連邦の外交抗議は、同盟政府を大きく揺さぶった。
一報が入ったのは深夜だった。オルコットは《薄明》の艦長室で仮眠を取っていたところを、ダーナに叩き起こされた。艦内時間はすでに〇二〇〇を回っていたが、通信室の照明は落とされておらず、当直の面々が緊張した面持ちで端末を睨んでいるのが、扉の隙間から見えた。ホロ画面には、連邦外務省の紋章とともに、抗議文の全文が映し出されていた。文言は硬く、慇懃だったが、行間から滲み出る怒気は隠しようもなかった。
「艦長、これは――正式な外交文書として、両国の全メディアに同時配信されています」
ダーナの声には、隠しきれない硬さがあった。オルコットは画面をスクロールしながら、抗議文に列挙された「証拠」なるものを一つ一つ確認した。デルフォス地下要塞での交戦記録、セシルの失踪日時、その後の同盟軍艦艇の航路データ。断片的だが、繋ぎ合わせれば十分に不穏な絵図を描き出せる材料だった。
「本国は、もう動いているのか」
「参謀本部から緊急招集がかかっています。艦長も出頭するようにと」
緊急会議は、朝を待たずに開かれた。オルコットは末席に控え、灰域の哨戒任務の合間を縫って呼び出されたことに、正直なところ場違いな居心地の悪さを感じていた。会議室に並ぶ顔ぶれは、いずれも階級章だけならオルコットの数段上の者ばかりで、末席の椅子に腰掛けながら、彼はこの重苦しい空気の中心にいる自分の立場の不自然さを、痛いほど意識していた。だが、この会議で議題になっていることの中心に、自分がいることも承知していた。窓の外には、ハイド・ステーションの人工重力リングが、いつもと変わらぬ速度で回転しているのが見えた。その規則正しい動きが、今の彼にはひどく空々しいものに映った。
「『技術士官セシル・マーロウの拉致』――連邦は、そう表現しています」
同盟政府の外務担当者が、疲労の色を隠さない声で報告した。会議室の空気は重く、誰もが発言の前に一拍置くような緊張が漂っていた。
「同盟政府としての公式見解は」
議長役の閣僚が問うと、外務担当者は手元の資料に目を落としたまま答えた。
「否定します。当該人物は、自らの意思で亡命を希望した、と。デルフォスの一件についても、一切関知していないという立場を貫きます」
「連邦は信じるでしょうか」
「信じないでしょう。ですが、証拠がない以上、連邦もこれ以上強く出ることはできません」
その言葉に、会議室の空気がわずかに緩んだ。だがオルコットは、その緩みが本物の安堵ではなく、ただ次の一手を先延ばしにしただけの、束の間の休息に過ぎないことを感じ取っていた。証拠がない、という一線は、いつまでも保たれる保証などどこにもない。
「異論のある者は」
議長が会議室を見渡した。誰も声を上げなかった。オルコットも、末席から黙って頷くだけだった。彼の立場では、この場で発言する権利すら与えられていない。ただ、事態の推移を見届けることだけが、今の彼にできる仕事だった。
閣僚の一人が、疲れた声で付け加えた。
「幸い、連邦側の抗議文には、デルフォスでの交戦そのものについての直接的な言及はない。あくまで『技術士官の失踪』に論点を絞っている。これは、連邦側にも公にできない事情がある証拠だろう」
「自律核実弾試験の件、ですか」
誰かが小声で呟いた。オルコットは、その言葉に思わず顔を上げた。数年前、自分がこの目で見た光景――民間人の犠牲者、改竄された記録――が、こんな形で会議室の隅に亡霊のように立ち上ってくるとは、想像もしていなかった。だが誰もそれ以上は踏み込まなかった。触れてはならない話題であることを、この場の全員が理解していた。
会議の後、廊下でラスクがオルコットに声をかけた。窓の外には、ハイド・ステーションの人工太陽光が、いつもと変わらぬ角度で降り注いでいた。だが、その光景がひどく作り物めいて見えるのは、気のせいだけではないだろう。
「これで、表向きの決着はつきました。ただし――」
ラスクは言葉を切り、廊下の先を見つめた。
「連邦が、これで諦めるとは思えない」
オルコットが先を継ぐと、ラスクは小さく頷いた。
「その通りです。マルコ・ヴィスは、この件を私怨として抱えたでしょう。彼の追及は、これからも続くはずです」
「私怨か」
「私怨と国益の境界が曖昧な男です。だからこそ厄介なのです」
その言葉を、オルコットは胸の奥にしまい込んだ。マルコ・ヴィスという名前は、まだこの時点では、報告書の中の一行に過ぎなかった。だがそれが、これほど長くこの先の展開に付きまとうことになるとは、まだ誰も本当の意味では理解していなかった。
「艦長は、これからどう動かれるおつもりですか」
ラスクの問いに、オルコットは少し考えてから答えた。
「変わらない。灰域の哨戒任務に戻るだけだ。俺にできることは、それだけしかない」
「――正直な話、羨ましいですよ」
ラスクは珍しく、皮肉でも冷笑でもない、素直な声でそう言った。
「参謀という仕事は、盤面の全体を見ることを求められます。ですが、盤面が大きくなればなるほど、自分の手で動かせる駒は少なくなっていく。艦長のように、自分の艦一隻、部下たちの命を、直接背負って動ける立場が、時折うらやましくなる」
オルコットは何も言わず、ただ小さく頷いた。それが慰めになるとは思えなかったが、他に返す言葉が見つからなかった。
数日後、灰域周辺での小競り合いが、目に見えて増加し始めた。連邦の哨戒艦が、以前にも増して積極的に緩衝線へ近づくようになった。表向きは「演習」だが、その実態は明らかな威嚇行動だった。
「艦長、また越境です。今度は駆逐艦2隻」
砲雷長の報告に、オルコットはセンサー画面を見やった。緩衝線からわずか十数キロの位置に、連邦籍の艦影が二つ、ゆっくりと並走していた。
「対応は、これまで通りで」
「了解」
《薄明》は淡々と警告射撃を繰り返した。実弾ではなく、あくまで威嚇のための曳光弾だ。だが、こうした小競り合いの頻度は、日を追うごとに増していった。最初は週に一度だったものが、いつしか二日に一度になり、やがて毎日のように報告が上がってくるようになった。オルコットは、その頻度の推移を艦長日誌に淡々と記録しながら、数字が語る不吉な傾斜を感じ取らずにはいられなかった。
「艦長、乗員たちの間でも、噂が広まっています」
ダーナが、艦橋の隅で声を潜めて言った。
「どんな噂だ」
「近いうちに、本格的な戦闘が始まるんじゃないか、と。休暇の申請が、いつもより増えています」
オルコットは、艦橋の窓越しに広がる灰域の暗闇を見つめた。星々の光は変わらずそこにあったが、その間を縫うように、連邦の哨戒艦のものらしい微かな航跡光が、以前よりも頻繁に瞬くようになっていた。
「乗員たちには、いつも通りで良いと伝えてくれ。訓練の質は落とすな。だが、必要以上に煽るような真似もするな」
「了解しました」
ダーナが去った後も、オルコットはしばらく艦橋に留まり、レーダー画面に映る緑と赤の光点の動きを眺め続けた。緑は同盟、赤は連邦。二色の光点は、まるで互いの間合いを測り合う獣のように、緩衝線を挟んでじりじりと距離を詰め、また離れることを繰り返していた。
セシルは、同盟軍の技術顧問という立場で、監視付きながらも情報提供を続けていた。狭い面談室での対話は、以前よりも緊張を帯びるようになっていた。
「連邦国内では、私の亡命が『国家の裏切り』として大々的に報じられています。倫理制限設計に関わる情報が、同盟に流出したという疑惑も」
セシルの声には、疲労がにじんでいた。
「実際に流出したのか」
「私が知る範囲の技術情報は、確かに同盟側にも共有しています。ただ、それが軍事的優位に直結するようなものではありません」
「連邦は、それを口実に使うだろう」
「――そう思います」
セシルは俯き、机の上で組んだ両手を見つめた。
「私が持ち出した情報の重さと、連邦が私を糾弾する理由の重さは、釣り合っていません。それでも、彼らはその不釣り合いを、都合よく利用するでしょう」
オルコットは、セシルの顔をまじまじと見つめた。亡命者という立場に置かれてなお、彼女は自分の言葉を曖昧にせず、正確な情報として差し出そうとする。その律義さが、かえって彼女自身を追い詰めているようにも見えた。
「あなたが背負う必要のない責任まで、背負おうとしていないか」
「――誰かが背負わなければ、なりません。私は、自分の国の技術が、こんな形で人を殺すことに使われるのを、黙って見ていられなかった。だから、ここにいます。その選択の結果に、目を背けるつもりはありません」
オルコットは、その言葉に何も返せなかった。ただ、彼女の覚悟の重さに、自分もまた見合うだけの覚悟を持ち続けなければならないと、改めて思い知らされた。
窓の外、灰域の緊張が、目に見えて高まっていくのを、オルコットは感じていた。鍵の奪取という一つの行動が、両国の関係を、後戻りできない方向へと押し流し始めていた。彼は自分の判断が正しかったのかどうか、いまだに確信を持てずにいた。ただ、一度動き出した歯車は、もう誰にも止められない速度で回り始めている。それだけは、疑いようのない事実だった。
艦長室に戻ったオルコットは、しばらくの間、消灯した窓の外を見つめ続けた。灰域の星々は、いつもと変わらぬ静けさでそこにあった。だが、その静けさの奥に潜む不穏な予兆を、彼はもう見過ごすことができなくなっていた。
(第42話へ続く)