事件は、ハイド・ステーションの民間区画で起きた。
その日、オルコットは《薄明》の定期整備の合間を縫って、艦の消耗部品の調達のため、ステーション内の補給局を訪れていた。窓の外に広がる民間区画は、いつもと変わらぬ喧騒に満ちていた。行き交う人々、露店から漂う香辛料の匂い、子供たちの笑い声――そんな平穏な日常の只中で、それは起きた。
補給局の窓口で伝票にサインをしていたオルコットの耳に、遠くで乾いた破裂音が三度、間を置かずに響いた。最初は何かの機材の故障音かと思ったが、直後に館内放送が切り替わり、緊急事態を告げる無機質な声が流れ始めた。彼はその瞬間、伝票を握ったまま、体が反射的に強張るのを感じた。
ラスクが、非公式の会合からの帰路、狙撃を受けたのだ。幸い、装甲仕様の公用車が致命傷を防いだが、同行していた護衛が一名、重傷を負った。
一報を受けたオルコットは、補給局での用件を放り出し、現場へ急いだ。到着した時、公用車の側面には、鋭く抉れた着弾痕が三つ、規則的な間隔で並んでいた。一発は装甲板を貫通寸前で止まり、内部の座席にまで金属片が飛び散っていた。路上には、規制線を張る警備員たちの姿と、まだ乾ききっていない血痕が見えた。
「――狙撃手は」
現場に駆けつけたオルコットに、警備担当官が報告した。
「逃走しました。射撃位置は、およそ600メートル離れた廃倉庫の屋上と推定されます。着弾角度と、公用車のダメージパターンから逆算しました」
「使用弾薬は」
「回収した弾頭を分析中ですが、初期評価では、連邦軍の制式規格のものと一致しています。口径、旋条痕、いずれも一致率が高いです」
オルコットは、抉れた装甲板に手を触れた。金属の縁は、まだかすかに熱を残していた。600メートルという距離、そして精度の高い着弾パターン。素人の仕業ではない。訓練された狙撃手の手によるものだと、彼はすぐに理解した。
「弾着の間隔は」
「零点八秒間隔で三発。いずれも公用車の側面、運転席から後部座席にかけての狭い範囲に集中しています」
警備担当官の説明を聞きながら、オルコットは頭の中で狙撃手の視点を想像した。600メートル先から、移動する車両の窓の隙間を狙い、零点八秒間隔で三発を撃ち込む。それができる人間は、限られている。しかも、実行後は速やかに姿を消している。追跡班が到着した時には、廃倉庫の屋上にはすでに、薬莢が三つ残されているだけだった。
「薬莢は回収したか」
「はい。連邦軍狙撃部隊で標準採用されている規格と一致します。ただ、これだけでは決定的な証拠にはなりません。同型の弾薬は、闇市場でも流通していますので」
オルコットは、その説明に小さく頷いた。証拠は揃わない。だが、状況証拠は積み上がる一方だった。それが、この一連の対立の厄介なところだった。誰も、決定的な一撃を証明できないまま、疑心と報復だけが積み重なっていく。
ラスクは、額に軽い擦過傷を負いながらも、努めて冷静な様子だった。彼は救急隊員の処置を受けながら、それでもなお、周囲の状況を確認する視線を絶やさずにいた。
「――随分と踏み込んできましたね」
「無事で何よりです」
オルコットは、彼の隣にしゃがみ込みながら言った。負傷した護衛は、すでに担架で搬送されようとしていた。オルコットは、その護衛の顔に一瞬目をやった。まだ若い兵士だった。腹部を庇うように丸まった姿勢のまま、痛みに顔を歪めていたが、意識ははっきりしているようだった。
「私を狙ったのか、それとも作戦全体を狙ったのか、まだわかりません。ただ、私の身元が完全に把握されているのは間違いないでしょう」
ラスクの声には、皮肉めいた響きがあったが、その奥に潜む緊張を、オルコットは聞き逃さなかった。参謀という立場は、常に危険と隣り合わせだ。だが、実際にこうして命を狙われる現実を目の当たりにすると、その重みはまるで違って感じられた。
「――会合の内容を知る人間は」
オルコットが尋ねると、ラスクは記憶を辿るように目を細めた。
「限られています。ですが、限られているからこそ、逆に絞り込みやすい。裏を返せば、内部からの情報漏洩を疑う必要がある、ということです」
「会合の相手は」
「それは、まだお話しできません。ただ――今回の一件とは無関係の相手だとだけ、申し上げておきます」
オルコットは、それ以上追及しなかった。参謀という立場には、艦長である自分にすら明かせない事情があることを、彼はこれまでの付き合いの中で理解していた。だが、その明かせない部分こそが、今回の狙撃の引き金になった可能性を思うと、割り切れない苛立ちが残った。
「――怪我をした護衛は」
「私を守るために、とっさに身を挺してくれました」
ラスクの声が、わずかに沈んだ。
「命に別状はないとのことですが、腹部の傷は深いようです。彼の家族には、私から直接、詫びを入れなければなりません」
オルコットは、その言葉に頷いた。誰かが傷つくたびに、こうして名前と経緯が積み重なっていく。数字だけの犠牲者にはしない、という誓いを、彼は改めて胸の内で確認した。
ドーベル少将は、この事件を重く見た。現場に到着した少将は、抉れた公用車を一瞥しただけで、その場の空気が凍りつくほどの怒気を滲ませた。彼の靴音は、いつもより荒く、規制線の脇に立つ警備員たちが思わず背筋を伸ばすほどだった。
「ハイド・ステーション内部にまで、連邦の手が及んでいるということだ。内部に情報提供者がいる可能性を洗い直す必要がある」
「徹底的にやりましょう」
オルコットが言うと、少将は頷いた。
「今すぐにでも、な。だが、犯人捜しに躍起になるあまり、疑心暗鬼が組織そのものを蝕むことにもなりかねない。慎重に進める必要がある」
その言葉に、オルコットは複雑な思いを抱いた。敵の手が及んでいるという事実は、味方同士の不信を招く。それもまた、対立を煽ろうとする側の狙いの一つなのかもしれなかった。
セシルが、この件について複雑な表情を見せた。彼女は、事件の一報を聞いてから、休む間もなく現場へ駆けつけてきていた。
「――もし、私が連れてきた情報の中に、何か手がかりがあったなら」
「あなたのせいじゃない」
オルコットは即座に否定した。
「連邦は、あなたが亡命する以前から、こちらの動きを探っていた可能性がある。デルフォスの一件以降、あらゆる手段を使って情報を集めているはずだ」
セシルは俯いたが、オルコットは彼女の肩にそっと手を置いた。
「――自分を責めるな。責めるべきは、こんな状況を作り出した連中の方だ」
セシルは、しばらくの間、何も言わなかった。ただ、オルコットの手の温もりを確かめるように、そっと自分の手を重ねた。
その夜、オルコットとセシルは、ハイド・ステーションの静かな展望区画で、久しぶりに二人だけの時間を過ごした。区画の大きな窓からは、灰域の星々と、その手前に浮かぶステーションの外壁の照明が、静かな光の帯を描いていた。昼間の喧騒が嘘のように、この時間だけは穏やかな静寂が広がっていた。
「――こんな状況で、あなたと一緒にいることが、正しいのかどうか、わからなくなる時があります」
セシルが静かに言った。
「正しいかどうかは、俺にもわからない。ただ――」
オルコットは、彼女の手を握った。
「あなたと出会わなければ、俺はここまで来られなかった。それだけは、確かだ」
セシルは、小さく息を吐いた。その吐息には、安堵と、それでも拭いきれない不安が入り混じっていた。展望区画の静けさが、二人の間に流れる沈黙を、より一層深いものにしていた。
セシルは、そっとオルコットの手に自分の手を重ねた。
「今日、ラスクさんが撃たれたと聞いた時、真っ先に思ったのは、次はあなたかもしれない、ということでした」
「――そうだな」
オルコットは、否定しなかった。その可能性は、この状況にいる誰にとっても、決して他人事ではなかった。窓の外に流れる星々の光を見つめながら、彼はしばらくの間、言葉を継げずにいた。
「もし、俺に何かあったら」
「そんな話は、しないでください」
セシルが遮った。彼女の声は、いつになく強かった。
「今、隣にいてください。それだけで、十分です」
しばらくの沈黙の後、セシルがぽつりと付け加えた。
「――連邦にいた頃は、こんな風に誰かの隣に座って、ただ星を眺めるだけの時間なんて、想像もしていませんでした。任務と、報告書と、上司の顔色を窺うことだけで、一日が終わっていく毎日でした」
「今は」
「今は、怖いことばかりです。でも、こうして誰かの隣で、素直に怖いと言える。それだけでも、以前とは違います」
オルコットは、その言葉に何も返さず、ただ彼女の肩を抱く腕に、少しだけ力を込めた。窓の外を流れる星々の光が、二人の影を静かに床に落としていた。遠くで、ステーションの巡回員の足音が、規則正しいリズムで通り過ぎていくのが聞こえた。
オルコットは、それ以上何も言わず、ただ彼女を引き寄せた。展望区画の照明が徐々に落ち、星々の光だけが際立って見える時間になった。窓の外、灰域の暗闇の向こうに、緊張を孕んだ静けさが広がっていた。狙撃という直接的な暴力が、両国の対立をさらに一段、深いところへと押し進めていた。オルコットは、その静けさの奥に潜む次の一手を、これ以上見過ごすことができないと、改めて心に刻んでいた。
(第46話へ続く)