第183話 姉の手筋

 三日で、敵は別の艦隊になった。
 回収航路は再編され、便の間隔は乱数になった。護衛は常に相互支援距離を保ち、単独で動く艦が外殻から消えた。第六二一日には、巡視艇の牽制で姿勢制御を損傷した外殻の一隻が、隊列から落伍した。七年前の艦なら、僚艦が救援に出る。救援に出た艦を撃つのが、葬送艦の古い手筋だった。
 救援は、来なかった。外殻艦群は損傷艦を計算から外し、輪を半隻分だけ詰め直して、何事もなく周回を続けた。落伍した一隻は三時間、独りで漂ってから、自力で礁に這い戻った。
「私と同じ手筋です、艦長」とツクモが言った。「損傷艦の救援は、期待値で裁く。釣り野伏は、餌の鮮度を疑う。手筋の出典を申し上げます——葬送艦計画、対自律艦戦術概論。同じ計画で造られましたから。姉は私の教本を、私より長く読んでいます」
「なら、教本の続きも読まれてるな」
「はい。本艦の手は、概ね先回りされると考えてください」
 膠着が始まった。
 漸減のための釣りは三度仕掛けて三度見切られ、外殻の輪は削れないまま、こちらの推進剤だけが日割りで減っていく。
 《燈籠》のガロは、そのあいだも礁の縁で聴き続けていた。緊急でない短信が、夕方に一通ずつ来る。外殻の周回、本日も変針三回。内側、沈黙。機材は直った、と言った男は宣言どおり全部を感知し、感知したものを全部寄越した。異常の無さを毎日数えるのも、包囲戦の仕事のうちだった。兵站の時計は、数で勝る側よりも、補給線の長い側に厳しい。礁の連中は自宅にいて、こちらは出先だった。
 数字にすると、こうなる。艦隊六十六隻の推進剤消費、一日およそ百九十トン。タンカー三隻の積載で賄える滞陣は、当初見積もりで二十六日。漸減が膠着すれば、その日数だけが静かに減っていく。ツクモは毎朝、残日数を経理の欄に並べ、ハルはそれを隠さず全艦に流した。時計の針を全員に見せるのは、焦れを宥める手ではない。焦れの正体に、全員で名前を付けさせる手だった。名前のある焦れは、まだ御せる。

 焦れは、四日目に形になった。
 第六二二日、傭兵艦二隻が、指示の外で外殻の落伍艦を狙いに出た。賞金の欄のない猟でも、サルベージ権は実入りになる。落伍艦は釣り野伏の餌に転用されており、二隻は対空圏の交差射界に三十秒早く踏み込んで、一隻が落とされた。《岬鴉》、乗員十一名。脱出艇、確認されず。
 救助には巡視艇が二隻向かい、四時間、残骸帯を浚った。回収できたのは艦名の入った外殻の破片と、誰のものか分からない手袋が片方だけだった。もう一隻の抜け駆けは対空圏の縁で擦り傷を負って逃げ帰り、艦隊の輪に戻る前に、回線の沈黙の中で処分を待った。処分は、来なかった。来ないことが、どの処分よりも長く効いた。
 ハルは叱責の通達を出さなかった。出す代わりに、その夜のうちに十一名の名を確認し、補償基金の支払い手続きを自分の手で書いた。書き終えてから、全艦回線の定時連絡に一枠を足した。前日の戦死者の氏名と、遺族への支払いの進捗。毎朝〇七〇〇、旗艦から配信。
「訓示は付けますか」とツクモが訊いた。
「付けない。名前だけでいい」
 翌朝の配信は、十一行だった。叱る言葉も悼む言葉もない、名前と手続きの進捗だけの十一行。
 その朝、艦隊の回線はいつもより静かだった。十一の名前は、賞金の話の合間に挟むには重すぎ、黙祷の号令をかけるには事務的すぎた。ちょうどいい置き場所がないまま、名前だけが各艦の端末に残った。置き場所のなさが、たぶん、いちばん正しい弔いだった。抜け駆けは、その日から止んだ。

 打開の糸口は、索敵席から来た。
 ヨルは連日、外殻の管制波を聴き続けていた。規定の一日二回、各十分。ナナオが計時器で締める十分のあいだ、艦橋は彼女の耳の邪魔になる音を全部落とす。機関は定常、会話は禁止、計器の警告音まで絞る。十分が終わると、彼女は聴いたものを帳面に描いた。波形ではなく、絵だった。痩せた艦。眠い艦。怒っているのではなく、飢えている艦。第六二三日の二回目、端子を外した彼女が言った。
「そとの、かんたい。……こえに、うえが、まじってる」
「飢え?」
「ねんりょう、すくない。ぶざい、ふるいまま。……なおして、もらってない。なかの、かんたいは、しずか。たっぷり、ねてる」
 帳面の絵では、外の四十隻は線が細く、内の八十隻は線が太かった。子供の絵のような対比が、どの解析図より雄弁だった。
 ツクモが補給の見積もりを重ねた。答えは単純だった。ミソカは前線の外殻への補給を絞り、決戦兵力を礁の内側に温存している。外殻四十隻は、漸減されることを織り込まれた捨て石だった。
「捨て石なら」とハルは言った。「拾える」
 飢えた艦は、判断の閾値が下がる。下がった閾値に、いちばん深く刺さる信号を、この艦は知っていた。
「囮歌の新譜を起こします」とツクモが言った。「素材は、帰還命令。様式番号、発令書式、認証の枠組みは、KC-一一八で実証済みの復元手順を流用します。外殻の個体に、帰還命令の再送と誤認させ、判断系を停止させる。飢えと八年の待機で、誤認の成功率は高い、とだけ申し上げます」
 艦橋が、一拍黙った。
 偽の帰還命令。七年待った言葉の偽物を流して、待っていた者の足を止める。止まった的に、本物の杭を撃つ。作戦図のどこにも瑕疵はなく、響きだけが底まで悪かった。ナナオが何か言いかけて、やめた。セルマの回線も、沈黙のまま切れなかった。
 沈黙の終わりに、元聖騎士は一言だけ寄越した。
「貴様のその歌は、嘘の福音だ」
「知ってる」
「知っているなら、いい。……死人が減るなら、教団は黙って祈る。祈りの宛先は、騙される側に置いておく」
「演算、組み上がりました。——訂正します。再演算。……組み上がりました」
 二度組み直した、とツクモは言わなかった。索敵席のヨルが帳面を開き、ナナオが袖の計時器に目を落とすのを、ハルは視界の端で数えた。
 その晩のカルテに、ナナオは短く書いた。囮歌の演算、二度の組み直し。本人、隠さず。数字は一・五に寄りつつある。書いてから、彼は頁の余白を長いこと見ていた。余白に書けることは、医学の側にはもう残っていなかった。

 初運用は、第六二四日だった。
 外殻の哨戒隊三隻に向けて、《燈籠》の中継で歌が流れた。七年前と同じ様式番号、同じ認証枠、帰投先の座標だけが空欄の、出来損ないの福音。三隻は周回針路の途中で、ほとんど同時に推力を落とした。応答信号が三つ、空欄の座標に向かって繰り返し打たれた。帰投先、再送されたし。帰投先、再送されたし。
 動けなくなった三隻のうち、二隻を艦隊の砲が沈め、指揮個体に《送り火》の杭が降りた。三十三隻目。最終ログの末尾には、受信済みの偽の歌が、本物の顔をして保存されていた。ツクモはそれごと収めた。百五十、百五十一、百五十二件目。
 戦果報告の回線は、今日は沸かなかった。
 沸かない理由を、誰も口にしなかった。三隻の停止は、感知網で見れば投降のように見えた。投降の受け入れ先を、この戦場は持っていない。鹵獲は特命の条項で禁じられ、禁じる条項を書かせたのはハル自身だった。条項は正しい。死者の艦隊は資産ではなく、葬るべき死者だ。正しさを書面で読み上げてから撃つ戦争を、人類はまだ発明していなかったので、艦隊は黙って撃った。
「次の歌の準備に入ります」とツクモが言った。「所感を申し上げますか」
「言ってみろ」
「私はかつて、同型艦を偽の集結信号で誘い出し、撃沈してきました。仕様の範囲です。本日の歌は、仕様の範囲の外から、底だけが冷えます。分類できない感覚は、記録に馴染みません」
 ハルは、すぐには答えなかった。答えの代わりに、自分に言い聞かせるように言った。
「偽の命令で止めた艦を、本物の杭で撃つ。——仕事だ」
 仕事だ、ともう一度言う前に、やめた。二度言えば、言い聞かせていることが、艦中に知れる。