ハイド・ステーションに帰投して三日、ダーナが集めた情報が、オルコットの元に届いた。

帰投してからの三日間は、表向きには何も動きのない、静かな日々だった。《薄明》は定期整備のため係留区画に固定され、乗組員たちは久しぶりの休息を取っていた。艦のあちこちで、デルフォス以来溜まっていた消耗品の補給や、装甲の応急修理跡の本格的な補修が進められていた。金属を研磨する音、配管の圧力試験を告げる甲高い電子音、整備員たちの淡々とした報告の声――日常の雑多な音が、久しぶりに艦内に戻ってきていた。オルコットもまた、報告書の作成という名目で艦長室に籠もり、表面上は落ち着いた任務後の時間を過ごしていた。

だが実際には、彼の意識の大半は、連邦領内にいる一人の女性のことに向けられていた。護送ルートの最終確認が取れた、という短い暗号通信を最後に、セシルからの連絡は完全に途絶えていた。任務としては、それで問題はなかった。彼女の役目は、あの護送ルートの情報を渡すところまでで完了している。それ以上の接触は、むしろ危険を増すだけだ――頭ではそう理解していても、胸の奥の落ち着かなさは消えなかった。

三日目の朝、艦長室の扉が控えめにノックされた。

「艦長、連邦領内の通信傍受記録です。断片的ですが……」

ダーナの声には、明らかな緊張があった。オルコットは持っていた端末を置き、彼女に向き直った。

「聞こう」

オルコットは椅子の背を軋ませて座り直した。整備報告書に目を落としていたはずの意識が、一瞬で切り替わる。ここ三日、彼はこの瞬間をどこかで待っていた気がした。何も届かないことよりも、たとえ悪い知らせでも、何かが届くことの方が、まだましだった。

ダーナは端末を差し出しながら、慎重に言葉を選ぶように続けた。

「自律核倫理制限設計チームの人員に対し、保安局特務班による事情聴取が行われている、という記録があります。対象者リストの中に、セシル・マーロウの名が」

オルコットの胸に、冷たいものが走った。周囲の音が、一瞬、遠のいたような感覚があった。彼は自分の声が、思ったより平静に響いたことに、後になって驚くことになる。

「――拘束されているのか」

「そこまでは、わかりません。ただ、少なくとも彼女は、現在も自宅待機命令を受けているという記録があります。正式な起訴には至っていない模様です」

「理由は」

「デルフォスの一件と、哨戒配置情報の遅延との関連が疑われている、とだけ」

ダーナはそこで一度言葉を切り、端末の画面をスクロールした。

「傍受した通信の断片からは、これ以上の詳細はわかりません。特務班の内部通信は、我々の傍受能力を超えた暗号化がかけられています。これだけの情報を得るのにも、複数の中継局を経由する必要がありました」

「よくやってくれた」

オルコットは短く労いの言葉をかけたが、心の中では別の思考が渦を巻いていた。哨戒配置情報の遅延――それは、まさにセシルが彼らのために作り出してくれた、あの命綱のような数分間のことだった。彼女が身を挺して作った隙間を、連邦の捜査機関は着実に見つけ出しつつある。

「艦長、一つよろしいですか」

ダーナが珍しく、自分から言葉を継いだ。

「マーロウ技術士官は、我々にとって、単なる情報提供者ではありません。彼女なしでは、デルフォスの護送ルートは絶対に割り出せなかった。乗組員の間でも、そのことは共有されています。皆、彼女のことを気にかけています」

その言葉に、オルコットは少し驚いた。ダーナがそこまで踏み込んだ発言をするのは、珍しいことだった。

「――そうか」

「差し出がましいことを申しました。失礼します」

「いや、いい。聞けてよかった」

ラスクからも、ほぼ同時に連絡が入った。端末に表示された文面を、オルコットは何度も読み返した。

『セシル・マーロウ技術士官、現在、連邦保安局の監視下に置かれています。マルコ・ヴィスが直接、彼女の事情聴取を担当しているという情報もあります』

マルコ・ヴィスという名前を目にした瞬間、オルコットの記憶に、デルフォスでの強行策動のさなかに聞いた噂が蘇った。連邦軍保安局特務班長。鍵強奪の一報を受けて以来、真っ先に動き出したという男。その苛烈さは、連邦領内でもすでに知られているという話だった。

ラスクの続く報告によれば、ヴィスはこの十年ほどで急速に頭角を現した人物で、保安局内でも特に対外諜報と国内反逆容疑の摘発において実績を積んできたという。彼の担当する案件は、起訴率が異常に高いことでも知られていた。つまり、彼が事情聴取に乗り出したという事実そのものが、すでにセシルの立場が相当に危ういことを意味していた。

オルコットは、その男の顔も知らず、声も知らない。だが想像するだけで、胸の中に苦いものが広がった。セシルは今、その男の前で、どんな表情をしているのだろうか。

オルコットは端末を握りしめた。画面の光が、彼の指の骨の輪郭を白く浮かび上がらせていた。艦長室の空調が、一定のリズムで低く唸っている。その単調な音だけが、今の彼にとって、唯一変わらない世界の証だった。

デルフォスでの日々を思い返せば、あの時はまだ、次に何をすべきかが明確だった。だが今は違う。彼女を助けるための具体的な手段が、まだ何一つ見えていない。行動できないことのもどかしさが、これまでのどんな戦闘よりも、オルコットの神経を苛んでいた。

「――彼女に、接触する方法は」

『現状ではありません。下手に動けば、彼女への疑いを決定的にするだけです』

「何もしないというのか」

『今は、それしかできません、艦長』

ラスクの声は、いつもと変わらず平坦だった。だがその平坦さの奥に、彼なりの苦渋がにじんでいるのを、オルコットは感じ取っていた。ラスクもまた、この作戦の発案者として、セシルの協力なしにはここまで来られなかったことを、誰よりも理解しているはずだった。

わかっていた。理性では、わかっていた。だが、彼女があの危険な区画の抜け道を作ってくれなければ、鍵は今頃、鎮魂会の元には届いていなかった。彼女の犠牲の上に、今の成功があった。その事実を思うたび、オルコットの胸には、感謝とは別種の、重く鈍い痛みが広がった。

彼は自問した。もし立場が逆だったら、自分は同じように動けただろうか。祖国の隠蔽を暴くために、敵国の艦長に情報を渡す――それは、単なる裏切りという言葉では片付けられない重さを持つ選択だったはずだ。セシルはその選択を、たった一人で背負い、そして今、その代償を一人で払わされようとしている。

窓の外には、ハイド・ステーションの人工太陽が、変わらぬ明るさで輝いていた。停泊中の艦艇が、整然と係留区画に並んでいる。何も変わらない光景のはずなのに、オルコットにはそのすべてが、どこか色を失って見えた。整備員たちの淡々とした作業の声さえ、今はひどく遠く聞こえた。

「――マルコ・ヴィスという男の情報を、もっと集めろ。彼女に何が起きているか、少しでも把握したい」

「承知しました。……艦長、一つだけ申し上げてもよろしいでしょうか」

「言え」

「情報を集めるだけで、留まっていただけますか。今の段階で、艦長が単独で何かを起こせば、それこそ彼女の立場を悪化させかねません」

ダーナの言葉には、部下としての率直な懸念が滲んでいた。オルコットは、しばらく彼女の目を見返した後、小さく頷いた。

「わかっている。今は情報を待つ」

その返事に、ダーナはわずかに肩の力を抜いたようだった。彼女は一礼して部屋を出ていった。扉が閉まる音を聞きながら、オルコットは椅子に深く沈み込んだ。天井を見上げ、しばらく目を閉じる。艦長として、彼はこれまで幾度も部下を危険にさらしてきた。だがそのたびに、少なくとも自分の指揮下にある者たちの安全については、直接手を尽くすことができた。今回は違う。セシルは彼の指揮下にはいない。連邦という、彼の手の届かない場所にいる。

指揮下にない者を守るために、指揮官である自分に何ができるのか。その問いに、まだ答えは出ていなかった。だが、何もしないという選択肢を、オルコットの中では決して受け入れられなかった。

その夜、オルコットは艦長室で一人、セシルから届いた最後の暗号通信を、何度も読み返していた。文字数にして、わずか二十数文字の短い文面。だがその中に込められた思いの重さを、彼は誰よりも知っていた。

『護送ルート、最終確認取れました。……無事に、お会いできることを願っています』

願いは、まだ叶っていなかった。そして今、その願いを叶える手段すら、彼の手からこぼれ落ちようとしていた。オルコットは端末の画面を暗くし、しばらくの間、何もない天井を見つめ続けた。連邦領内で今、彼女がどんな状況に置かれているのか。想像するたびに、胸の奥がひどく重くなった。

技術交流会議で初めて言葉を交わした日のことを、オルコットはふと思い出した。彼女は資料を淡々と読み上げるだけの官僚的な技術士官ではなく、自国の技術体系の危うさそのものに、静かな疑問を抱いている人間だった。あの目の強さに惹かれたのだと、今になって素直に認めることができた。あの強さが今、彼女自身を追い詰める刃になっていないことを、オルコットはただ祈るしかなかった。

艦長室の壁時計が、静かに時を刻んでいた。窓の外では、ハイド・ステーションの人工太陽が、変わらぬ光量で夜を演出し始めていた。オルコットは端末を机に置き、しばらくの間、何も考えずにただ座り続けた。次に動くための材料は、まだ何一つ揃っていなかった。

(第33話へ続く)