第141話 入電

 嘆願書の三通目は、二通目より三行短くなった。
 削ったのは形容詞だ。「不当」も「遺憾」も、却下理由の欄に「感情的表現を含む」と書かれて返ってくることを、ハルはもう二回分学んでいた。活動停止命令から六十日。テネブラエ港の第七桟橋で、《送り火》は係留料月九〇万crを呑み込むだけの黒い艦体になっていた。
「過去二回の却下理由を再表示しますか」と、艦橋のスピーカーが言った。
「いい。覚えてる」
「一回目、様式不備。二回目、審査権限の所在不明。三回目の却下理由を予測します。確率六割二分で、『時期尚早』です」
「時期というのは、誰の時計の話だ」
「不明です。本艦の時計でないことだけは、確かです」
 ハルは送信欄に判を入れた。月次の固定費が百四十五万。杭の在庫は自前の一本きりで、補充の当てはない。帳簿は九、〇〇三万crで止まったまま、毎月、係留料と保険料のぶんだけ静かに痩せていく。猟に出ない葬儀屋は、ただの金食い虫だった。
 六十日のあいだ、艦は艦なりに時間を使っていた。ナナオは週の半分を難民区画の診療所に通い、戻るたびに「景気の悪い病気ばかり流行りよる」と言った。ヴェインは操舵席に座らない日を作らなかった。座って、何をするでもなく計器の癖を確かめ、それから最近は、隣にヨルを座らせるようになっていた。
「みぎに、まわす」
「回すな。傾ける」操舵手の声は、教練のときだけ少しだけ長くなる。「舵は腕で切るな。腹で切れ。艦の重さは、腕じゃ分からん。腹で分かる」
「……はらで」
「そうだ。腹で」
 暇潰しだと本人は言った。暇潰しの記録を、彼は几帳面に訓練記録の様式で残していた。誰も読まない書類を正しい様式で書くのは、軍人の治らない病気だった。この艦には、その病人が二人いた。

 その日の夕方、入電が来た。
 ゲート経由の遅延通信は、いつも少し古い知らせを運んでくる。発信時刻と受信時刻の差は十一時間。外縁回廊第七星系、アルマ解体廠。
 ——死者の艦隊と思われる多数の無人艦により攻撃を受けつつあり。
 ハルは文面を二度読んだ。アルマ解体廠は軍縮の現場だ。終戦後、帰還命令に従って戻った自律艦を、順番に解体処分してきた施設。いまも数百隻分の残骸と、摘出された中枢区画を保管している。職員と居住区画を合わせて千四百人。
 第一報の死者は十一名だった。
 二時間後の第二報で、二十九名になった。
 三時間後の第三報では、数字が消えて、三文字になっていた。集計中。
「ツクモ。死者の艦隊が有人星系を撃ったのは」
「初めてです。観測史上、初めてです」と声は言った。「補足します。攻撃目標は居住区画ではなく、解体廠の保管区画です。第二報の被害図から判断する限り、彼らは殺しに行ったのではありません。取りに行ったのです」
「何を」
「保管されているものを。同型の、骸を」
「……皮肉な場所を選んだものだ」
「皮肉、という分類は不正確かもしれません」とツクモは言った。「あの施設には、帰還命令に従った艦の成れの果てが、数百隻分保管されています。死者の艦隊にとって、あそこは敵の倉庫ではないのです。おそらく——墓地です。掘り返されたままの」
 ハルは通信席で長いこと黙っていた。十一時間前に始まった戦闘の、十一時間前の悲鳴を、いま読んでいる。届くべきものが届かず、遅れた距離のぶんだけ人が死ぬ。この構図を、彼は知っていた。七年前の夜、彼は送る側の末端にいて、いまは受け取る側の末端にいる。どちらの端にいても、間に合わないことは同じだった。
 艦橋の入口に、いつの間にかヨルが立っていた。報せの中身は、誰も教えていない。教えなくても、艦の空気の変わり方で分かる耳を、彼女は持っていた。
「アルマ、って」と彼女は言った。「かえった艦が、ばらばらに、されたところ?」
「そうだ」
「そこに、むかえに、きたの。……だれが、しんだの」
「人間がだ。数は、まだ数えてる途中だ」
 ヨルは頷いて、それ以上は訊かなかった。訊く代わりに、自分の帳面を開いて、白い頁を一枚、何も書かずに見ていた。どちらの側の数字を書く頁なのか、決めかねている顔だった。

 港に降りると、空気が変わっていた。
 酒場の喧噪が薄い。誰もが壁の報道板を見上げ、更新のたびに静かになる。第七星系は遠い。遠いのに、報道板の前の人垣は減らなかった。この港の人間は、戦争がどこで終わっていないかを、報道より先に肌で知っている連中だった。戦没者の名を刻んだ壁の前に、ぽつぽつと人が立ち始めていた。七年前に終わったはずの戦争の壁の前に、立つ理由がまた一つ増えたのだ。
「保安機構は動かないのか」と誰かが言った。
「動けるか。第七星系は管轄の外れだ。正規艦隊は最短で九日かかる」
「九日。九日あったら、何人死ぬ」
 答える者はいなかった。代わりに、別の声が落ちた。低い、畏怖とも憎悪ともつかない声だった。
「——葬儀屋はどこだ」
 ハルは振り向かなかった。その名で呼ばれるものが期待なのか、生贄なのか、呼んだ本人にも分かっていないことを、彼は知っていた。六十日前、この港の半分は「禁制の艦が止められて清々した」と言っていた。今夜、同じ口が葬儀屋の所在を訊いている。悪名というのは通貨で、相場は死者の数で動く。
 ギルドの窓口で、ミミナが書類の束の下から封筒を一通、抜き出した。
「あなたにじゃない。ヴェインさん宛て。三週間、預かってた」
「差出人は」
「書いてない。消印は第二星系の造船所。……届けるだけ届けて。読むかどうかは、あの人の仕事」
 それから彼女は、声を一段落とした。
「第七の件、行くんでしょう。止めても無駄な顔をしてる」
「解除が下りればな」
「下りるわよ。死人の数が増える速さで、判子の速さが決まるの。この七年、ずっとそうだった」受付は伝票の束を揃え直した。「生きて戻りなさいよ。それ以外の注文は、つけない」
 艦に戻って封筒を渡すと、ヴェインは差出人のない表書きを一瞥し、何も言わずに胸の物入れへ仕舞った。仕舞う手が、識別票の鎖に一度だけ触れた。それだけだった。ハルも訊かなかった。この艦は、訊かないことで回ってきた艦だった。
 もう一通、艦には別の便りが届いていた。宗務便の私書函、灰色の地紋の紙が一枚。署名はなく、短い。
 ——群れが動いた。観測史上最大。針路は第七。巡礼の足は軍より早い。選り分けの目を忘れるな。
 教団の巡礼網は、連合の通信網より先に深部の気配を掴んでいた。ハルは紙を畳んだ。外部協力者というのは、こういう速度のことを言うのだった。

 夜半、分署から呼び出しが来た。
 カンプの執務室は相変わらず書類の崖でできていて、分署長は崖の谷間から顔も上げずに言った。
「お前の嘆願は三通とも読んだ。三通とも、俺の机で止めてある」
「審査権限の所在不明、というのはあんたの判子か」
「半分はな。残り半分は、上の都合だ」カンプは端末を一つ、机のこちら側へ滑らせた。分署の回線記録だった。「アルマの管制塔と、まだ細い線が繋がってる。公式には、保安機構は管轄外の事案に関与できない。公式には、この回線は存在しない。公式には——俺はお前に何も聞かせていない」
 回線の向こうで、誰かが叫んでいた。座標と、隔壁番号と、人の名前。第三保管庫の班が応答しない、と声は繰り返していた。応答しない、もう三時間応答しない、誰か第三を見てくれ。雑音の床の上に、十一時間前の声が積もっていく。
「聞かなかったことにする」とハルは言った。
「そうだ。それでいい」カンプは初めて顔を上げた。「お前なら、何日で行ける」
「ゲート四つ。整備と補給を入れて——四日」
「正規艦隊は九日だ。差し引き五日。五日ぶん、誰かが生きるか死ぬかの話を、俺は管轄外だから知らん」分署長は回線を切り、書類の崖に戻った。「停止解除の口添えはしてやれん。だが、解除が下りた瞬間に出られる支度をしておくことは、どこの規則にも反しとらん」
「……恩に着る」
「着るな。貸し借りの帳簿は、俺は付けん主義だ」
 艦に戻る桟橋の上で、ハルは報道板をもう一度見上げた。
 死者の欄は、まだ更新されていなかった。十一でも、二十九でもなく、ただ三文字。
 集計中。
 数えられている最中の死者たちの上を、港の夜は何も知らない顔で更けていった。