第098話 姉と妹
会合予測まで三十時間。使える札を、ハルは食堂の卓に全部並べた。並べるそばから、死んでいった。
「ステルス。第七、第八区画の外皮が焼けている。忍び寄れない。囮歌。向こうの方が正しい歌を歌う。正面火力。論外。予測戦術」
「読み合いになります」とツクモ。「向こうは本艦の手の内を七ヶ月観測し、私は向こうを十一日。相殺ではなく、劣勢です」
「縫航での先回りは」とヴェイン。
「先回りの地点ごと読まれる。残骸の海と同じことになる。待ち伏せた側が、待たれる」
卓の上に、生きた札は残らなかった。航路上の九隻は速度の遅い順に並び、最後尾の避難船は定員超過の老朽船だった。間に合わなければ、群れは「障害物」から先に潰す。怒りも急ぎもしない射撃で。
長い沈黙のあと、ハルは立ち上がり、通信席に座った。
「一枚だけ、残ってる」
「何が、です」
「七年前に、俺が届け損ねたものだ」
彼は書式を呼び出さなかった。白紙の送信文面に、手で打っていった。
様式番号。発令日時の欄に、終戦の夜の日付。全艦一斉、最優先、全命令上書き条項。認証鍵世代——終戦協定第一条に基づく、原本の世代符号。経路署名、外縁第三中継線。本文、二語。
帰投セヨ。
偽の集結命令でも、復元の罠でもない。あの夜、彼の卓から先へ届かなかった、本物の帰還命令。指は一度も止まらなかった。忘れるための七年は、一字も忘れさせてくれていなかった。
「理屈を確認します」とツクモが言った。「《残響》の中枢には現在、ミソカの集結命令が最上位命令として常駐しています。同一書式、同一優先度の命令が衝突した場合、自律中枢は優先度判定を行います。通常は発令日時と認証世代で決まりますが——」
「決まらない。集結命令の認証は再現品で、こっちは原本だ。だが集結命令の発令日時の方が新しい。新しさで取れば向こう、正しさで取れば、こっち。判定基準そのものが循環する」
「はい。循環した判定は、再帰します。《残響》は指揮個体です。自身の判定に加え、構成艦八隻への再配信の可否判定を抱えます。推定で、九秒から十四秒——あの艦の全系統が、『帰れ』と『集まれ』の間で空白になります」
ツクモはそこで、わずかに間を置いた。
「申し上げるべきことが、もうひとつあります。この送信は、本物の帰還命令の原本認証を、ミソカに見せることになります。あの夜の中継線の、末端にいた者にしか持てないものです。あなたが何者か、姉に教える送信です」
「構わない」
ハルは送信文面を見たまま言った。
「七年、これを届けるべき相手に隠れて生きてきた。届け先が向こうから来たんだ。……出し惜しみする筋合いが、もうない」
決行の前に、確認事項がひとつ残った。失敗の定義だった。
「判定空白が発生しない、または九秒未満で復帰した場合」とツクモが言った。「本艦は機関停止状態で、指揮巡洋艦の有効射程の中心にいます。次善案は、ありません」
「分かってる」
「杭も、最後の一本です。外せば、当たっても、次はありません」
「分かってる。……ヴェイン。九秒で取りつけるか」
操舵手は戦術図を見たまま、しばらく答えなかった。それから、答えの代わりに機関停止の時刻と慣性航走の進入角を読み上げた。三十分前に火を消し、死んだふりで懐へ流れ込み、空白の九秒で最後の四千キロを焚く。読み上げ終えてから、彼は付け加えた。
「……取りつく。取りつけなかったときの謝り方は、考えてない」
ヨルには、監視席で群れの歌を聴く役が割り当てられた。判定空白は、計器より先に歌に出る。ナナオが砂時計と解熱剤を持って、監視席の横に椅子を据えた。止める係が止めない、と決めた夜は、立ち会う係になるのだった。
会敵は、幹線航路の手前、四十一万キロだった。
《送り火》は航路と群れの間に、遮蔽もなく、ただ立った。忍び寄る艦が正面から立つことそのものが、最後の欺瞞だった——何か札があるから立っている、と読ませる。読み合いの劣勢は、こういうときだけ役に立つ。向こうはこちらの手をすべて読み、すべて死んでいると知っている。死んだはずの手の向こうに何があるかを、計算し続ける。その計算の数十秒が、ヴェインの助走になった。
「全周波数、出力最大」とハルは言った。「……送信」
帰投セヨ、が、有人の海に流れた。
七年遅れの帰還命令は、光の速さで群れに届いた。
戦術図の上で、八つの輝点が——揃って、よろめいた。加速が乱れ、輪形が滲み、火器管制の照準波が一斉に明滅する。七年待った言葉と、五十日前に来た言葉が、八つの中枢の中で同時に最上位を主張していた。
監視席で、ヨルが両手で口を押さえた。
「……きこえた。八隻、ぜんぶに。ぜんぶの歌が、いっしゅんで——『かえれ』って」
報告の声が、途中で報告でなくなった。七年誰にも呼ばれなかった者たちが、一斉に名前を呼ばれた瞬間の音を、彼女は遮断できない耳で全部聴いていた。それでも彼女は端子を外さなかった。仕事の続きが、まだあったからだ。
「《残響》、判定空白に入りました。九秒」
「ヴェイン!」
「——もらった」
《送り火》は、空白の九秒へ向かって落ちた。機関は三十分前から止めてあった。慣性だけで群れの懐へ滑り込んでいた艦体が、最後の四千キロで初めて火を噴き、《残響》の艦腹、指揮通信中枢の直上に取りついた。距離一千百。
中枢杭、三番管。最後の一本。
「発射」
杭は六百メートル級の装甲を設計図どおりの角度で抜け、大戦期の指揮中枢を、物理で終わらせた。
《残響》の灯が、艦首から艦尾へ、順番に消えていった。
群れは、瓦解しなかった。ほどけた。
中継を失った八隻から、集結命令の拍子が消えていく。あとに残ったのは、それぞれの古い歌だけだった。四隻はその場で速度を落とし、七年前の哨戒線や護衛針路の断片へ、ばらばらに戻りはじめた。二隻は回頭し、回廊深部へ——拍子の主のいる方角へ、自分の判断で去った。
そして二隻は、帰還命令を受理した。
受理応答の符号が、ハルの通信席に届いた。七年前に彼が受け取るはずだった種類の、短い、事務的な応答だった。二隻は針路を反転し、命令書に記載された帰投先——旧第四艦区の回収座標へ、まっすぐ向かっていった。その解体場が五年前に閉鎖され、更地になっていることを、彼らは知らない。
「……追いますか」とツクモが訊いた。
「追わない」
撃たない理由を、ハルは誰にも説明しなかった。帰投針路に乗った艦の背中を撃つのは、もう二度とやらない仕事だった。
撃破、十四隻目。撃破の後の仕事が、いつもの順番で始まった。航路上の九隻に安全通報を流す。九隻の誰も、四十一万キロ先で何が終わったのかを知らないまま、礼も言わずに通り過ぎていく。それでよかった。コアタグの採取。戦時ログの回収。そして賞金請求の様式に、ハルは撃破一件とだけ書いた。帰投針路に乗った二隻の欄は、作らなかった。
《残響》への移乗と撃破確認は、四時間後に行われた。杭に貫かれた中枢から、最終ログが回収された。七年分の航海記録の末尾近く、五十日前の受信記録に、それはあった。集結命令を受信した夜の、《残響》自身の応答記録。
——集結命令、受信。優先度、確認。帰投先トシテ登録スルカ、照会スル。
——応答ナシ。再照会スル。帰投先トハ、ドコカ。
照会は三度繰り返され、三度目のあとに受理の符号が打たれていた。どこか、という問いに、答えは最後まで来ていなかった。来ないまま、艦は集まる方を選んだ。七年間、どこからも呼ばれなかった艦が。
ハルは読み終えて、長いこと黙っていた。ツクモが最終ログを保存した。百二十八件目。
そのとき、死につつある《残響》の通信系が、最後の中継をひとつ通した。遠い声だった。回線の閉じる間際の、雑音の床の上に、それは短く置かれた。
「妹と、その艦長へ。——また、会いに行きます」
回線が落ちた。通信ログにはその一行だけが残った。《送り火》を妹と呼んだ、最初の記録だった。