第002話 廃艦
リストにない二百八十メートル級の質量は、デブリ帯の深部、家ほどもある岩塊の陰に浮かんでいた。
ハルは作業艇の速度を落とし、距離三キロで光学センサーを最大倍率に上げた。
黒い艦だった。
塗装ではない。光を吸う種類の艦体被覆だ。星明かりの下で、艦の輪郭は背景の闇とほとんど見分けがつかず、岩塊の縁が艦体に隠される瞬間だけ、そこに「何かがある」と分かる。全長二百八十メートル、艦級は巡洋艦。係留索もアンカーもなく、岩塊と同じ速度、同じ回転で漂っている。七年ものあいだ岩と一緒に流れてきた、という軌道だった。識別信号、なし。艦籍応答、なし。船体番号の塗布痕、観測できる範囲には、なし。受動センサーに引っかかる熱源は、艦尾の奥に一つだけ、囁くように小さい。
ハルはまず、サルベージ屋として考えた。考えてしまった。
巡洋艦級の艦体一万八千トン。装甲材と構造材だけ潰して売っても数百万クレジット。機関や火器管制が部分的にでも生きていれば桁が一つ上がる。所有者不明の漂流物は、無主物先占の届出を通せば発見者に権利が立つ。手続きの条文が頭の中で勝手に開く。発見日時、座標、識別不能性の記録。二十三万クレジットの男の前に、数年は食える質量が浮かんでいる。今朝、解雇された男の前に。
次に、元軍人として考えた。
艦影が、おかしい。彼は通信下士官だったが、識別表は叩き込まれている。敵味方の艦級識別は通信科の基礎科目だ。連合の巡洋艦の系譜にも、同盟のそれにも、この輪郭は載っていない。艦首が細すぎる。砲塔に相当する突起がほとんどない。巡洋艦の質量を持ちながら、巡洋艦の顔をしていない。
そして、七年漂った艦が熱源を一つでも残しているのは、おかしい。漂流艦の機関は止まる。止まった機関は冷える。冷え切らない艦というのは、つまり、止まっていない艦だ。
近づくな、と勘が言った。七年間、彼を生かしてきた種類の勘だった。
ハルは艇の残燃料計を見て、口座の残高を思い浮かべて、来月の係留費と寝台区画の更新料を順に並べた。それから艇を進めた。二十三万クレジットしか持たない男に、勘の言うことを聞く余裕はない。勘は飯を食わせてくれない。
「作業艇ロクマル・ナナより未確認艦へ。応答を求める」
念のための呼びかけに、艦は答えなかった。周波数を変えて、軍の旧共通波でも試した。沈黙。遭難周波数でも試した。沈黙。三系統で三度ずつ呼んで、九度の沈黙が返った。
「……無人。漂流。放棄艦」
声に出して言ったのは、届出の文言を口が先に練習していたからだ。発見日時、座標、識別不能の旨、応答試行の記録。手続きの言葉は彼を落ち着かせる。昔からそうだった。形式は、形式の外にあるものを一時的に視界の外へ出してくれる。
距離五百で艇を並走させ、艦体を舐めるように観測した。装甲に戦闘痕はない。微小デブリの擦過痕が七年分、薄く積もっているだけだ。砲塔のあるべき位置には、流線の滑らかな膨らみがあるだけで、砲口らしいものは艦首軸線の小さな開口部しか見当たらない。武装のない軍艦などない。つまり武装が「見えない」軍艦だということで、それは観測する側にとって、武装が見える軍艦より悪い報せだった。
艦腹の中央に、エアロックの輪郭が見えた。その横に、手動の開放レバー。
ハルは艇を寄せ、磁着で仮固定し、船外作業服の気密を三度確認して、移乗した。命綱を二本。予備の酸素を一本。死ぬ準備ではなく、死なない準備を、手順通りに。
ハッチの横のレバーに手をかける、その前に。
エアロックが、内側から開いた。
彼は動きを止めた。手はレバーの五センチ手前で止まったままだった。三十秒、そのまま待った。何も出てこない。何も起きない。開いたハッチの奥で、エアロックの照明がついた。古い、しかし生きている白色光だった。
「……気圧変動の残りか、安全系の自動応答」
口に出した説明を、彼自身が信じていなかった。七年物の漂流艦に、外部の人間に合わせて開く外扉と、点く照明があるものか。これは応答だ。観測されている側はこちらだった。
引き返すなら、ここが最後だった。命綱の一本目を外せば、十五分で艇に戻れる。戻って、座標を届け出て、権利だけ主張して、検分は専門の業者に金を払って——その金が、ない。届出だけの権利は、検分済みの届出に簡単に上書きされる。辺境のサルベージ法は、現場に立った者の味方をするように出来ている。現場に立てる体と、立つしかない事情のある者の味方を。
彼は中に入った。理由は朝から変わらない。二十三万クレジット。
外扉が閉じ、加圧が始まった。計器を見る。窒素酸素混合、気圧〇・九五、組成正常、有毒物質反応なし。内扉が開いたとき、彼の作業服の外気温計は十六度を示していた。
艦内に、空気があった。重力があった。非常灯が、通路の奥まで等間隔に点いていた。
七年前に死んだはずの艦の、生きている内臓の中に、ハルは立っていた。
通路は無人だった。
戦闘の痕がない。弾痕も、煤も、破られた隔壁もない。床に骨もない。脱出の形跡——開け放たれたロッカー、放棄された装具、剥がされた非常食の格納庫——もない。あるのは、整然と維持された通路だけだった。手すりに埃がない。空気循環の吹出口に汚れの筋がない。床の滑り止めの溝に、靴底の摩耗粉すら溜まっていない。
無人の廃艦は、ハルも数十隻見てきた。廃艦には廃艦の臭いがある。腐った緩衝材、漏れた作動油、止まった空気の黴。この艦には、それがなかった。空気は無臭で、わずかに金属の冷たい匂いだけがした。臭いのない艦内は、誰かが昨日まで掃除を続けていた部屋に似ていた。七年間、毎日、誰のためでもなく。
「発見艦の艦内検分を継続する。時刻、入艦から二十六分。居住区画、無人。寝台数十六、使用痕なし。医務区画、無人。医薬品格納庫、封印のまま。空気質、正常。温度、十六度で一定」
彼は声に出して記録を取りながら歩いた。録音は届出の証拠になる。それは口実で、本当は、自分の声以外の音がない艦内に耐えるためだった。彼の靴音に、艦はわずかに反響で答える。その反響さえ、整いすぎている気がした。
乗員食堂を覗いた。長机が四列。椅子が機械のような正確さで収められている。配膳口は閉鎖。掲示板に紙の類はない。軍艦の食堂には必ず何か貼ってある——当直表、検閲済みの家族写真、誰かの落書き、没収を免れた賭け事の星取表。何もない壁は、最初から人が乗っていなかったと言っているように見えた。
食堂の隣は厨房で、調理器は通電したまま待機状態にあった。保存糧食の格納庫は満載で、封印の日付は八年前。八年前に積まれたまま、誰の腹にも入らなかった六年分の糧食。誰を乗せるつもりで積んだのか、積んだ者はもうどこにもいない。
一層下の格納庫区画も見た。小型艇用の格納架が二つ、どちらも空だった。艇を降ろした記録なのか、最初から積まなかったのか、床の固定具の摩耗からは読めなかった。区画の隅に工具架があり、工具は一本残らず、影絵のように描かれた定位置に収まっていた。使った者がいれば、必ずどこかが乱れる。乱れがないというのは、使われなかったということだ。八年間、一度も。
十六床の寝台に、使用痕なし。封印のままの医薬品。人のための区画が一通り揃っていて、人の痕跡だけが、どこにもない。新品の墓場を歩いているようだった。
巡洋艦の質量。砲塔のない艦影。乗員のいた形跡のない居住区。
無人艦、という言葉が浮かんで、彼はそれを飲み込んだ。大戦の自律艦は終戦協定で全て——ほぼ全て——処分された。処分を逃れたものには、別の名前がある。その名前を、彼はこの七年間、ニュース記事の中とファイルの数字の中でだけ扱ってきた。いま、その名前を、自分の足が立っている床に対して使いたくなかった。
昇降筒を二層上がる。ブリッジへ続く主通路に出たとき、それが始まった。
通路の先、第一隔壁が、開いた。
ハルは止まった。隔壁は開いたまま動かない。その奥の照明が、一段明るくなった。
三十メートル先で、第二隔壁が開いた。
招かれている。
彼は後ろを振り返った。来た通路の非常灯が、彼の見ている前で、一つずつ暗くなっていった。戻り道が闇に沈み、進む道だけが照らされている。脅しではなかった。脅しなら、もっと雑にやる。これは案内だった。丁寧で、一方通行の案内だった。
「……乗艦者に告げる、の方が先だろう」
誰にともなく言った声は、自分で思ったより掠れていた。応える者はいない。第三隔壁が開いた。
ハルは選択肢を数えた。エアロックは艦の制御下にある。作業艇への退路は、艦が許可しなければ存在しない。通信は——試すまでもない。外扉が開いた時点で、この艦は彼の艇の周波数も社籍も読み終えているだろう。ならば前に進んで、この艦の中枢と——中枢に居るものと——話すのが最短だ。話が通じるものなら。通じなかった場合のことは、考えても仕方がなかった。
彼は歩いた。隔壁を四枚くぐった。一枚くぐるたびに、背後で隔壁は閉じなかった。開いたままだった。退路を残している、と見せること自体が、計算された丁寧さだった。
最後の隔壁の奥は、ブリッジだった。
主照明が落ちた広い区画に、計器の光だけが星座のように散っている。操舵席、戦術席、通信席。どの席も無人で、どの席の計器も生きていた。正面の観測スクリーンに、外のデブリ帯が映っている。彼の作業艇が、艦腹に張り付いた小さな点として見えた。こちらが観測していたつもりの時間、ずっと、こう見られていたということだった。
ハルがブリッジの床を三歩進んだとき、背後で、隔壁が閉じた。
四枚全部が、順に、遠い方から閉じていく音がした。重い閉鎖音の最後の一つが静まるのを待っていたように、艦内放送が、言った。
「ようこそ。お待ちしておりました」