「――連邦が、大規模な『制裁遠征』を準備している」

ラスクが持ち込んだ情報に、作戦本部の空気が一変した。壁面のホロ図には、灰域を挟んだ両国の勢力圏が、いつになく緊張した色分けで表示されていた。オルコットは、その地図の一点を見つめたまま、しばらく言葉を発せずにいた。

「対象は」

「同盟領内、灰域に最も近い惑星の一つ、『ハルシオン』です。人口およそ四万。同盟軍の駐留部隊は、中規模の防衛旅団のみ」

オルコットは地図を睨んだ。ハルシオンは、灰域からほど近い、同盟にとっても重要な入植惑星の一つだった。豊富な鉱物資源と、比較的温暖な気候から、辺境の中でも数少ない、本格的な都市部を持つ惑星として知られていた。彼自身、若い頃に一度だけ寄港した記憶がある。乾いた風の匂いと、活気のある市場の喧騒を、今でもかすかに覚えていた。

「規模は」

「戦艦級を含む、連邦艦隊の主力の一部――巡洋艦十二隻、駆逐艦三十隻以上。加えて、地上侵攻用の兵員輸送艦も多数確認されています」

ドーベル少将が、険しい表情で言った。

「これは、明確な侵攻作戦だ。制裁などという言葉で誤魔化せる規模じゃない」

「連邦国内向けの説明は」

「『度重なる同盟の挑発行為への正当な自衛的対応』だそうです」

会議室に、重い沈黙が落ちた。オルコットは、拳を握りしめた。あの世論調査の数字――強硬策への支持が急上昇しているという報告が、脳裏をよぎった。連邦上層部は、その世論という追い風を、ついに実際の軍事行動へと転化させたのだ。

「――防げないのか」

「境界防衛艦隊だけでは、戦力差が大きすぎます。本国からの増援が間に合うかどうか」

「間に合わなければ」

「ハルシオンは、防衛線が突破される可能性が高い」

会議室の空気が、さらに重くなった。誰も口を開かず、ただホロ図に映る惑星の輪郭を見つめていた。オルコットは、その沈黙の中で、これまでの様々な選択――鍵を守るために払ってきた代償の数々が、ついに一つの惑星の運命という、これまでで最大の規模の試練として、自分たちの前に突きつけられているのを感じていた。

オルコットは、脳裏に三年前の記憶を蘇らせていた。ケイオン第七集落の焼け跡。あの光景が、規模を変えて繰り返されようとしている。あのとき彼が救えなかった命の数は、正式な記録にすら残らなかった。ハルシオンの人口、四万人。その数字が、抽象的な統計ではなく、一人ひとりの顔を持つ人間の集まりであることを、彼は誰よりもよく知っていた。

四万人。その数字を、彼は頭の中で何度も繰り返した。もし防衛線が突破されれば、犠牲になるのは、必ずしも四万人全員ではないだろう。だが、その中の何百人、何千人かは、確実に失われる。そしてその一人ひとりに、名前があり、家族があり、日常がある。統計上の数字として処理されることを、オルコットは何よりも嫌悪していた。数字は記録のためにあるのであって、感情を麻痺させるためにあるのではない。

「――俺たちの艦隊を、ハルシオンの防衛に回せないか」

「境界防衛艦隊全体の再配置には、オルデン提督の承認が必要だ」

オルコットは、即座にオルデン提督との面会を求めた。艦隊司令部の廊下を足早に進みながら、彼は自分の心臓が、いつになく速く打っているのを感じた。オルデン提督は、これまで一貫して対連邦強硬論の急先鋒として知られてきた人物だった。彼が防衛のための緊急展開に、素直に応じるとは限らない。

「提督、ハルシオンへの緊急展開を進言します」

オルデンは、しばらくオルコットを見つめた後、重い声で言った。その表情は、いつもの強硬な将官のそれとは、どこか異なる硬さを帯びていた。

「――お前の進言を待つまでもない。すでに、艦隊全体に展開命令を出している」

意外な言葉に、オルコットは目を見開いた。オルデンという男は、これまで何度も、強硬な言動でオルコットの神経を逆撫でしてきた人物だった。その彼が、自分の進言を待つことなく、すでに最も現実的な選択をしていたという事実は、少なからずオルコットの予想を裏切るものだった。

「提督も」

「俺は強硬派だが、馬鹿ではない。民間人が大量に犠牲になれば、この対立は、もう誰にも止められなくなる」

オルデンは、そう言って、机の上に広げられた展開図に視線を落とした。

「政治的な駆け引きと、実際に人が死ぬこととは、まったく別の話だ。俺が求めているのは、同盟の力を示すことであって、無防備な入植地を見殺しにすることじゃない」

その言葉に、オルコットは、これまで抱いていたオルデンへの印象を、わずかに改めざるを得なかった。強硬派であることと、非情であることとは、必ずしも同じではないのかもしれない。

「――全艦、最短経路で展開せよ。跳躍炉のチャージ時間を計算し、可能な限り短距離での連続跳躍を行う。多少の負荷は覚悟の上だ」

境界防衛艦隊は、ハルシオンへ向け、緊急展開を開始した。艦隊司令部を出たオルコットは、《薄明》へと戻る通路を急ぎながら、胸の内で静かに祈った。今度こそ、あの日のような結末を、繰り返させはしない、と。

《薄明》の艦橋に戻ると、すでに乗員たちが戦闘配置につき始めていた。ダーナが、緊張した面持ちで報告した。

「艦長、跳躍炉のチャージ、七十パーセント完了。ハルシオンまでの距離、通常航路で十八時間。連続短距離跳躍を用いれば、六時間まで短縮可能です」

「六時間か。だが跳躍炉への負荷は」

「三回連続の短距離跳躍になります。冷却系への負担は大きく、到着後しばらくは、隠蔽運用が制限される可能性があります」

「構わん。今は速度を優先する」

オルコットは、そう即断した。連続隠蔽時間を犠牲にしてでも、一刻も早くハルシオンへ到達することの方が、今は重要だった。

砲雷長のレフが、弾薬の残量報告を上げてきた。

「艦長、主砲弾薬は満載状態です。ただし、前回の哨戒任務で消耗した対艇迎撃弾の補充が、まだ七割程度にとどまっています」

「補給部からの追加は」

「ハルシオン到着後、現地の軍需倉庫からの緊急供給を要請中です。ただし、輸送に最低でも数時間はかかるかと」

「間に合わせろ。足りない分は、こちらの艦から融通できるものを回せ」

艦内には、これまでにない緊迫した空気が漂っていた。乗員たちは皆、無言のまま、それぞれの持ち場で準備を進めていた。オルコットは、艦橋の中央に立ち、ホロ図に表示されたハルシオンまでの航路を見つめながら、静かに拳を握った。

セシルが、艦橋の隅から、静かにその様子を見守っていた。彼女は、連邦軍出身の技術士官という立場上、この作戦において直接の指揮権を持たない。だが、彼女の存在そのものが、今のオルコットにとって、大きな支えになっていた。

「――グレイ、私にできることがあれば」

「対電子戦の準備を頼む。連邦艦隊の通信・照準システムについて、お前ほど詳しい人間は、この艦隊にはいない」

「わかりました」

セシルは、迷いのない足取りで、通信卓へと向かった。オルコットは、その後ろ姿を一瞥した後、視線を再び前方のホロ図へと戻した。三年前は、ただ一人の目撃者として、無力に立ち尽くすしかなかった。だが今は違う。守るべきものと、それを守るための手段の両方を、彼は手にしていた。

「――全艦、跳躍準備完了まで、あと三分」

ダーナの声が、艦橋に響いた。オルコットは、静かに頷いた。

艦内放送のスイッチを入れ、オルコットは全乗員に向けて短く告げた。

「これより、境界防衛艦隊全体で、ハルシオンへの緊急展開を行う。目的は、同惑星に居住する約四万人の民間人を、連邦の侵攻から守り抜くことだ。勝利そのものが目的ではない。一人でも多くの命を、明日につなげることが目的だ。各員、持ち場で最善を尽くしてくれ」

艦内に、短い沈黙が流れた。それから、通信越しに、各部署から了解の声が次々と返ってきた。声には緊張がありながらも、動揺は感じられなかった。オルコットは、その落ち着いた反応に、乗員たちへの信頼を新たにした。

ドーベル少将から、最後の確認連絡が入った。

「オルコット、お前の艦は、展開後、防衛旅団との連携役を任される。地上との通信中継、艦砲支援の調整、すべてお前の艦が窓口になる」

「――承知しました。責任重大ですね」

「お前になら任せられる、という判断だ。文句があるなら、後で聞く」

「文句はありません。全力を尽くします」

通信が切れると、艦橋に緊張感が漂った。オルコットは、ホロ図に映るハルシオンの姿を見つめた。人口四万の惑星が、これから戦場になろうとしている。彼はその重みを、改めて自分の肩に感じ取った。

「跳躍準備、完了しました」

ダーナの声に、オルコットは短く応じた。

「――跳躍、開始せよ」

《薄明》の船体が、跳躍炉の起動とともに、かすかに震えた。窓の外の星々が、一瞬にして光の筋となり、そして消えた。

一度目の跳躍を終えた直後、艦内には短い静寂が訪れた。冷却系の警告灯が、赤くともったが、すぐに黄色へと戻った。ダーナが、計器を確認しながら報告する。

「一回目の跳躍、正常終了。冷却系、許容範囲内です。二回目の跳躍まで、あと九十秒」

「予定通りだ。続けろ」

オルコットは、艦橋の椅子に深く座り直し、両手を膝の上で強く握った。あと二回の跳躍を経て、彼らはハルシオンの軌道上に到達する。そこで何を目にすることになるのか、まだ誰にも分からなかった。ただ、間に合ってくれ、という一念だけが、艦橋の空気を静かに満たしていた。

(第65話へ続く)