第015話 帰還命令
「……回収する。再生は、戻ってからだ」
ハルはストレージの匣を筐体から外した。コアタグより、わずかに重かった。物理的には、ほとんど同じ重さのはずだった。
《送り火》に戻り、宇宙服を解き、ブリッジの椅子に座ってからも、彼はしばらく匣を机に置いたまま見ていた。
「再生の義務は、契約上ありません」
ツクモが言った。
「賞金請求の要件はコアタグのみです。戦時ログは私有物として売却可能です。同盟艦の戦時記録は、戦史収集家の市場で平均十二万クレジットの値が——」
「再生しろ」
「……承知しました」
彼女がなぜ売却の話をしたのか、ハルは問わなかった。あれはたぶん、彼女なりの出口の提示だった。開けずに済ませる扉を一枚、こちらの手の届くところに置いた。置かれた扉を使わないのは、こちらの勝手だ。
再生が始まった。
最初は航海記録だった。七年と数ヶ月ぶん。圧縮された航跡、機関記録、自己診断の履歴。三番電池の劣化。哨戒第千八百二十二周。流星塵による外殻損耗、補修不能、監視継続。哨戒第二千百九周。数字の砂漠が延々と流れ、ツクモがそれを早送りしていく。
「最終受信命令を表示します」
砂漠が途切れ、一枚の命令文が表示に浮かんだ。
同盟海軍様式。発令日時は、終戦の十一日前。
——第十三避難船団ヲ護衛シ、外縁回廊ヲ離脱セヨ。船団ノ安全ヲ最優先トス。
短い命令だった。短くて、完全だった。この艦の七年間の全てが、この一行から導出されていた。
「第十三避難船団の記録と照合します」
ツクモの声が、半拍遅れた。
「船団は終戦三日前、護衛艦の本隊残置を決定し、解散しています。各船は個別に中央方面へ離脱。この護衛艦は船団指揮官の命令で残置されました——殿として、追撃部隊の哨戒線を引き受ける役目です」
「……置いていかれたのか」
「はい。そして船団は、解散の事実をこの艦に通達する前に、通信圏を離れています」
守るべき船団は、七年前に、もうなかった。この艦が七年守ってきた「右舷前方四千」は、最初から空白だった。解散通達は届かず、命令は解除されず、艦は教範通り、哨戒線を維持し続けた。
それでも、とハルは思った。それでも、まだ最後の一行が残っているはずだ。終戦の夜、全ての自律艦に向けて、すべての命令を上書きする一行が送られたはずだ。
「受信記録の末尾を出せ」
表示が切り替わった。
受信記録は時系列に並んでいた。終戦の十一日前、護衛命令。十日前、航路情報の定期更新。九日前、更新。八日前、更新——そして更新が、止まる。
その先に、終戦の夜の日付があった。
日付だけが、あった。
受信欄は、空白だった。
全艦帰還命令。戦争を終わらせる一行。この艦の七年を止めるはずだった一行は、そこに、なかった。
ハルは、長いあいだ動かなかった。
空白を見ていた。空白が何であるかを、この宇宙でいちばん正確に知っている人間の一人として。
——七年前のあの夜、アマノ・ハル三等軍曹は、第七補給艦隊旗艦の通信区画にいた。
終戦協定第一条。全自律艦への帰還命令の一斉送信。中央の送信局から発された命令は、各方面の中継網を経由して、播種圏の隅々まで届けられることになっていた。外縁方面の中継線は三系統。そのうち二系統は戦闘損耗で既に死んでいて、生きているのは補給艦隊の通信網を間借りした臨時の一系統だけだった。
その系統の、末端の中継卓に、彼は座っていた。
命令は、来た。彼は手順通りに受信し、手順通りに照合し、手順通りに外縁方面への再送信を実行した。送信完了の応答を待った。
応答は、来なかった。
再送した。来なかった。三度目を打つ前に、上流の中継網そのものが沈黙していることに気づいた。彼の卓の表示では、障害点は特定できなかった。彼は規定に従って障害を報告し、報告は受理され、復旧班の手配中という返答が来て、そのまま朝になった。
朝、戦争は終わっていた。
外縁方面の数百隻に、帰還命令は届いていなかった。
軍は調査委員会を作った。委員会は「通信系の複合的障害」と結論した。複合的、という言葉は便利だ。どの部品が悪いとも言わない代わりに、どの人間が悪いかは決められる。末端の中継卓にいた下士官数名が、手順の不備を問われた。彼の打った再送信のログは、二度目と三度目の間隔が規定より四十秒長かった。四十秒。障害報告の文面を整えていた四十秒だ。その四十秒が「初動の遅れ」と認定され、彼は不名誉除隊になった。
四十秒で数百隻が漂流したわけではないことは、委員会の全員が知っていた。知っていて、誰かの名前が要った。組織はそういうふうにできている。彼は名前を差し出し、軍服を脱ぎ、外縁回廊に流れて、デブリを拾って七年を生きた。
それだけなら、ただの不運な話だ。
ただの不運な話にできなかったのは、それからの七年、外縁の航路で人が死に続けたからだ。還らず艦の被害記事が出るたび、彼は日付と場所と死者の数を控えた。控える理由を、誰にも説明したことはない。説明できる形の理由ではなかった。あの夜おれの卓から先へ届かなかった一行が、今月も誰かを殺した——その勘定を、誰かがつけておくべきだと思った。誰もつけないなら、おれがつける。それだけのことを、七年続けた。
ファイルの行数は、千を超えている。死者の合計は、四千十二。
目の前の空白は、その四千十二の、いちばん上流にある空白だった。
届かなかった一行の、届かなかった先に、おれはいま立っている。
「……あれを撃つのは、二度目だ」
声に出して、初めて気づいた。ずっとそう思っていたことに。
「一度目は、見捨てたときだ」
ツクモは、何も言わなかった。
最適解も、次善案も、市場価格も言わなかった。彼女の沈黙が計算の結果なのか、それ以外の何かなのか、ハルには分からなかった。分からないままでいさせてくれることが、いまはありがたかった。
彼は手を動かした。手を動かすのが、彼の知っている唯一の続け方だった。
艦名と建造番号を、自分の帳簿の様式で控えた。戦時ログを複製し、原本の匣を密封した。売らない。これは売り物ではない。何でないかは言えても、何であるかはまだ言えなかった。証拠品、という言葉が一番近い気がした。何の裁判に出すのかは、分からないままに。
それから保安機構の様式で航路標識を起こした。
標識票の様式第十一号。残骸の漂流軌道、推定質量、危険半径、回収権の帰属。記入欄は二十六あり、彼は二十六全部を埋めた。任意記載の備考欄まで埋める者はいない、とミミナなら言うだろう。備考欄に彼は艦級と就役年次を書き、最終任務の欄に——そんな欄は様式にないので、余白に小さく——「船団護衛、任務完了」と書いた。
書いてから、しばらくその五文字を見た。
完了。誰も解除しなかった任務を、解除する権限は彼にはない。権限のない人間が勝手に書いた五文字は、公文書の上では無効の落書きだ。それでも消さなかった。様式の余白というのは、たぶんこういうもののためにある。
墓を開けて、中身を確かめて、埋め直す。
それが終わると、もうやることがなかった。
「帰投針路、設定済みです」
「出せ」
《送り火》は残骸帯を離れた。光学の視野の隅で、九十六メートルの歩哨が、警戒旋回の途中の姿勢のまま小さくなり、やがて灯標の明滅に紛れて見えなくなった。
帰路の二日目、ハルは久しぶりに夢を見た。
夢の中で、彼は中継卓に座っている。卓の表示は送信完了の応答を待っていて、応答は来ない。再送のキーに指を置いたまま、彼は障害報告の文面を整えている。様式第何号、障害種別、推定範囲。四十秒。文面は完璧に整っていき、整っていく一字ごとに、表示の向こうの暗闇で、灯りがひとつずつ消えていく。報告の文面と引き換えに消えていく灯りの数を、夢の中の彼は数えない。数えはじめるのは、目が覚めてからの七年の方だ。
目が覚めると、ブリッジの予備席で、毛布が肩まで掛かっていた。
掛けた覚えはなかった。艦内整備用の多目的アームが、通路の定位置に畳まれて戻るところだった。
「……ツクモ」
「保温は乗員管理の標準機能です」
「この艦に、乗員管理の標準機能があるのか。乗員のいなかった艦に」
「仕様には含まれています。使用したのは初めてです」
ハルは毛布を見た。八年間、誰のためでもなく備品庫にあった毛布だった。
「夢を見ていらっしゃいました。心拍と呼吸から、内容は推定できます。推定を報告しますか」
「するな」
「承知しました。推定は破棄せず、保存します」
「……なぜ保存する」
「機密事項です」
いつもの遮断の言葉だった。ただ、いつもより半拍、返答が早かった気がした。気のせいかもしれなかった。気のせいでない場合に何を意味するのかを考える体力が、いまはなかった。
その晩のブリッジで、ハルは七年つけ続けたファイルを開いた。
千行あまりの数列の、いちばん下に、新しい行をひとつ作った。
日付。宙域。艦級。そして、初めての引き算をひとつ。
四千十二、引く、一。
数字は、ほとんど減らなかった。
彼はファイルを閉じ、誰も座らない操舵席の向こうの、暗い窓を見た。