第155話 殿
接触は、予定どおり七時間目に始まった。
予定どおりであることが、ヴェインの最初の仕事だった。船団から離れた《迎え火》は、追撃群の感知網の正面に、わざと長く艦腹を晒して減速した。逃げ遅れた一隻に見える角度と速度を、彼は正確に作った。追撃の計算にとって、孤立した駆逐艦一隻は、素通りするには大きく、止まって潰すには安い——その値付けの境目に、艦を置いた。
十二隻のうち、先頭の四隻が食いついた。
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艦橋に、彼一人だった。操舵席の周りに機関の直結盤と火器の管制卓が寄せられ、五人分の仕事が、腕の届く半径に詰め込まれている。艦内通信の相手はおらず、回線は船団との指揮系だけが開いていた。無人の艦内で、警報だけが律儀に鳴り、止める者がいないので鳴り続けた。彼は警報の音量を絞り、絞った静けさの中で、操舵桿を指で一度叩いた。
他人の艦の癖を、彼は最初の一時間で覚えていた。紙の装甲の、足の速い、若い艦長の艦。手入れは良く、応答は素直で、駆逐艦というものの正しい育てられ方をしていた。グロムとは違う癖で、違うことが、今夜はありがたかった。同じなら、舵を握るたびに七年前を握ることになる。
追ってくる四隻を感知網で確かめ、彼は低く言った。
「……よし。来い」
《迎え火》は反転し、機雷原へ向かって逃げ始めた。
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機雷原の手前で、ヴェインは速度を落とさなかった。
「《迎え火》、針路がそのままです」とツクモの声が、《送り火》の艦橋で言った。「現針路は、敷設密度の最も高い区画を通過します」
「分かってやってる」とハルは言った。言いながら、通信席の手は帰投針路の再送信を打っていた。応答は、受信確認の符号一つだけだった。
同盟の敷設教範には、裏の頁がある。
敷設艦は、敷いた機雷原を自分で回収する日のために、帳簿に載らない隙間を残す。基準針路から九度——磁気信管の相互干渉を避けるための、教範第七項の角度——その九度刻みの梯子の段だけ、機雷の間隔が一列ぶん広い。図面には残らない。残せば敵に読まれる。敷設長の手癖として、艦から艦へ、人から人へ、口伝えで受け継がれる癖だった。
増援戦隊の沈み方を、ヴェインは出撃前に読み終えていた。どの艦がどこで触雷し、どの回避先に次の雷があったか。その配置の濃淡から敷設個体の「手」を逆に読む——出撃前の図演で、彼はそう説明した。教範どおり。几帳面で、模範的で、隙間の位置まで模範的だ。七年前に、俺が部下に教えたとおりの手だ、とも言った。
《迎え火》は、九度の梯子を上った。
基準針路、右へ九度、左へ十八度、右へ九度。酔ったような針路は、機雷の隙間だけを正確に踏んでいた。追う四隻には、それが読めない。彼らの教範は同じものだ。だが彼らは図面を信じる側で、ヴェインは図面の外の癖を知る側だった。
先頭の一隻が、触雷した。
二隻目は回避に成功し、回避した分だけ隊列から遅れた。三隻目は機雷原を迂回する判断を下し、迂回路の分だけさらに遅れた。四隻目だけが、《迎え火》の航跡を正確に踏んで抜けてきた。学習の速い個体だった。
「一隻、足を取った。一隻、遅らせた。一隻、回らせた」ヴェインの声が、指揮系の回線に低く流れた。報告の声だった。「残りの本隊八隻、機雷原の外周を迂回中。隊列、縦に伸び始めとる」
通信の声に、酔ってもいないのに、同盟の訛りが滲んでいた。誰も指摘しなかった。
機雷原を抜けた先は、増援戦隊の墓場だった。
轟沈した駆逐艦二隻の残骸が、運動量を保ったまま漂流している。数万トンの艦体の断片が、ゆっくりと回転しながら、それぞれの軌道で散っていく宙域。航路図のどこにも載っていない、昨日できたばかりの危険宙域だった。
ヴェインは、その中へ艦を入れた。
針路を九度ずつ、振り続けた。機雷原の癖の続きに見える振り方で、しかし今度は、隙間を踏むためではなかった。追う者の隊列を縦に伸ばし、伸びた鼻先を、回転する残骸の未来位置へ導くための振りだった。九度は、追跡の計算が「追える」と判定し続ける角度だ。これ以上振れば敵は予測射撃に切り替え、これ以下なら距離を詰められる。追わせ続けて、追った先に質量を置く。
「残骸の回転周期、こちらの図と一致」と彼は報告した。「二番目に大きい断片——艦尾部、約一万一千トン。回転、百九十秒周期。……次の周回で、面がこっちを向く」
《送り火》の艦橋で、ツクモがその意味を先に計算し終えた。
「《迎え火》の現針路は、艦尾部残骸の回転面を、面の開く瞬間に通過します。追跡個体二隻が航跡を直進短絡した場合、両者の未来位置は、面の閉じる瞬間の残骸と交差します。……交差確率、八割七分」
誰も、何も言わなかった。言葉にすれば、祈りか命令のどちらかになり、どちらも殿の仕事の邪魔だった。
《迎え火》が、開いた面を抜けた。
追う側の先頭の二隻が、航跡を短絡して内側を突いた。学習の速い個体と、それに続く一隻。彼らの計算は正しかった。直線は曲線より速い。ただ、その直線の上に、百九十秒前には無かった一万一千トンが、百九十秒後には在った。
光はなかった。爆発と呼べるほどの熱もなかった。
質量と質量が、互いの速度でぶつかり、二つの輝点が感知網の上で形を失った。撃ったのは、ヴェインではない。《迎え火》は一発も発砲していない。撃ったのは、死んだ艦の骸と、宇宙の質量だった。
「……二隻、止まった」と彼は報告した。それだけだった。
《送り火》の感知網が、消えていく二つの中枢の最後の放射を拾おうとして、届かなかった。
「最終ログ、回収不能です」とツクモが言った。「距離と、時間が、足りません」
墓標の立てられない撃破が、二つ、帳簿の上に増えた。索敵席のヨルは端子を着けたまま、両手を膝の上で固く握っていた。断末魔は、距離があっても聴こえた。聴くと決めたのは自分だから、彼女は外さなかった。
「……あのふたつ」と、しばらくして彼女は言った。「なにを、まもってたのか、もう、だれにも、きけない」
七年間どこかの宙域で守り続けた何かの名前ごと、二隻は質量の中に消えた。ミソカの墓地にも並ばず、ツクモの保存庫にも入らない。撃破の認定すら、おそらく付かない。撃ったのが人間ではないからだ。それでもハルは、帳簿の引いた側に二つ、線を足した。誰の戦果でもない数字を数える係は、この宇宙に自分しかいなかった。
追撃群は、それでも止まらなかった。
残った九隻は隊列を組み直し、残骸の宙域を大きく迂回して、再び加速に入った。指揮個体の軽巡級が、伸び切った隊列を後方から束ね直していく。損益の計算は、まだ追撃の側に振れている。船団のゲート到達まで、あと五時間。
ハルは、四度目の帰投針路を送った。
離脱計画の線は、まだ生きていた。機雷原の縁まで引っ張った。鼻面は挫いた。隊列は伸びた。いまなら、縫航機関の充填九十分が間に合う。数字はそう言っていた。
受信確認の符号だけが返ってきて、《迎え火》は針路を変えなかった。九隻を、もう一段、船団の針路から斜めに逸らしにかかっていた。丁寧な無視だった。
そして、一度だけ、報告ではない言葉が回線に乗った。
「……艦長。昔、漂うよりは沈む方がましだと言ったな」
ヴェインの声は、静かだった。
「あれは、半分しか合っとらんかった。漂うのが嫌で、沈み方を探しとった。それで七年、間違った場所ばかり見とった。——撃たれて沈むんじゃない。誰かを逃がして沈むなら、上等だ。そういう順番だった。答え合わせに、七年かかった」
遺言の声ではなかった。
長年解けなかった計算の検算が、ようやく合った男の声だった。だからこそ、艦橋の誰も、相槌の言葉を持たなかった。
その通信の三十秒後、指揮個体の長距離射撃が、初めて《迎え火》を捉えた。
光条は艦尾を浅く薙ぎ、浅いはずの一条が、いちばん深い場所に届いていた。
「……被弾。艦尾」とヴェインの報告が来た。報告の声のまま、来た。「縫航機関、損傷。充填率——」
短い間があった。
「——ゼロで、固定された。跳べん」
離脱計画の線が、戦術図の上で、音もなく消えた。