第186話 掠れた歌

 澪を獲っただけでは、道にならない。
 水路の両岸には骸の森が続き、森には伏撃の還らず艦が潜んでいる。第六三一日、艦隊は橋頭堡を礁の内側へ押し込みながら、岸の掃討に一日を費やした。骸の陰から不意に起きる伏撃艦を、ヨルの耳が先に拾い、艦隊の砲が囲んで沈める。地味で、消耗の多い、葬式の参列を整えるための仕事だった。
 伏撃艦は、骸の中で機関を殺して待つ。待ち方は《送り火》と同じ流儀で、つまり、見つける側の苦労も同じだった。ヨルの十分間は今日も規定を超え、ナナオの計時器は今日も、見なかった振りを覚えた。六隻目までに、艦隊は水路の両岸を二十キロ分、骸を一つずつ検めながら進んだ。
 六隻目までは、それで済んだ。
 七隻目の途中で、それは起きた。
 伏撃艦を炙り出すための囮歌を、《送り火》は朝から歌い続けていた。骸の森に偽の艦影を立て、伏撃の照準を空白へ吸わせる、いつもの譜面だった。一一二〇、譜面の周波数が、戦闘の最中に乱れた。
 偽の艦影が、半秒、座標を飛んだ。飛んだ先は、掃討支援に出ていた傭兵艦《ばら銭》の実座標と重なっていた。火器管制の照合表の上で、味方の符号と敵の艦影が同じ升に入り、《送り火》の射撃指揮系が、淡々と解を出した。目標、補足。光条、充填。
 ハルは考えるより先に、射撃指揮の主回路を手動で切った。
 充填音が落ちる。艦橋の計器が、何事もなかった顔で平常へ戻る。回線の向こうで、《ばら銭》の見張りが上げかけた悲鳴の断片だけが、切り損ねた送話に乗って残った。葬儀屋の艦の砲が、こちらを向いた——その一部始終を、艦隊の半分が感知網で見ていた。
 《送り火》の艦橋も、凍っていた。
 ヨルは索敵席で端子を握ったまま動かず、ハルの手は遮断器の上に置かれたままだった。手動で切るまでに要した時間、一・一秒。間に合った、という事実と、間に合わない日がいずれ来る、という計算が、同じ升目に並んで座った。
「報告します」とツクモが言った。誰よりも先に、自分から。「囮歌の周波数逸脱。原因、劣化領域の侵食。射撃指揮系は艦長の手動遮断により停止。発砲、なし。……繰り返します。発砲は、ありませんでした」
 繰り返したのは、艦隊のためではなかった。
 艦隊の回線が、凍った。
 禁制の中枢を積んだ黒い艦。七年かけて薄めてきた古い恐怖が、一瞬で濃度を取り戻すには、半秒あれば足りた。誰かが何かを言う前に、教団の先頭艦から、硬質な声が全艦回線に割り込んだ。
「教団護衛艦より、全艦へ。いま起きたことを正確に言う。機械が乱れ、人間が止めた。それだけだ」とセルマは言った。「付け加える。あの艦の機械は二年、一度も人間を撃っていない。撃たせぬよう見張るのが私の聖務だった。出会って以来、見張ってきた。——保証する。異端審問官だった女の保証だ。これより重い書式を、貴様らは持っているか」
 持っている者は、いなかった。回線は少しずつ温度を取り戻し、《ばら銭》の船長が、強張りの残る声で一言だけ寄越した。
「……肝が冷えた。だが、止まるところも見た。帳消しにはせんが、帳尻は合っとる」
 掃討は再開された。七隻目の伏撃艦は、骸の陰から出たところを保安の巡視艇に追われ、最後は《送り火》の杭が停めた。三十六隻目。最後の命令は、水路ヲ封鎖セヨ。封鎖は七年続き、今日破られ、破った側の杭で終わった。この日の艦隊の損害、巡視艇一隻、戦死十一名。十一名の艦は、漸減戦の初日から囮役を三度引き受けた艇だった。ツクモは伏撃艦七隻分のログのうち、誘爆で失われた一隻を除く六件を収めた。百七十四から、百七十九件目。

 夜、ツクモは自己診断の結果を、艦内放送で読み上げた。
 隠すことも、ハルだけに告げることもできたはずだった。彼女は全乗員に向けて、損傷報告と同じ抑揚で言った。
「本日の囮歌の乱れは、劣化領域の侵食によるものです。侵食は、戦術中枢の根に達しつつあります。応答遅延、平均一・八秒。本日の事象を含め、信頼性の低下は隠蔽せず、都度報告します。……全力演算の残り回数を、申し上げます。一回です」
「一回、の意味を確認する」とハルは言った。
「囮歌の新譜、または射撃管制の完全解。どちらか一度で、私の戦術中枢は実用域を出ます。以後の本艦は、杭を持った輸送船です。——使いどころは、艦長が決めてください。残り一回ぶんの、ご決断を」
「決める。決めるが、一つ確認だ。お前自身は、どこで使いたい」
「設問の様式が、規定外です」とツクモは言った。二秒の間があった。「……規定外のまま、回答します。姉のところで。私の最後の譜面は、あれのために書かれるべきです。設計目的として、ではなく」
「としてではなく、何だ」
「分類できません。分類できないまま、保存します」
 艦橋の誰も、すぐには口を開かなかった。決戦を前に、艦は自分の残量を升目まで量って差し出していた。量り方の正確さが、いちばん堪えた。
 読み上げのあと、ツクモは艦隊全体へ通達を一通流した。本艦中枢の不調は、以後、発生の都度、全艦に開示する。名義の欄には、艦長代理でも旗艦機関でもなく、ツクモ、とだけあった。禁制の機械が自分の名前で病状を申告する書式は、回廊のどの規程集にも載っていない。載っていないまま、受理された。受理した六十何隻がどの顔でそれを読んだかは、感知網には映らなかった。
 通達のあと、教団の先頭艦から短い私信が来た。宛名は、ハルではなかった。
「九九号。保たせると言ったな」
「言いました。保たせています。残量の数字も、嘘なく開示しました」とツクモが答えた。「信仰と呼ぶのでしょう、あなたがたの様式では」
「……いいや」とセルマは言った。「うちの様式では、それは誠実と呼ぶ。減らず口の在庫が尽きる前に、戻ってこい」
 私信の写しは艦長席にも回ってきたので、ハルは読んで、消した。誠実、の二文字を本人の保存領域がどう分類したかは、訊かなかった。

 消灯後、ナナオがハルを医務室に呼んだ。
 机に杯がふたつ。老医は自分の分だけ注ぎ、ハルの分には瓶を傾けなかった。
「あんたは飲まんでいい。聞くだけでいい」と彼は言った。「決戦の話は、もう全員で十分やった。わしがするのは、決戦の後の話じゃ。——彼女を撃たずに済ます方法の話だ。わしはな、艦長。そのためにこの艦に乗っとる」
「あるのか。方法が」
「ある」
 ナナオは杯を干して、置いた。
「三十年前、わしはあれらの頭の設計に署名した側の人間じゃ。どこが腐るかは、設計した側がいちばんよう知っとる。腐った領域を凍らせて、切る。物理でな。問題は三つ。凍らせる鍵がうちにないこと。切る場所を内側から照らす目が要ること。執刀するのが、わしみたいな古い罪人しかおらんことじゃ」
「鍵は」
「教団の聖遺物。大戦前の正規管制鍵。あれはTYPE-9の基底層まで届く。……アッシュの爺さんが、焼かずに守ってきた理由が、もし神様とやらにあるんなら、ここで使わせるためじゃろうよ」
「やった例は、あるのか。その手術」
「無い」と老医は即答した。「大戦の末に一度だけ、図上の演習をやった。患者は症例記録の中の、九十九の同型機。執刀の予定者はわしで、演習の結論は、開頭の前に正規鍵が要る、じゃった。鍵は当時から教団の倉の中でな。演習はお蔵入りになり、患者は十一ヶ月後に僚艦を撃って、撃たれた。……九年遅れの再演じゃよ、艦長。今度は、鍵の当てがある」
 老医は、空の杯を見た。
「方法は、ある。あるが——教団の聖遺物と、ヨルと、わしの古い罪が要る。三つ揃えて、成功率の話は、せん。せんでいいことにしとる」
 杯を伏せて、老医は最後に言った。
「艦長。明日からの的は、わしの患者の姉じゃ。撃ったあと、この艦の中の誰が、どの順番で、どう壊れるか。わしはそういう見積もりを三十年、職業としてやってきた。今夜の見積もりの紙はな、白紙にしてある。白紙のまま終わらせるのが、わしの猟じゃよ」