第110話 閑話 大尉の観測

 イェナ・コルベル大尉、二十九歳。護衛駆逐艦の艦長。任官は終戦の翌々年で、つまり彼女の知る戦争は、全て教範と戦史叢書の中にあった。
 軍縮の時代に軍を選んだ理由を訊かれると、彼女は「制度が好きなので」と答えることにしている。半分は本当だ。手順があり、書式があり、責任の所在が紙で決まっている世界は、戦後の混乱した故郷の星より、ずっと信用できた。残りの半分——還らず艦の航行警報で兄の定期船が三年間止まり、家業が傾いたこと——は、志望動機の欄に書かなかった。書かなくても、外縁出身の士官候補生の半分は、似たような半分を持っていた。
 士官学校の教官たちは皆、どこかが欠けていた。指が二本ない戦術教官、夜中に廊下を歩き回る航法教官、ある艦の名を学生が口にすると講義を五分中断する砲術教官。欠けの理由を、教範は載せていなかった。載っていないものは試験に出ず、試験に出ないものを、彼女は学ばずに艦長になった。
 〈野辺送り〉の第一段階で、彼女はそれを実艦で学んだ。
 彼女の艦は、餌の輸送隊の護衛位置にいた。待機線の補給輸送艦には退避誘導班が乗っていて、班を率いていたのは同期のサール中尉、班員の二人は彼女の艦から出した下士官だった。強襲艇が予測線を外れたとき、彼女は教範通りに動いた。警報、増速、射界の確保。教範通りの全部が、九十秒足りなかった。
 黒い艦が来て、杭が強襲艇を貫いて、それから数えた死者は十二だった。十二の中に、彼女の三人がいた。サールは退避誘導の手順書を最後まで読み上げながら死んだと、生き残った乗組員が証言した。教範通りに動いて、教範通りに死んだ。教官たちの欠けの理由を、彼女は二十九歳でようやく履修した。
 会敵の前、彼女は一度だけ指揮回線で嘱託に異を唱えている。警戒個体を素通りさせる、という指示にだ。目の前を敵が通るのを黙って見送る訓練を、彼女は受けていなかった。
「させてください」と嘱託は言った。「警戒個体は撃たれた経験を群れに持ち帰る係です。手ぶらで帰すのが、網を信じさせる唯一の方法です」
 説明は明快で、結果は正しく、網は閉じた。閉じた網の予測線から一隻だけが外れて、彼女の三人が死んだ。嘱託の計画の的中率は、その夜、七分の六だった。七分の六は、図上演習で三度全滅した参謀部の原案より遥かに良い数字で、数字が良いことと、七分の一の側に立つことは、まったく別の経験だった。

 嘱託のことは、着任初日から知っていた。基地の全員が知っていた。
 葬儀屋。不名誉除隊の傭兵上がり。禁制すれすれの黒い艦に、同盟の元艦長を乗せて還らず艦を狩る男。月給八百万——大尉の年俸を二月で超える額だ。その男が作戦会議の上座の隣に座り、参謀部の原案を図上演習で三度沈めた。彼女の艦も、三度とも図の上で沈んだ。
 不快だった。それは認める。正規の課程を出て、正規の階段を上ってきた人間にとって、横から来た男が上座で正しいことは、正しさの分だけ不快だった。
 酒保では、もっと露骨な声を聞いた。
「傭兵が上座で図演だとよ。参謀部は何をしてる」
「三度勝った方が上座だろう、図演では」
「除隊組だぜ。それも、あの事件のだ。帰還命令の」
「だがな、第一段階で読みを外さなかったのは、あの黒いのだけだ。うちの予測線は十二人ぶん外れた」
 最後の言い方に、彼女は席を立ちかけて、やめた。十二人ぶん。死者の数が予測の誤差の単位になる場所に、自分はいる。それが軍だと教範は言わなかったが、教官たちの欠けた指は、たぶんずっとそれを言っていた。
 翌日の追撃論のときも、彼女は回線の端で聞いていた。
 追撃中止の具申。退路は用意されている、という読み。そして、単艦で先回りして縫航点で待つ、という代案。承認が降り、黒い艦は跳び、六時間後に指揮個体撃破の報が来た。賞金の出ない撃破だった。軍管轄案件に賞金は付かない。傭兵というものは金で動く生き物だと彼女は教わってきたが、あの男が金の出ない獲物のために単艦で先回りした理由を、教範のどの章も説明してくれなかった。
 人事記録の閲覧権限で、彼女は嘱託の経歴を引いた。
 アマノ・ハル。元三等軍曹、第七補給艦隊。除隊事由、帰還命令未達事件における初動の遅れ。付記、再送信間隔の規定超過、四十秒。
 四十秒。
 彼女は画面の前で、しばらく動かなかった。教範は、四十秒で何ができるかの一覧を載せていない。載っているのは、警報から退避完了までの標準所要時間——六分——だけだ。九十秒足りなかった夜を経験したばかりの彼女には、四十秒で数百隻が説明できる理屈が、どうしても組み立てられなかった。組み立てられないまま、不快の置き場が少しだけ分からなくなった。

 通夜は、第三格納庫の隅で行われた。
 柩は十二。うち三つは空だった。回収できなかった三人の柩には、遺品の代わりに所属章が入れられた。サールの柩は、空の側だった。
 消灯後、彼女は弔辞の下書きを取りに事務区画へ戻り、格納庫の灯りがひとつだけ残っているのを見つけた。
 嘱託だった。
 通夜の席からは離れた作業卓で、端末と紙の山に埋まっている。彼女は柱の影から、それを観測した。観測、という語を後で自分の日誌に使ったのは、他の語が見つからなかったからだ。
 男は、輸送艦の最終三十分の通信記録を整理していた。音声の書き起こしに、発話者の名を一人ずつ当てていく。遺族の確認に堪える形に段落を割り、聞かせるべきでない数秒——隔壁が閉じる音と、その後——に封の印を入れる。それから戦没者名簿を書いた。十二名。七年前の軍の書式だった。現行様式より欄が二つ多い、廃止された古い書式。階級、所属、認識番号、そして「最終任務」の欄。サール、と書かれた行を、彼女は柱の影から読んだ。一字も、間違っていなかった。認識番号までだ。
 誰に命じられた仕事でもない。嘱託の職掌のどこにもない。報酬の出る作業でもない。男はただ、誰もやらない手続きを、誰もいない時間にやっていた。
「あれは……何の手続きなんですか」
 いつの間にか隣に立っていた当直の部下が、小声で訊いた。彼女は答えられなかった。代わりに、彼女の後ろで副長が答えた。大戦帰りの、定年前の老中尉だった。
「埋葬だろう、たぶん」
「埋葬なら、昼間に終わりました」
「ああいうのはな」と副長は言った。「終わった後に、まだ残ってる分をやる係がいるんだ。どこの軍にも、昔からな。……いない時代の方が、長いが」
 彼女は声をかけなかった。かける言葉が、侮蔑の棚にも畏怖の棚にも載っていなかった。載らないものを見てしまった夜は、棚の方が壊れる。壊れた棚の前で、人は整理のつかないものを抱えて立つしかない。彼女はその夜の日誌に一行だけ書いた。観測した。分類は保留。

 通夜の翌週、遺族あての通信記録一式が方面軍経由で発送された、という事務連絡が回ってきた。
 整理済み、確認用、配慮封入済み。発送物の様式を整えたのが誰なのかは、連絡文には書いていなかった。書いていなかったが、添付目録の過不足のなさと、封の印の入れ方が、彼女には署名より雄弁だった。サールの母親は、息子の最後の三十分を、聞ける形で受け取る。聞けない数秒は、封の向こうに残る。それを良いことと呼ぶべきかどうか、彼女には分からなかった。分からないことが増えるばかりの月だった。
 十日後、転属辞令が来た。
 ——イェナ・コルベル大尉。特務戦隊(新編)への転属を命ずる。職務、護衛駆逐艦艦長。隷下艦は現指揮艦をもって充てる。
 戦隊司令の欄に、目が止まった。
 特務嘱託、アマノ・ハル。
 正規士官が、傭兵の指揮下に入る。軍制のどこを叩いても出てこない人事が、但し書き三行で処理されていた。彼女は辞令を二度読み、二度目に侮蔑が立ち上がり、三度目に通夜の灯りがそれを上から押さえた。整理は、ついていない。ついていないまま行く場所が、軍隊だった。
 三度目に読んだとき、彼女は気づいた。
 戦隊名の欄は、まだ空欄だった。