第075話 燃料の値段
それからの三週間、《送り火》は一発も撃たなかった。
撃たない戦争が、いちばん多くの数字を動かした。
第一週。骨市を失った封鎖艦隊は、闇市場での燃料調達に切り替えた。緋蓮団規模の買いが市場に現れた瞬間、相場が動いた。ウェンディゴ・ローはそれを待っていた。商会の信用で外縁の燃料先物を事前に押さえ、現物の流通経路を現金で買い潰していく。海賊に売る業者がいれば、商会がその業者の在庫ごと、言い値で買い上げる。
「砲を一発も撃たない兵站攻撃です」とツクモが市況を読み上げた。「燃料相場、骨市喪失から十八日で二・四倍。緋蓮団の調達コストは、封鎖の維持費そのものを上回りました」
第二週。封鎖網が、痩せ始めた。
封鎖連合は緋蓮団だけではない。寄り合いの弱小四団が、燃料代を払えずに次々と離脱した。十四隻の網は十一隻になり、九隻になり、八隻に痩せた。検問の穴は広がり、商会の船団は正面のゲート航路すら抜けられるようになった。テッサへの輸送量は週千六百トン——必要量を、初めて超えた。
配給は一日四百十グラムまで戻った。
数字は、勝利の形をしていた。
検問も、変わった。
第二週の半ば、商会の船団が正面ゲートを抜けたとき、停船命令は来なかった。哨戒艇は距離を置いて並走し、積荷の三割を要求する代わりに、ただ船団の数を数えて、離れていった。徴収の人手と燃料が、もう割に合わないのだ。封鎖は破られる前に、検問の形をした見送りに変わりつつあった。
テネブラエの港では、ミミナが窓口で言った。
「第六星系航路の護衛依頼、三週間ぶりに依頼板に戻ったわよ。死亡率の数字が下がったから。……あんたの名前は載ってないけど、誰がやったかは、みんな知ってる」
「商会の仕事だ」
「そういうことにしておくのも、窓口の仕事」
第三週の初日に、その数字は血の色に変わった。
封鎖から離脱した分派——緋蓮団の指揮を離れた三隻が、ゲート航路で商会の輸送船を襲った。拿捕ではなかった。停船命令も、移乗もなかった。最初の一射が機関ではなく居住区画を撃ち抜き、輸送船は燃料ごと爆ぜた。
乗員十一名、全員死亡。
「……拿捕の流儀が、死んだか」
ハルは被害報の前で、長いこと動けなかった。
拿捕は経済だ。船と人が金になるから、海賊は殺さない。その経済を、自分たちが枯らした。金にする余裕を失った海賊は、略奪の最短経路に切り替える。積荷だけ奪って、証人を消す。
「分派の三隻は、緋蓮団の統制を離れています」とツクモが言った。「ガズ・ヒバスは犯行直後、全周波数で分派の除名を宣言しました。『緋蓮団は殺しを商売にしない』——ですが艦長。統制が崩れたのは、兵站が崩れたからです。本件の因果連鎖の起点は——」
「分かってる」
起点は、骨市だ。
ハルは自分の帳簿を開き、十一、と書いた。還らず艦の頁ではない。欄外ですらない。新しい頁の、一行目だった。撃った弾の数ではなく、立てた作戦の帰結として死んだ人間の数を書く頁が、この夜から彼の帳簿に増えた。
ナナオが、戸口から静かに言った。
「兵糧攻めはな、艦長。城の中の誰から殺すか、選べんのじゃ」
「……あんたは、止めなかった」
「止めん。テッサの八十六時間後を計算したら、止める理屈がなかったでな」老人は茶を置いて、出ていく前に一度だけ振り返った。「ただの、覚えとけ。理屈で選んだ犠牲はな、理屈で忘れられるようには、できとらん」
テッサの病院の死者欄は、配給が戻った後も、まだ伸び続けていた。
飢えは利息の付く借金だ。返し始めても、弱った身体から順に、取り立てが続く。栄養失調を主因とする死者、封鎖以来の累計、七十四名。数字は港の公報に小さく載り、回廊のニュースには載らなかった。十一万八千の入植地の七十四人は、中央の報道基準では、まだ「事件」ではなかった。
ヨルは公報の死者欄を、字の練習を兼ねて読んでいた。読み終えてから、訊いた。
「……かれた、から、しんだ?」
「……封鎖のせいだ。枯らしたせいじゃない——と、言いたいところだが」ハルは正直に言うことにした。この子に嘘を学ばせる教材にだけは、なりたくなかった。「両方だ。封鎖が殺して、枯らし方が殺した分も、たぶんある。割合は、誰にも計算できない」
「けいさん、できないのに、かくの?」
彼女はハルの帳簿を見ていた。
「計算できないから、書くんだ。書いておかないと、なかったことになる」
ヨルは少し考え、頷いた。それから自分の端末——ナナオが与えた字の練習帳——に、何かを書きつけた。
後で見ると、たどたどしい字で、こうあった。
じゅういち。ななじゅうよん。
彼女の帳簿も、その夜から始まっていた。誰も頼んでいないのに。たぶん、この艦の病気だった。
三週間目の終わり、傍受網が短い通信を拾った。
緋蓮団の全艦宛、平文、ガズ・ヒバスの符丁。
——全艦、集結。
それだけだった。集結地点も、目的も、平文には載っていない。載せる必要がないのだ。行き先を、向こうの全員が知っている。
「燃料残量から、緋蓮団の選択肢は三つに絞られます」とツクモが言った。「ハルの読みを、聞かせてください」
お前が言うのか、とハルは思い、思っただけにした。彼女は最近、結論を先に言わずに、こちらの読みを「聞く」ことがある。録っているのか、育てているのか、試しているのか。どれでも、答えは同じだった。
「……ガズは、最後の賭けに出る」