第012話 いない船団

 標的は、誰もいない空間を守っていた。
 《送り火》は灯標群の影、機関を巡航最低出力まで落とした漂泊状態で、それを十一時間観察し続けている。

 主表示の宙域図には、標的の航跡が赤い線で描き足されていく。線は大きな紡錘形を描き、紡錘の中心には何もない。何もない一点から右舷前方四千、そこが標的の定位置だった。
「護衛隊形です」
 ツクモが言った。
「同盟海軍の船団護衛教範、輸送船団に対する単艦直衛の標準配置。護衛対象の右舷前方四千を確保し、脅威軸に対して身を挺する位置取り。標的は七年間、この配置を維持しています」
「護衛対象は」
「存在しません」
 存在しない船団の、存在しない右舷前方を、九十六メートルの艦が守り続けている。減速も、停泊もなく。整然と変針し、整然と隊列に戻り、存在しない僚船と速度を合わせる。
 ハルは表示を見たまま、長く黙っていた。
 壊れて暴れている機械なら、まだ分かる。狂った犬は狂った犬だ。だがこれは違った。この艦は壊れていない。最後に受け取った命令を、教範通りに、九秒の誤差で実行し続けているだけだ。命令を解除する者が、七年間、誰も来なかっただけだ。
 ——来なかったのではない。
 彼は思考の言い直しを、舌の上で噛み潰した。届かなかった、だ。届けるはずだった夜のことを、いまここで考えるのは仕事の邪魔だった。仕事の邪魔になるという理由で蓋ができる程度には、彼は七年かけてその蓋の扱いに習熟していた。

 観察八時間目、光学の解像度が上がる接近周回で、ハルは標的の艦体を初めて仔細に見た。
 外殻は流星塵に七年磨かれて、塗装の大半が剥げていた。剥げ残った舷側に、艦籍番号と、その下に小さな記章の列が見えた。撃墜マークではなかった。同盟海軍の船団護衛章——護衛任務を完遂するたびに一つ描き足される、地味な菱形の記章だ。十六個あった。十六回、船団を無事に届けた艦だった。
 十七回目の護衛対象は、もういない。
 記章の列の最後、十七個目を描くべき場所の塗装だけが、妙に新しく見えた。見えただけかもしれなかった。七年ぶんの光学的な錯覚を、ハルは振り払わなかった。錯覚と分かっている錯覚は、害がない。害があるのは、これを「健気」と感じはじめる回路の方だ。あの菱形の列の隣には、採掘船と貨物船と旅客艇の、十六人の名前のない記章が並んでいる。彼はそちらの列を先に数え直し、それから観察記録に戻った。

「過去の犠牲の記録と、観察結果を照合します」
 ツクモが表示を切り替えた。
「標的の交戦判断には一貫性があります。哨戒圏——標的が『船団の警戒圏』と定義していると推定される空域——に進入した船舶を、例外なく『船団への接近脅威』と認定し、警告なしに撃っています。七年前の採掘船五名。五年前の貨物船九名。三年前の旅客艇二名」
「旅客艇は航法故障で漂い込んだ、とあったな」
「標的にとって、事情は識別要素ではありません。位置と針路だけが識別要素です」
 十六人。ハルは数字を見た。十二歳が一人。
 感傷が湧きかけ、彼はそれを手順で殺した。これは人を殺し続けている機械で、放置すれば十七人目が出る。撃つ判断は正しい。正しさを疑う段階はとうに過ぎている。疑っていいのは方法だけだ。
 それでも、と思う。それでも、この艦は七年間、一度も持ち場を捨てなかった。守るべきものが消えたことを知らされず、知らされないまま、誰より忠実に職務を続け、職務に忠実であるという一点によって殺戮機械になった。
 悪意は、どこにもない。どこにもないことが、一番悪い。

「戦闘のルールを整理するぞ」
 ハルは椅子を引き寄せた。感傷に効く薬は手順だ。
「彼我の条件。向こうの火器管制は現役同等、こちらは正面火力最弱。撃ち合いは論外。機動性能は?」
「加速性能は本艦が優位です。ただし標的は小型艦であり、旋回半径で劣ります。格闘戦に持ち込んだ場合、先に射界へ入れるのは標的です」
「格闘戦もなしだ。センサーは」
「対艦捜索レーダーと光学。指向特性は艦首方向に集中しています。教範通りです——直衛艦の警戒正面は、船団の進行方向前面ですから」
「後ろは」
「後方警戒は船団後衛の担当区域です。標的は単艦ですが、役割分担の前提を維持しています」
 ハルは宙域図の紡錘形を見つめた。
 見えてきた。この艦の急所は、装甲の薄い場所でも、機関の配置でもない。
「……守っていること、そのものか」
「はい」
 ツクモの返答には、ためらいというものが一切なかった。
「標的の全行動は『船団が存在する』という前提から導出されています。前提を共有すれば、標的の次の行動は教範が教えてくれます。予測誤差は機械精度に収まります。標的は七年間、九秒しか裏切っていません」
「裏切らない奴から死ぬ、というわけだ」
「はい。効率的な特性です」
 効率的、という言葉の置き場所が、ハルの感覚と二桁ずれていた。いつものことだ。いつものことだと流せるようになったことを、彼は時々、流せないまま夜中に思い出す。

 手順の次は、先人の検分だった。
 ハルはギルドの交戦報告を二通、表示に並べた。この標的に挑んで生きて帰った組と、帰らなかった組の報告書だ。
 撤退した組は三隻編成だった。正面と左右から同時に圧をかけ、火力で外殻を割る計画——教科書通りの賞金狩りのやり方だ。報告書は敗因を「火器管制の精度が想定外」と書いていた。ハルは航跡図を読み、別の敗因を見つけた。三隻が展開した方位は、全て船団外周側だった。標的にとってそれは「教範が想定する脅威軸」そのものだ。脅威の来るべき方向から来た脅威に、七年練習した迎撃が刺さっただけのことだった。想定外だったのは火器管制ではない。自分たちが想定通りの敵だったことだ。
「帰らなかった組の航跡は」
「交信途絶までの記録です。単艦、高速で哨戒圏を直接横断する経路。おそらく一撃離脱を企図しています」
 速度で振り切る計画は、機械の歩哨には通じない。眠らず、瞬きせず、偏差射撃の計算を間違えない相手に、直線の高速機動は的の運動方程式を単純にしてやるだけだ。三名の名前が報告書の末尾にあり、ハルはそれを読んでから閉じた。読む義理はなかった。読む習慣が、あっただけだ。
「両方とも、正面から行ったのね、とミミナは言っていたが」
「正確には、標的の定義する『正面』から行った、です。本艦は標的の定義する『内側』から行きます」
「定義の隙間を通る、か」
 戦いの形が、ようやく見えた。これは砲戦ではない。解釈の戦争だ。七年間、一度も解釈を変えなかった相手との。

「接近のウィンドウは」
「哨戒周期三十一時間十六分のうち、標的のセンサー正面が灯標群の反対側を向く時間帯。十九分です」
「十九分で、距離をどこまで詰める必要がある」
「中枢杭の有効射程は八百。確実を期すなら六百以下を推奨します」
「冷却機は保つのか」
「十九分の連続秘匿が成立する確率は、現状の機関温度で六割です」
「六割」
「残り四割の場合、秘匿時間は短縮されます。どこまで短縮されるかは、当日の数値次第です」
 六割。軍にいた頃なら、参謀が机を叩いて作戦を突き返す数字だ。だが傭兵の算術は軍の算術と逆さに回る。確率を買い足す金がないなら、確率の不足分は別のもので埋めるしかない。知恵か、運か、命でだ。
「足りない分の埋め方を考える。標的を哨戒線から動かせれば、ウィンドウは延びるな」
「はい。そして標的を動かす方法は、一つしかありません」
 ツクモは一拍置いた。計算にその一拍が必要だったとは思えない。あの一拍は、彼女の話法だ。誰に習った話法なのかは、考えないことにしている。
「標的は船団がいると信じている艦です。ならば、船団の声で呼べます」
 ハルは目を上げた。
「囮歌で、護衛対象の識別信号を歌う。船団の声を作って、針路ごと誘い出す」
「はい。同盟の船団管制プロトコルは本艦の参照記録にあります。船団は七年ぶりに、護衛艦に位置を報せるのです。標的は教範に従い、護衛位置を再確保するために移動します。移動経路も教範が決めてくれます」
 理屈は完璧だった。完璧で、どこかが深く冷たかった。七年待ち続けた艦に、偽物の待ち人の声を聞かせる。それを戦術と呼ぶことに、ハルの中の何かが薄く軋んだが、軋んだものに名前をつける前に、彼は職業人の手つきでそれを棚に置いた。棚はもう、だいぶ埋まってきている。
「接近経路を最終確定する。観察をあと一周期続けるぞ。九秒の裏付けを、もう一度この目で取る」
「承知しました」

 追加観察の三十一時間は、長かった。
 乗員一人の艦に、見張りの交代はない。ハルは観察の要所をツクモの自動記録に任せ、四時間刻みの仮眠を二度取った。二度目の仮眠明け、ブリッジに戻ると、計器の脇に圧縮糧食と水が出ていた。
「栄養摂取の間隔が規定を超過しています。集中力の低下は作戦リスクです」
「規定って、何の規定だ」
「連合軍艦艇乗員管理規程です。本艦の参照記録にあります」
「同盟の艦が、連合の規程でおれに飯を食わせるのか」
「標的に同盟の教範を適用し、艦長に連合の規程を適用しています。それぞれ最も予測精度の高い文書です」
 人間も艦も、書類で動く——彼女の世界観は徹頭徹尾そうできていて、腹立たしいことに、いまのところ大きく間違っていなかった。ハルは冷たい糧食を黙って食べた。

 三十一時間後。
 標的は、寸分違わぬ航跡をもう一周描き終えた。変針点の通過時刻、誤差四秒。七年目の歩哨は、今日も持ち場を離れなかった。
 ハルは操舵席の隣、艦長席の計器を整え、固定ベルトを締めた。
「囮歌、起動準備」
「準備完了しています」
 ツクモの声は、静かだった。
「接近を開始します。艦長、ご決断を」