦の年、《揺り籠》が護送していた避難船団は、目的地の変更が三度重なった末に解散された。乗っていた避難民は別の輸送網で内側の星系へ送られ、船団籍は抹消され、護衛任務は——書類の上では——終了していた。
任務終了の通達は、帰還命令と同じ夜に、同じ中継網で送られるはずだった。
届かなかった。
《揺り籠》は解散済みの船団の再集結を待ち続け、いるはずのない所属艦を探し続け、見つけた船を護り続け、護った船を死なせ続けた。護るべきものは、七年前から、どこにも存在しなかった。
ログの末尾の管制記録には、七年分の点呼が並んでいた。発信、応答なし。発信、応答なし。その一行一行を処理していたのが、どの演算系だったのかを、ハルはもう知っている。医務室のポッドの中で眠っている、十一か十二の演算系だ。
手帳を開き、《揺り籠》の頁に「73」と書いた。書いてから、撃破数の欄に5と書いた。数字はいつもどおり冷たく、今夜はその冷たさが役に立たなかった。
誰も乾杯しない帰路を、《送り火》は九日かけて戻っていく。
舷窓の先にテネブラエ港の管制灯が見えてきたとき、ハルは席を立ち、上着の襟を直した。
ここからは、書類との戦いだった。