戦闘機兵は、オルコットの姿を認識すると、わずかに動きを止めた。人間のような躊躇ではなく、目標の優先順位を再計算するだけの、機械的な停止だった。関節部のわずかな駆動音だけが、その沈黙を埋めていた。
「――こいつ、生身の人間を前にしても、ためらわないのか」
オルコットは、事前にセシルから得ていた情報を思い出した。この試作型戦闘機兵は、動力の冷却系統に構造的な弱点があるという。連続稼働時間が一定を超えると、背部の排熱ユニットが露出し、そこへの直撃が機能停止を誘発する。技術交流会議の場で、セシルが半ば独り言のように零していた話だった。あの時は、まさかこの知識を、こんな氷の回廊で使う日が来るとは思ってもいなかった。
あの頃の彼女は、まだ連邦軍の技術士官として、枷の設計思想を語ることに、どこか誇りを持っているようにも見えた。倫理制限――自律核が暴走しないための最後の楔。その設計思想の裏側に、これほど無慈悲な実戦兵器の弱点までもが刻まれているとは、当時のオルコットには想像もつかなかった。今、その知識が、目の前の敵を打ち倒すための唯一の糸口になっている。皮肉なものだ、と彼は胸の内で呟いた。
戦闘機兵は、油圧駆動の関節をきしませながら、じりじりと間合いを詰めてきた。その動きには、無駄がなかった。人間の兵士なら踏み込みをためらうような瓦礫の段差も、機兵は演算されつくした軌道でやすやすと越えていく。オルコットは、その正確さにこそ、底知れない不気味さを感じていた。
背後で、負傷した護衛の一人が、荒い呼吸をこらえながら壁に寄りかかっていた。彼を庇いながら後退する仲間の姿が、視界の端に映る。この一体を止められなければ、彼らもろとも、蹂躙されるだけだ。オルコットは、そう自分に言い聞かせ、両足を踏みしめた。氷の床は滑りやすく、わずかな油断が命取りになる。
「――時間を稼げばいい」
オルコットは、正面からの撃ち合いを避け、氷の柱を盾にしながら、機兵の動きを翻弄し始めた。連射能力では及ばないが、地形を利用した機動なら、まだ対抗できる。柱の陰から半身を出すたびに、機兵の照準がわずかに遅れて追いついてくる。その遅延が、彼にとって唯一の生命線だった。
氷の柱の表面には、幾筋もの弾痕が刻まれていた。冷気に晒された肌が、痛みを通り越して痺れ始めている。だが、今はそれを気にしている余裕すらなかった。呼吸のリズムを整えながら、彼は次の一手を頭の中で組み立てていく。時間との勝負だ――排熱ユニットが露出するまで、あと何秒保てばいい。
「――マグダ、背部を狙える位置に回り込めるか!」
「無茶言うね!……いや、やってやるよ!」
マグダは、そう答えると、部下の一人に短く合図を送った。長年連れ添った部隊だけが通じる、無言のやり取りだった。彼女の部下たちは、それぞれの持ち場へ音もなく散っていく。傭兵上がりの寄せ集めとはいえ、この修羅場を何度も潜り抜けてきた者たちの動きには、確かな統率があった。
マグダが、狭い通路の側面から回り込み、機兵の背後を取ろうと動いた。氷の壁に手をかけ、崩れかけた足場を蹴りながら、彼女は身を低くして進んでいく。オルコットは、正面から囮となり、機兵の注意を引きつけ続けた。
「――お前ら、いい歳した大人が、こんな鬼ごっこかよ」
マグダの部下の一人が、緊張を紛らわすように呟いた。誰も笑わなかったが、その軽口が、張り詰めた空気を少しだけ和らげた。
「――もう少し、あと少しだ!」
オルコットは、機兵の正面に飛び出し、あえて至近距離まで距離を詰めた。刃のような手足の一撃を、紙一重で躱す。装甲の擦れる音が、耳元をかすめた。心臓が痛いほど跳ねる。だが、退くわけにはいかなかった。マグダが背後に回り込むまで、あと数秒――その数秒を稼ぐために、彼は自分の身を盾にし続けた。
排熱ユニットが、稼働限界に近づき、わずかに露出し始めた。背部の装甲パネルがわずかにずれ、内部の高熱を帯びた機構が、一瞬だけ覗いた。
「――今だ!」
マグダの一撃が、正確にその弱点を捉えた。機兵は、短い電子音とともに、動きを止めた。膝から崩れ落ちるように、その巨躯が氷の床に沈み込んでいく。静寂が、通路に戻ってきた。誰もが、しばらくの間、言葉を発することができなかった。
「――倒した、のか」
「ああ、倒した」
マグダは、荒い息を吐きながら、崩れ落ちた機兵の残骸を蹴りつけた。安堵よりも先に、疲労が全身を支配しているようだった。オルコットもまた、膝に手をつき、大きく息を吐いた。周囲を見渡すと、部下たちの何人かが、壁に背を預けたまま座り込んでいた。誰の顔にも、深い消耗の色が刻まれている。それでも、生きている。まずは、それだけで十分だった。
「――これで、少しは持ち直せるか」
「油断は禁物だ。連邦がここまで来た以上、これで終わりとは思えない」
マグダの言葉に、オルコットは頷いた。彼女の勘は、いつも侮れない。だが、安堵する間もなく、通路の奥から、新たな敵影が現れた。連邦特務局の指揮官らしき人物――防護装備越しにも、その眼光の鋭さがわかる男だった。
その足取りには、機兵のような無機質さはなかった。むしろ、獲物を前にした獣のような、静かな昂ぶりが感じられた。オルコットは、瞬時にそれを見て取った。この男は、機械とは違う。感情を持ち、そして、その感情を武器として使いこなす人間だ。
背後に控える護衛部隊は、いずれも歴戦の様相を漂わせていた。連邦特務局が、この作戦にどれほどの人員と予算を注ぎ込んできたか、その一団を見ただけで察しがついた。オルコットは、乾いた喉の奥で、小さく唾を飲み込んだ。ここまで生き延びてきた自分たちの幸運も、そろそろ底をつきかけているのかもしれない。それでも、退く理由にはならなかった。
「――マルコ・ヴィス、か」
オルコットが問うと、男は薄く笑った。その笑みには、これまでの追跡劇の全てを見透かしているかのような余裕があった。
「――お前が、オルコット艦長か。噂には聞いていた」
「鍵は渡さない」
オルコットは、残った武器を構え直しながら、そう言い切った。全身に疲労が蓄積していたが、声には揺らぎを持たせなかった。
「渡してもらう必要はない。ここで、お前たちごと、この場所を消し去るだけだ」
ヴィスの声は、驚くほど平静だった。まるで、日々の業務報告でも読み上げているかのような口調で、彼はその言葉を口にした。オルコットは、その平静さにこそ、この男の恐ろしさを感じた。感情を昂らせて叫ぶ敵よりも、こうして淡々と破滅を口にする人間の方が、はるかに厄介だ。
オルコットは、セシルから聞かされていた話を思い返した。マルコ・ヴィス――連邦軍保安局特務班長。隠蔽工作の中心にいながら、その手法には常に一分の隙もないという。この男が乗り出してきたということは、連邦上層部が、それだけこの一件を重く見ているということでもあった。
セシルは、以前、彼についてこう語っていた。「ヴィス班長は、感情で動く人間じゃありません。だからこそ、彼が本気になった時が、一番怖い」と。あの時は、どこか抽象的に聞こえたその言葉が、今、目の前の現実として、オルコットの前に立ちはだかっていた。
ヴィスの手には、大型の破壊兵器――対施設用の重火器が握られていた。銃身の太さだけでも、通常の兵装とは一線を画すことが見て取れる。この場所を根こそぎ消し去るための、専用装備だった。表面に刻まれた連邦軍の制式番号を、オルコットは一瞬だけ目で追った。あれが火を噴けば、この氷の回廊ごと、聖堂は跡形もなくなる。
「――随分と、念の入った準備だな」
「証拠は、残さない主義でね」
ヴィスは、重火器の安全装置を外しながら、平然と答えた。その手つきには、迷いも躊躇もなかった。まるで、日常の作業の延長であるかのように。
「――お前らのやり方は、いつもそうだ。都合の悪いものは、なかったことにする」
「都合の悪いもの、か。言い方はどうでもいい。俺たちは、俺たちの国を守るために動いている。それだけだ」
その言葉に、オルコットは奥歯を強く噛みしめた。守るという言葉が、これほど歪んだ形で使われるのを、彼はこれまで何度も見てきた。だが、それを口にする暇はもう、残されていなかった。
「――マグダ、下がれ。あの武器の射線に入るな」
「言われなくても分かってるよ」
マグダが、部下たちを素早く後退させた。彼女の判断の速さには、幾多の修羅場を潜り抜けてきた者だけが持つ、独特の勘があった。オルコットは、その背中を一瞥し、視線を再びヴィスへと戻した。
ヴィスとの間合いを測りながら、頭の中で幾つもの選択肢を巡らせていた。正面から突撃するか、地形を使って時間を稼ぐか――だが、この重火器が火を噴けば、時間を稼ぐという選択肢自体が、意味を失う。氷の壁も、崩れかけた柱も、この男の前では、なんの盾にもならない。
残された道は、ただ一つだった。この重火器を構えさせる前に、間合いを潰す。それが、あまりにも分の悪い賭けであることは、オルコット自身、よく分かっていた。
一瞬、脳裏に、セシルの顔がよぎった。彼女がこの場にいれば、何と言っただろうか。無茶をするな、と叱られるだろうか。それとも、黙って背中を押してくれるだろうか。答えの出ない問いを振り払うように、オルコットは大きく息を吐き、足に力を込めた。
(第83話へ続く)