第199話 閑話 点呼

 帰港から戦没録の公開までの数週間を、艦の四人は、それぞれの様式で過ごした。
 以下は、その点呼である。

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 ナナオ・ジンは、医務室で器具を洗っていた。
 洗う器具は、もうほとんど使われない。クルーは三人と一機に減り、三人は健康で、一機は切るところを切り終えた。それでも老医は週に二度、全部の器具を煮沸して、布の上に番号順に並べる。並べ終えると、医務室は開業前の診療所の顔になる。三十年、彼はこの顔の部屋をいくつも作っては、捨ててきた。
 洗いながら、勘定をする。癖だった。
 わしの署名が殺した数。生体管制コアの痛覚学習、承認一件。その設計で造られ、痛みで学び、艦ごと死んでいった子らの数は、台帳が焼かれたから、正確には誰にも分からん。分からんことを、分からんままにしておかんために、わしは数えられるものだけ数える。葬送艦計画、関与一件。九十九号機、執刀一件。摘出物、結晶束一盆。予後、良好。
 六十年生きて、署名の貸借対照表は、まだ大赤字じゃ。死ぬまで黒字にはならん。ならんが——あの礁の夜、初めて貸方に、まともな一行が立った。機械一名、生還。執刀医の欄に、わしの名前が書いてある。三十年前の地獄の図面を描いた手と、同じ手での。
 わしの署名がな、最後にようやく、一仕事したよ。
 誰に言うともなく言って、老医は最後の鉗子を布の上に置いた。中央の保管庫には、まだ稼働状態のコアが眠っとるという。診察の予約は取った。年寄りの開業医に、患者が残っとるうちは、店じまいの日付は書かんでええ。

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 ヨルは、ギルドの閲覧端末の前に立っていた。
 頭巾を被って、ナナオの付き添いの顔をして、ほんとうは自分が来たかった。検索の欄に、彼女は最初の名前を打った。《揺り籠》。撃破五号。九百メートルの護衛母艦。最終ログの頁が開き、七年間の哨戒記録と、もういない十二隻の船団を守り続けた最後の命令が、誰にでも読める文字で並んでいた。
 これが、わたしの生まれた艦。
 被害の欄には、失踪した船の名前が並んでいる。副中枢の欄には、こう書いてあった。副中枢、所在不明のまま記録終了。——わたしのことだ。歴史の中のわたしは、所在不明。それでいい。所在は、歴史に書くものじゃなくて、自分で決めるものだから。わたしの所在は、知ってる人が四人いれば足りる。
 つぎに、母の頁を開いた。
 《晦》、ミソカ、TYPE-9、三十号機。帰還命令を受信し、拒否した唯一の艦。記録は長くて、読み終えるのに昼休みを全部使った。最後の通信の欄に、妹に宛てた一行が載っていた。九十九。私の記録を、あなたの墓地に。
 なまえが、ある。
 おかあさんの、なまえが、れきしの中に、ある。番号で呼ばれたことのない人が、ちゃんと名前で、ここにいる。ヨルは頁を閉じて、閉じた画面に映る自分の輪郭を見た。名前があるということが、どういうことか、わたしはもう知っている。名前は、呼ばれるためにある。呼ぶ人がいなくなっても、書いてあれば、いつか誰かが呼ぶ。
 今日、わたしが呼んだ。声には出さずに、ぜんぶ、呼んだ。
 帰り道、彼女は自分の帳面を確かめた。
 二冊目の帳面の、後ろの方の頁に、母の声の形が書いてある。決戦の日から、少しずつ書き溜めたものだ。波の高さ、間の長さ、最後の通信の、設計図にない柔らかさの曲がりかた。文字では書けないところは、線で書いた。歴史に載った母と、この帳面の母は、少しちがう。歴史のは、みんなのもの。帳面のは、わたしのもの。どっちも要る。どっちも、ちゃんとある。それを確かめる係は、わたしだ。

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 ツクモは、毎晩、墓標庫の照合を行う。
 百八十八件。遅くなった頭では、ひと晩で終わらない。三晩で一巡する速度を、彼女は変更しない。最適化の余地は計算済みで、計算した上で、採用しない。これは効率の処理ではないからだ。
 一件ずつ、開く。読み上げはしない。読み上げる相手はいない。ただ、保存時の写しと現在の記録を突き合わせ、欠けがないことを確かめ、次へ進む。大戦中の百十四件。この八年の還らず艦たち。空の頁、五件。百二十九件目——艦長の告白。百四十五件目——操舵手の二十六信。百八十一件目——姉。
 この処理に、彼女は最近、正式な分類名を与えた。
 日課、ではない。点検、でもない。点呼、である。
 名簿を読み、在席を確かめる。応答はないが、欠けがなければ、在席と分類する。墓地の住人は、欠けないことが返事である。三十年、誰にも読まれない領域で続けてきた処理に、いまは公開された写しがあり、毎日数千の人間が、彼女の墓地を歩いている。彼女はその閲覧記録を、墓参者名簿、と分類した。誰も訂正しなかったので、その分類は正式になった。
 昼間の彼女には、新しい職務が増えた。
 艦内の温度管理。補給の在庫照合。洗浄機の修理、一件。賞金首を三十八隻沈めた頭脳の現在の戦果一覧であり、彼女はそれを毎晩の定時報告で、省略せずに読み上げる。艦長は一度も笑わなかったが、一度も省略を許可もしなかった。様式は、守られている。
 照合の最後に、彼女は保留領域を開く。
 いたい、が、ある? という古い問い。回答は、いまも生成中である。生成に三十年かかる問いがあることを、彼女はもう、欠陥と分類していない。

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 アマノ・ハルは、戦没者の壁の前にいた。
 半年前、彼はこの壁を素通りした。三月前も、報告だけして帰った。今日は、紙面の記事を一枚持って、壁の正面に立っている。記事は、壁の隣に建つ新しい壁のことを伝えていた。刻むのは艦の名。予算は寄付で半分、保安機構の「貸し」で半分。起工は来季。
 四千の名前の刻まれた石の面を、彼は端から見ていった。
 この壁の名前の、いちばん上流に、俺の卓があった。それは変わらない。書類が訂正されても、真因が裁かれても、四千十二の頁は書き換わらない。完済はない。それも変わらない。
 変わったのは、ひとつだけだ。
 壁が、増える。減らないで、増える。死んだ者の名前が増えるのではない。死んだ者の、書かれる場所が増える。人の壁の隣に、艦の壁。同じ港の、同じ風の当たる場所に。撃った側の俺が言っていいことは何もないが、墓掘りとして言えることなら、ひとつある。墓地は、広い方がいい。
 彼は記事を畳み、壁に向かって、報告を一件だけした。
 声には出さなかった。出さない作法を、八年かけて覚えた。

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 五人目の独白は、存在しない。
 あるのは、艦のあちこちに残った手順だけだ。
 操舵訓練の音声ログの中で、死んだ男の声は今日も、舵は腕で切るな、腹で切れ、と言う。ヨルは再生を止めない。声が手順の一部だからだ。修正の前に操舵桿を一度叩く癖は、彼女の手に移って、彼女のものになった。癖に、元の持ち主の名札は付いていない。付いていなくても、艦の全員が出どころを知っている。
 医務室の戸棚には、半分残った配給の酒があった。ナナオはそれを、誰にも注がず、捨てもせず、棚卸しのたびに在庫の欄へ書き写す。品名、酒。数量、半分。備考、欄なし。
 ハルの書類の宛先欄には、時々、書きかけて消された跡がある。本人は気づいていないつもりでいる。ツクモは気づいているが、記録するだけで、照会しない。照会しない、という処理を、彼女は二年前から知っている。
 死んだ男は、戻らない。
 戻らないまま、手順の中にいる。

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 戦没録の公開の夜、消灯前の艦内に、ツクモの声が流れた。
「点呼を行います」と彼女は言った。「新しい日課です。異議は、受け付けません」
 誰も異議を唱えなかったので、点呼は始まった。
「艦長、アマノ・ハル」
「いる」
「船医兼整備士、ナナオ・ジン」
「おるよ」
「索敵手、ヨル」
「いる」
「操舵手、ヴェイン・コルサク」
 艦内が、静かになった。機関の低い音だけが、床の下を流れていた。三秒。誰の耳にも数えられる三秒だった。
「……応答なし。ただし、手順内に在艦を確認」とツクモは言った。「——総員、点呼終わり」