第176話 訂正一枚

 査問の終結から五日、書類が順に届き始めた。
 第六〇〇日、辺境布告第八〇四号の正式な取消。取消にも布告番号が付き、罪が立ったときと同じ書式で、罪が消えた。逮捕協力賞金三千万の項は「失効」の二文字で潰され、写しの末尾に、賞金を狙って動いた者への補償は行わない旨が、几帳面に付記されていた。役所の文章は、誰が読んで怒るかを正確に知っている。
 同じ日の午後、口座の凍結が解けた。
「残高、八千五百三万クレジット。百三十一日ぶりに、紙の数字が金に戻りました」とツクモが言った。「手元の決済票が六百二十六万。合算、九千百二十九万です」
「テネブラエ港湾に送金しろ。滞納の使用料と保険料で百二十万、係留クランプの弁済が十四万。利息が付いてるなら、利息ごとだ」
「送金しました。利息は六千四百クレジットでした。逃げた側の請求書としては、良心的な利率です」
 残高、八千九百九十五万。約九千万——逃げる前より、五百万ほど軽くなった帳簿が、そこにあった。減った五百万の内訳は、偽の入港予約と、闇値の反応材と、寄進の様式の領収書で、全部説明がつく。逃げた分の請求書は、いつか全部払う。逃げた夜に帳簿へ書いた一行は、今日で消し込みが終わった。
 数字は、戻った。数字は、戻るのだ。
 戻らないものの一覧を、ハルはその日のうちに、三通の封書で受け取ることになった。

 一通目は、軍からだった。
 八年前の不名誉除隊について。便箋一枚、活字で四行。
 ——当時の処分理由に事実誤認のあったことが確認されたため、人事記録の処分理由欄を訂正する。本訂正は処分の効力そのものに遡及しない。再任用については別途定める。以上。
 謝罪の語は、なかった。原状回復の項目も、なかった。軍籍は戻らず、階級も戻らず、別途定める、の一行が戻す気のなさを定めていた。七年と、机と、名前と、二つ隣の席にいた男の命を取り上げた書類の訂正が、紙切れ一枚で済んでいた。重さを量れば、処分通知と同じ十二グラムだろう。役所の正義は、目方が変わらない。
「読み上げの要否を確認します」とツクモが言った。
「要らん。四行だ。読んだ」
「では保存の分類名を確認します。名誉回復、と分類しますか」
「しない」とハルは言った。「訂正、だ。書いてあるとおりに分類しろ。書いてないものを読むのは、七年前にやめた」
「保存しました。分類名——訂正一枚」とツクモは言った。「補足します。私の保存領域で、最も軽い物証です。最も軽い物証が、最も長い時間を清算しようとしています。帳簿として、釣り合いの取れない取引です」
「釣り合わせる気が、向こうにないからな」
 同文は、処分された四名の全員に発送されたという。ツクモが発送記録を照会した。一通は外縁の存命者——この艦——に届き、一通は消息不明者の最終住所で保管扱いになり、二通は宛先人死亡で還送されていた。採掘船の事故で死んだ男と、第二星系の復員者住宅で死んだ男。再審査請求の下書きを十一通書いて、一通も出せなかった男の郵便受けまで、訂正は律儀に旅をして、戻ってきた。
「還送された二通の保管期限は三年です」とツクモが言った。「期限が過ぎれば、廃棄されます」
「写しを取って、名簿に挟んでおけ。……廃棄される訂正もあった、という記録ごとだ」
 二通目は、ヴェイン・コルサクの死亡認定の確定通知だった。
 第五三三日の戦闘中行方不明について、所定の審査を経て死亡認定を確定する。遺体、回収不能。確認者、なし。本籍地、該当行政区消滅につき記載不能——ふた月遅れで届いた確定の判は、生きていた頃のあの男が一度も貰えなかった種類の、公式の正確さで捺されていた。
 三通目は、旧同盟関係の管理委員会からで、戦犯リストからの抹消通知だった。理由欄は「本人死亡につき訴追対象から除外」。撤退戦の機雷の審理は、行われないまま閉じられた。アレウス鉱山の群衆があの夜叫んだ問いは、誰にも確かめられないまま、書類の方が先に店を閉めた。死んでから許される名前と、書類の上でだけ正しくなる名前が、卓の上に並んだ。
 ハルは遺品の箱を開けた。半分残った配給の酒。中佐の階級章。《グロム》百十二名の名簿の入った端末。彼は自分の訂正の一枚を四つに畳み、階級章の隣に仕舞った。同じ引き出しに入れるべきものだと思った。書式の側の欠陥の、証拠物件として。
 保留の箱は、開かなかった。給与の日割り八万六千は、本籍地の欄が埋まらない限り、まだどこへも行けない。ツクモに供託の代替経路を照会させると、同盟遺族基金なら受け取れる、という答えが返ってきた。ハルは少し考えて、やめた。保険金は遺言の形をしていた。給与は、していない。本人の指図のない金を本人の代わりに動かすのは、代筆だ。代筆の権限は、誰にもない。
「保留を継続します」とツクモが言った。「分類名は、変更しません。——保留の箱、のままで」
 書類が正しくなっても、書類の穴は塞がらなかった。
 報知網の続報は、その穴の周りを几帳面になぞっていた。ホークの軍法会議の日程。特務局解体審査の中間報告。台帳にない研究施設は「所管の特定を継続中」のまま三週目に入り、回収済みの生体コアの所在は「調査中」の二文字で止まっていた。一人の男は折り畳まれて司法に渡され、男を生んだ組織の輪郭は、報告書のどの頁でも、霧のままだった。

 夕方、ヨルが食堂で、訂正の一枚を読んでいた。畳み皺を几帳面に伸ばして、四行を三度読み、活字の上に指を置いたまま、彼女は顔を上げた。
「ハル。……うれしく、ないの?」
「書類は正しくなった。それだけだ」
「それだけ?」
「それだけだ」とハルは言った。言ってから、それだけのために七年と、逃亡の四十七日と、三十一隻と、一本の記事が要ったのだ、ということは、口にしなかった。
 ヨルはしばらく考えてから、自分の帳面を開いて、何かを書いた。今度は、見せに来た。几帳面な小さい字で、こうあった。——かみは、ただしくなる。かぞえたものは、もとから ただしい。
「……そうだな」とハルは言った。「帳簿の方が、最初から正しかった」
 彼女は頷いて、帳面を閉じた。慰めの語彙を、この子は誰からも習っていない。習っていないやり方で、毎回、一番正確な場所に置いてくる。
 その夜、ハルは自分の帳簿を開いて、訂正の文面を書き写した。四行、そのままだ。書き写してから、四千十二の頁を開き、何も書き換えずに、閉じた。訂正されたのは処分理由であって、数字ではない。数字の側の訂正を出せる役所は、この宇宙のどこにもない。
 カンプからは、祝電が来た。電文の様式で、祝いの語が一つもなかった。
 ——布告取消を確認した。技術所見は審査資料から返却された。引き出しには戻さん。これで堂々と仕事を回せる。次の請求書は高くつくぞ。
「祝電の分類で保存します」とツクモが言った。「彼の書式では、これが最大級の祝辞です」
 夜、医務室の前を通りかかると、扉が細く開いていた。
 ナナオは寝台の縁に腰掛けて、紙のカルテの束を膝に載せていた。卓の上に、杯が一つ。注がれたまま、手を付けられていなかった。生体コアの隠蔽は紙面に載り、台帳にない施設は捜索が始まり、回収済みのコアの所在確認が議会の付帯決議に載った。彼の署名が作った地獄の後始末は、三十年目にして初めて、彼一人の仕事ではなくなった。進んだのは、それだけだ。それだけのことを、老医は誰にも言わず、一杯の酒の前で済ませている。
 ハルは声を掛けず、通り過ぎた。葬式の夜の酌は、邪魔をしないのが作法だった。注がれたまま減らない一杯の作法を、この艦の者は全員、別々の戦争から持ち寄っている。
 七年は還らない。ヴェインも還らない。正しい書類だけが、増えていく。

 翌々朝——第六〇三日、連合から新しい封書が届いた。
 命令書の書式ではなかった。辞令の書式でもなかった。公文の分類符号の欄に、ハルの七年の経験にもない番号が立っていて、件名の行に、二文字だけあった。
 ——特命。