第129話 火の前夜

 三日と七時間の道中で、ハルは止める努力を、手続きの順に全部試した。
 試す順番は、効く見込みの順ではない。記録に残る順だ。あとから誰かが検証できる形で、止めようとした者がいたことを紙の上に残しながら進む。それが、手続きの国に生まれた人間の、喧嘩のやり方だった。
 第四五八日二二〇〇、保安機構へ二度目の通報。今度は様式を変え、係争宙域に隣接する航路帯への危険告知として出した。隣接航路なら管轄の縁にかかる——縁にかけるための様式選びだった。回答は十二時間後、二行で来た。当該宙域は管轄外につき受理できず。なお隣接航路への航行警報は発出済み。——警報は出す。人は出さない。役人の文面として、満点だった。満点の答案で人が死ぬのを、役人の側も知っている。知っていることは、文面のどこにも書けない。
 第四五九日〇六〇〇、連合外縁方面政務部へ具申。教団艦隊の作戦が無差別砲撃に至る蓋然性と、中立港の民間人二万一千の数字を並べ、観測資料を全部付けた。回答は十一時間後の定型文だった。係争宙域への介入は、現下の政治情勢に鑑み困難である。貴官の情報提供には謝意を表する。謝意、という単語の冷たさは、七年経っても改良されていなかった。
「定型文の発出時刻は深夜です」とツクモが言った。「誰かが、定型文を選ぶまでに十一時間使っています」
「……選んだ結果が、これだ」
「はい。十一時間ぶんだけ、上等な見殺しです」
「上等な見殺しの書き方なら、俺も知ってる」とハルは言った。「七年前に、もらった側だ」
「はい。だから艦長の具申は、もらう側の急所を突いた書き方でした。……それでも、定型文でした」
「ああ。役所は急所を突かれた日ほど、定型文を使う」
 同日一四〇〇、ヴェスペラ港湾管制との直接通信が繋がった。
 出たのは、老いた男の声だった。管制官というより、桟橋の夜番の声だった。
「こちらヴェスペラ管制。……賞金稼ぎの艦が、うちに何の用だ」
「教団艦隊が向かっている。九隻。砲撃に至る可能性が高い。退避の計画は」
「退避」と老人は言った。笑いはしなかった。笑う元気のある声ではなかった。「いいか、よく聞け。この港の係留設備は終戦の年から継ぎ接ぎだ。一度に出せる船は十二隻、定員を倍に詰めて四千人。残りの一万七千は、出す船がない。出せた四千には、行く先がない。無国籍者を受け入れる星系は、回廊のどこにもない。七年なかった。……逃げる船も、逃げた先も、ないんだ」
「港の外周に退避区画は」
「あるさ。船殻の古い区画がな。与圧が保つかは、神様の機嫌次第だ。それでも詰めるだけ詰める。鐘が合図だ。うちの避難訓練は、晩課の鐘でやることになってる。皮肉なもんだ、坊主どもの鐘でな」老人は咳をした。「逃げろと言ってくれるな、葬儀屋。ここは、逃げてきた先だ」
「……物資は要るか。医療品を積んでる」
「要る。要るが、礼は言わん。礼を言う相手が増えると、この港は計算が狂う」
「構わない。礼の分は、こっちの帳簿につけない」
「……一つ訊く。あんた、何者だ。賞金稼ぎが、何でうちに肩入れする」
「仕事だ」と、ハルは言った。様式の外の仕事に、それ以外の名前をまだ持っていなかった。老人は、ふん、と鼻を鳴らした。
「仕事って顔の声じゃないがな」
 切れる間際、老人は早口で座標を一組、読み上げた。退避区画のいちばん弱い隔壁の位置だった。何かあったら、そこから先に拾え——読み上げの速さが、そう語っていた。礼を言わない港の、それが礼の様式だった。
 その夜、ハルは医務室に降りて、ナナオとヨルに一つだけ確認した。到着後、漂着艦の声を聴く必要が出るかもしれない。生の声を、近い距離で。
「規定の枠は」とナナオが訊いた。
「枠の中で頼む。超えそうになったら、俺が切る」
「……前にも聞いたのう、その台詞は」
「前は、俺が超えさせた。今度は切る」
 ヨルは寝台の上で膝を抱えたまま、二人のやり取りを聞いていた。聞き終えてから、自分の分の返事をした。
「きく。わたしが、きいて、わたしが、やめる。……じぶんで」
 自分で、の三文字が、この一年の彼女の全部だった。ナナオは何も言わずに、聴音の記録用紙を一枚、新しく起こした。

 最後に残った手続きは、一つだけだった。
 第四六〇日〇九〇〇、ハルは教団の公開宗務回線に、イグナーツ司教宛の通信を申し入れた。断られると思った。三十分後、回線が開いた。
 画面に映ったのは、痩せた老人だった。祭服は飾りが少なく、声は穏やかで、目は静かだった。狂信者の目ではなかった。それが、いちばん悪かった。
「葬儀屋どの。貴公の名は宗務院の文書で識っている」
「単刀直入に言う。砲撃をやめてもらいたい。あの港に、漂着艦を退ける力はない。住民に退避の手段もない」
「承知している」と司教は言った。本当に、承知している声だった。「調べは貴公より教団のほうが深かろう。一万七千は動けぬ。四千は行き場がない。七年、誰もあの港を数えなかった。連合も、ギルドも、貴公らの言う善意の世間も。数えた者が、いま二人いる。貴公と、私だ」
「数えたなら——」
「数えた上での浄火だ」老人は静かに遮った。「火は選ばない。選ぶのは人の傲慢だ。あの港は七年、魂喰いの艦の通り道に黙し、禁制の品の市に黙し、浄めの手を拒んできた。黙認は同罪である。罪なき二万一千がいるのではない。裁かれなかった二万一千がいるのだ」
「裁きと虐殺の区別は、誰がつける」
「神が」と司教は言った。「人がつけようとするとき、それは傲慢の名で呼ばれる。貴公のその問いごと、私は祈りの内に置こう」
「なら、艦は俺が沈める」とハルは言った。「漂着艦は俺が撃つ。金は要らない。あんたたちの大義の的を、俺が消す。それで艦隊を退かせろ」
 イグナーツは、初めて少しだけ間を置いた。値踏みの間ではなかった。哀れみに近い間だった。
「貴公の杭は、浄めではない。それに——艦は理由ではないのだよ、葬儀屋どの。徴(しるし)だ。七年の罪の上に、神が置かれた徴だ。徴を貴公が拭ったところで、罪は残る。火は、罪の方に向かう」
 論理は、教義の内側で完結していた。円環には継ぎ目がなく、継ぎ目のないものに、言葉の楔は入らない。ハルは、自分の言葉が一語も届いていないことを、届かない理由ごと理解した。この老人は残酷なのではない。残酷さなら、まだ話が通じた。憎しみなら、値段の交渉ができた。手順だけがある。あの夜の入植地を焼いたものと同じ、誰も憎んでいない手順が。
「晩課の刻限に」と司教は言った。「あの港の鐘は良い鐘だ。鐘とともに浄火を執り行う。……貴公も祈るがよい。異端の祈りでも、神は聞き分けなさる」
 通信が切れる間際、ツクモが画面の隅に解析を出した。司教の旗艦に随伴する四隻の識別。そのうちの一隻の機関紋に、照合の印が灯っていた。
「随伴艦の一隻、機関紋が一致します。——第四星系で本艦を検分した艦です」
 セルマ・ヴィオの艦が、イグナーツの艦隊の中にいた。
 ハルに分かるのは機関紋だけで、その配置が教団の内側で何を意味するのかまでは、読めなかった。読めないものの欄に、ハルはそれを書き込んだ。読めないものの欄は、この三日で随分埋まった。
 通信が切れたあと、艦橋はしばらく静かだった。
「……話の通じる相手の方が、まだ怖くないのう」とナナオが言った。「あれは、通じる通じない以前じゃよ。受話器の形をした、壁じゃ」
「壁の向こうに、九隻ぶんの乗員がいる」とハルは言った。「全員が壁なわけじゃない。具申の一つも出してる奴が、いるかもしれない」
「おったとして、どうする」
「……どうもできない。いることを、覚えておくだけだ」
 第四六一日、晩課の刻限の少し前。ヴェスペラ港湾管制の公開波が、定刻の鐘の音を流し始め——避難の合図を兼ねた、いつもより長い打ち方の鐘だった——その鐘の音に重なって、警報が走った。
 縫航反応、九。
 九つの光は、教科書どおりの輪形陣で実空間に降りた。灯火管制もない、隠れる気のない展開だった。着いた先でやることを、隠す気がないということだ。
 教団艦隊は、鐘の刻限に合わせて、来た。