戦時体制への移行が進む中、同盟政府内部でも、権力構造の再編が始まっていた。動員令の施行から数日、これまで作戦の中枢を支えてきた人々の立場にも、静かな変化が及び始めていた。

「――ラスク参謀が、更迭されるそうです」

ダーナが、青ざめた顔で報告した。オルコットは、耳を疑った。艦橋の空気が、一瞬にして凍りついたように感じられた。

「更迭、なぜだ」

「非公式な作戦――鍵の奪取作戦を含む、これまでの一連の行動の責任を問われているようです。正式な軍事動員体制への移行にあたり、『非正規の裏工作』を主導した人物として、政府内の保守派から批判が集中しているとのことです」

オルコットは、すぐにラスクの元へ向かった。作戦本部の廊下を急ぎ足で歩きながら、彼は、これまでラスクが積み重ねてきた功績の数々を思い返していた。鍵の存在を最初に掴んだのも、鎮魂会に託すという着想を持ったのも、すべてラスクだった。その彼が、今になって切り捨てられようとしている。

歩きながら、ダーナが補足の情報を伝えた。

「――政府内の保守派は、以前から、ラスク参謀の独断専行的なやり方に不満を持っていたようです。特に、国家の資産である鍵を、宗教組織に渡すという判断については、『国益の毀損』だと繰り返し批判してきました」

「今更、それを言い出すのか」

「今だからこそ、言い出せるんです。動員令が可決され、戦時体制が正式に始まった今、これまで灰色だった非公式作戦の責任を、誰かに取らせる必要が生じた。そのための、格好の標的がラスク参謀だった、ということでしょう」

オルコットは、苦い思いを噛みしめた。国家という組織は、平時には黙認していた行動を、戦時に入った途端、都合よく断罪の材料に変える。その豹変ぶりに、彼は改めて、政治というものへの根源的な不信を強くした。

ラスクの執務室に着くと、彼は、意外なほど落ち着いた様子で、私物を整理していた。壁に掛けられていた辞令や表彰状が、すでに箱の中に収められつつあった。長年勤めてきた執務室にしては、驚くほど物が少ない。オルコットは、その質素さに、ラスクという男の人となりを、改めて見た気がした。彼は、地位や名誉に執着する人間ではなかった。ただ、自分が正しいと信じることを、淡々と実行してきただけの人物だった。

机の上には、これまでの作戦記録をまとめたファイルの束が、几帳面に整理されて置かれていた。ラスクは、その束を見つめながら、静かに口を開いた。

「――この記録は、後任に引き継ぎます。ただし、鍵の詳細な奪取経路と、鎮魂会との接触記録に関する部分は、すでに削除しました」

「削除、したんですか」

「はい。これらの情報が、保守派の手に渡れば、鎮魂会の安全そのものが脅かされかねません。私の更迭は受け入れますが、それ以上の被害を出すつもりはありません」

オルコットは、その言葉に、ラスクの最後の意地を見た気がした。自分の立場が失われることよりも、これまで守ってきたものを守り抜くことを、彼は最後まで優先していた。

「――こんな時に」

「予想していたことです」

ラスクは、静かに笑った。それは、諦めというよりも、むしろ、長年抱いてきた覚悟が、ようやく形になったことへの、乾いた納得のようにも見えた。

「私は、鍵を国家の外へ出すという、この国の論理からすれば『裏切り』に等しい判断を下した人間です。戦時体制が固まれば、私のような存在は、真っ先に切り捨てられる」

「そんな理不尽な」

「理不尽ではありません。むしろ、筋が通っている。私は、国家の利益よりも、国家を超えた何かを優先した。そのことに、責任を取るのは当然です」

オルコットは、拳を握りしめた。彼にとって、ラスクは単なる上官ではなかった。鍵の作戦において、彼を信じ、共に危険を冒してきた同志だった。その人物が、これほどあっさりと、組織の論理によって切り離されていく様に、彼は激しい憤りを覚えずにいられなかった。

「――これから、あなたはどうするんですか」

「予備役に編入されるでしょう。あるいは、それ以上の処分もあり得る」

ラスクは、オルコットの目を見つめた。その眼差しには、恐れよりも、むしろ静かな覚悟が浮かんでいた。

「艦長、鍵は、もう私たちの手を離れました。この先、あなたが背負う必要はありません。ですが――」

「ですが?」

「もし、あなたがそれでもこの道を歩み続けるというなら、私はあなたを止めません。ただ、これから先、私のような後ろ盾は、もう期待できないと思ってください」

オルコットは、しばらく何も言えなかった。ラスクという後ろ盾を失えば、これから先、自分とセシルの立場は、これまで以上に不安定なものになるだろう。ドーベル少将の理解にどこまで頼れるかも、まだ未知数だった。それでも、彼の心は、すでに決まっていた。

「――俺は、この道を降りるつもりはありません。あなたが切り開いてくれた道です。最後まで、歩き通します」

ラスクは、その言葉に、初めて表情を緩めた。長年の緊張から解き放たれたような、穏やかな笑みだった。

「――そう言ってくれると思っていました。艦長、あなたと出会えたことは、私のこの数年の仕事の中で、数少ない、後悔のない選択のひとつです」

オルコットは、深く頭を下げた。

「――今までの働き、感謝します」

「礼には及びません。私は、自分の信じることをしただけです」

ラスクは、静かに部屋を出て行った。作戦本部を支えてきた一人の男が、戦争前夜の政治力学の中で、静かに歴史の表舞台から姿を消していった。

その日の夜、オルコットはセシルに、ラスクの更迭を伝えた。彼女は、しばらく言葉を失ったまま、窓の外を見つめていた。

「――彼がいなくなれば、私たちは、これからどうやって鎮魂会や政府との連絡を取ればいいんでしょうか」

「別のルートを探すしかない。ドーベル少将が、どこまで力を貸してくれるかにかかっている」

「少将は、信頼できる方ですか」

「わからない。ラスクほど、鍵の意味を理解しているわけではないだろう。だが、少なくとも、俺たちを見殺しにするような人物ではないと思う」

セシルは、しばらく黙った後、静かに呟いた。

「――ラスクさんは、私にとっても、数少ない、心を許せる同盟側の人間でした。彼が去った今、私は、これまで以上に、この国の中で孤独になった気がします」

「あなたには、俺がいる」

「わかっています。ですが、組織的な後ろ盾を失うことの意味は、それとは別のところにあります」

オルコットは、彼女の言葉の重みを理解した。個人的な絆だけでは埋められない、制度的な支えの喪失。ラスクという存在は、単なる協力者ではなく、彼らの行動に一定の正当性を与える、組織内の窓口でもあった。その窓口が失われた今、彼らはこれまで以上に、孤立無援の立場に追い込まれつつあった。

翌日、作戦本部の廊下で、オルコットはラスクの後任として着任した参謀の顔ぶれを確認した。いずれも、保守派に近いとされる人物ばかりだった。彼らは、これまでの非公式作戦の存在そのものを苦々しく思っている様子で、オルコットに向ける視線にも、隠しきれない冷ややかさがあった。

「――オルコット艦長」

後任の参謀の一人が、廊下ですれ違いざまに声をかけてきた。

「これまでの経緯は、引き継ぎ資料で確認しました。今後は、非正規の作戦は一切認めません。すべて、正規の指揮系統を通していただきます」

「――了解しました」

オルコットは、短く応じた。相手の口調には、ラスクへの敬意など微塵も感じられなかった。むしろ、これまでの成果を、自分たちの手柄として引き継ぐことにしか関心がないようにさえ見えた。彼は、その態度に反発を覚えながらも、今は表立って事を構える時ではないと、自分に言い聞かせた。

ドーベル少将の執務室に立ち寄ると、少将は、疲れた表情でオルコットを迎えた。

「――ラスクのことは、聞いているな」

「はい」

「彼は、貧乏くじを引いたわけではない。むしろ、あの男らしい、筋の通った退き際だったと、私は思っている。だが、これで、お前たちの立場が、これまで以上に危うくなることは避けられない」

「覚悟しています」

「――必要な支援は、できる限り続ける。ただし、表立った肩入れは難しくなるだろう。すまんな」

オルコットは、静かに首を振った。

「十分です。今できることを、やるだけです」

執務室を出た後、オルコットは、しばらく廊下に立ち止まり、窓の外に広がる灰域を見つめた。ラスクという一人の男が去った後の作戦本部は、これまでよりも冷たく、よそよそしい場所に変わりつつあった。それでも、彼の決意は揺るがなかった。むしろ、後ろ盾を失ったことで、彼の中の覚悟は、より一層固く、研ぎ澄まされたものになっていた。

廊下の窓越しに見える係留区画では、ラスクの私物を積んだ小型輸送艇が、静かに出航の準備を進めていた。オルコットは、その輸送艇が視界から消えるまで、長い間、その場に立ち尽くしていた。一人の男の退場が、これほどまでに静かで、それでいて重いものだとは、彼はこれまで想像したことがなかった。

(第77話へ続く)