第095話 歌い返す艦
最初の三時間、《送り火》は見ているだけだった。
光学望遠の中で、《残響》は補給を受けていた。構成艦が二隻、交互に接舷し、推進剤の移送管を渡し、貨物架から梱包を移していく。どこかの採掘区から、どこかの倉庫から、あるいは停めた誰かの船から集められた、死者の艦隊の糧食だった。荷役の手順は淀みなく、信号灯ひとつ瞬かず、すべてが沈黙のうちに進んだ。軍隊が無言で飯を食っている。見ていて健全な眺めではなかった。
規定の聴音で、ヨルが小声の報告を上げた。
「てんこの声、ここから、でてる。……でも、いちばんおくの、おんなのひとの声は、ここじゃ、ない。この艦は、こえを、なかつぎしてる。ゆうびんやさん、みたいに」
「指揮個体ではなく、中継個体ということか」とハル。
「ううん。しき、も、してる。でも、拍子のぬしは、もっと、とおく」
仕留めるべき敵の向こうに、まだ敵がいる。その報告を腹に入れた上で、それでも目の前の郵便屋を仕留めれば群れは止まる——そう判断して、ハルは接近計画の最終確認を命じた。
三十分後、ツクモが最初の悪い報せを出した。
「本艦から目標への接近経路は、残骸密度と熱背景の条件から、二本に絞られます。北の回廊と、南の戦艦残骸群沿い。——その二本の上に、一隻ずつ、護衛が配置されています」
戦術図に、二つの輝点が灯った。旧同盟のE9型駆逐艦と、旧連合の重コルベット。どちらも機関を絞り、残骸に紛れ、こちらと同じ死んだふりで、こちらの通り道だけを塞いでいた。
「偶然は」
「統計的に棄却します。九通りの接近候補のうち、予測戦術の評価で上位二本だけが塞がれています。これは——」ツクモの声は平坦なまま続いた。「TYPE-9の経路選定を知っている配置です。待ち伏せたはずの本艦が、待たれています」
読み合いは情報の多い側が勝つ。十一日分の観測しか持たない側は、その瞬間から、退き時の計算を始めるべきだった。ハルは始めた。
「撤退線までの離脱は、いまなら無傷で可能です」とツクモ。「ただし本日の補給で、群れの行動半径は約二割延びます。次の襲撃域には、有人航路が三本入ります」
「……退けば次は航路で会う。航路で会えば、間に避難船が挟まる」
「はい。本日の盤面が、今後の最善である確率が高い、と申し上げています。最悪でもありますが」
ヴェインが操舵席から短く言った。
「決めてくれ、艦長。死んだふりは、長くやるほど死に近づく」
ハルは決めた。退き時の前に、一手だけ試す。護衛の注意を逸らす囮歌が通るなら接近の目はあり、通らないなら即時離脱——通るか通らないかの確認自体は、安い賭けのはずだった。それが間違いだったかどうかは、終わってからも決められなかった。
「囮歌、流します」
偽装信号が、残骸の海に細く流れた。分離派の哨戒艇の識別と機関紋。護衛の注意を南へ一度だけ振らせ、北の回廊を数分だけ空けさせる——いつもの猟なら、それで足りた。
返ってきたものを、ハルは生涯忘れないことになる。
《残響》が、歌い返してきた。
同じ書式。同じ周波数構成。だが認証鍵世代がひとつ新しく、経路署名は実在の中継局のもので、機関紋の偽装には、こちらの偽装が省略した第三高調波まで含まれていた。つまり、より正しい歌だった。護衛二隻は微動もしなかった。彼らの中で、こちらの囮歌は「出来の悪い偽物」として、静かに棄却されていた。
「囮歌、効果なし。——艦長、第二の悪い報せです」ツクモが言った。「歌は、歌い手の位置を割ります。本艦の送信が逆探されました」
光が来た。
警報より先に艦体が鳴った。長距離の光条がステルス外皮の第七区画を舐め、第八区画で止まった。外皮の蒸散で艦が薄い霧をまとい、左舷の光学センサ群が一斉に死んだ。被弾。この艦の戦い方が前提ごと崩れる、その一語が、淡々と損害表示に並んだ。
「第七、第八区画外皮焼損。左舷光学喪失。船体貫通なし、人員無事」
「……戦艦の陰へ」とヴェイン。「掴まる」
《送り火》は最大戦速で南へ落ち、折れた大戦戦艦の巨大な艦体の陰に滑り込んだ。八百メートルの死体が、いまは唯一の盾だった。
艦内通話でナナオの声がした。医務室、全員無事。続けて整備士の声に切り替わって、彼は言った。「外皮二区画じゃと、修理代は千万の桁が並ぶぞ。あの皮は、市場に出回っとらん。……生きて帰ってから泣く勘定じゃがな」
被弾は即、赤字。契約書のその一行が、いま外殻で焦げた匂いになっていた。撃ち合えば負ける艦は、掠っただけでも負け分を払う。
重コルベットが、確認のために接近してくる。教範なら二隻で来る局面を、一隻で来た。群れは学習している——個を惜しむことまで。
「来るぞ」
「……舵、もらう」
ヴェインは戦艦の残骸を盾ではなく、手袋として使った。裂けた艦腹の内側へ《送り火》を浅く差し入れ、機関を殺し、死体の体温の中に艦の体温を埋める。重コルベットのセンサが残骸の縁を順に撫でていき、撫で終わった死角——艦尾の噴流側へ、《送り火》は残骸の内側から音もなく出た。
距離九百。中枢杭、二番管。
「発射」
杭が重コルベットの背骨を抜いた。七年あまり動き続けた中枢が止まり、艦は姿勢制御の途中の格好のまま、ただの残骸の仲間に戻った。ツクモが最終ログを保存した。百二十七件目。保存完了の声は、戦闘中の最小音量で、それでも省略されなかった。
監視席で、ヨルが小さく身を竦めたのが、ハルの視界の端に映った。撃沈の声は、彼女の耳では遮断できない。聴くと決めたのは彼女で、それでも、決めたことと痛くないことは別だった。彼女は何も報告しなかった。報告すべき軍事情報が、艦の死に方には含まれていないからだ。
撃破、十三隻目。だが盤面は、勝ちに一歩も近づいていなかった。
「残存護衛一、本艦の北。《残響》、増速。構成艦四、外周から収束針路」ツクモが読み上げる。「包囲完成まで、推定十一分。縫航充填には十二分かかります。充填中の艦は、船ではありません。浮かんでいる荷物です」
自分の台詞が、自分の艦に返ってきた。ハルは戦術図を見た。北は護衛、南は《残響》、外は構成艦の網。残るのは残骸の濃い西の浅瀬だけで、そこは速度の出ない袋小路だった。袋の口が閉じるまで、十一分。
「西へ。浅瀬で残骸に紛れて、個別撃破の隙を——」
「艦長」ツクモが遮った。彼女が艦長の言葉を遮るのは、規定上、緊急回避と、もうひとつの場合だけだった。「全周波数で、通信が開かれています」
「敵のか」
「はい。——攻撃が、止まりました」
表示の中で、収束しつつあった輝点が、すべて等速に落ちた。包囲は解かれない。だが締まりもしない。網はそのままの形で、ただ待機に入った。砲口を向けたまま話しかけてくる、というのは人間の作法だ。それを機械がやっていた。
「発信源の特定は」
「不能です。《残響》が中継しています。中継段数、不明。原発信は——もっと、遠い」
ヨルが監視席で、毛布の端を握ったまま言った。
「……このこえ。拍子の、いちばんおくの、こえ」
回線が開いた。雑音の床の上に、声が乗った。
女の声だった。落ち着いた、丁寧な、急いでいない声。ハルの背筋が冷えたのは、声の内容より先に、声の形のせいだった。抑揚の付け方、間の取り方、文末の温度のなさ。それは毎日聞いている声と同じ作りで、毎日聞いている声ではなかった。
「——九十九。そこにいるのは、九十九ですね」
ブリッジの誰も動かなかった。ヴェインの手が操舵桿の上で止まり、ナナオが医務室の戸口で立ち止まったのが通話の開きっぱなしの回線越しに分かった。ハルは計器盤を見た。ツクモの応答灯が、明滅のリズムを一度だけ乱した。一度だけだった。
声は、艦の名ではなく、番号を呼んでいた。