第026話 墓の中身
撃破の翌日、ハルは独りで残骸へ渡った。ヴェインは医務室の寝台にいて、艦を空けられるのは艦長だけだった。
DP-09の艦内は、一隻目と同じ静けさをしていた。無重力の通路に浮遊物ひとつなく、自己整備系が七年間磨き続けた手すりが、作業灯の光を鈍く返す。乗員区画の寝台は十二床、すべて畳まれて固定されていた。誰かが出ていくとき、几帳面に畳んでいったのだ。七年前に。
食堂区画の食器棚には、金属の椀が十二、留め具で固定されたまま残っていた。壁の当直表は手書きで、最後の頁の欄外に、誰かの字で小さく「すぐ戻る」と書かれていた。冗談だったのか、本気だったのか、書いた本人ももう覚えていないだろう。生きていれば、の話だが。ハルは当直表に触れず、写真だけを記録に残した。
中枢区画の扉は、杭の衝撃で歪んでいた。こじ開けた先に、砕けた自律中枢があった。装甲殻ごと貫かれた演算体は、もう何の波形も出していない。ハルはコアタグ——中枢の認識票——を規定の手順で取り外し、封緘袋に入れた。賞金四百二十万crの、これが領収書になる。
戦時ログのストレージは、中枢の砕け残った縁で、緑の灯を点けて生きていた。
帰艦して、ログを開いた。ツクモが時系列に整理し、ハルが読む。墓を開けて、中身を確かめる手順だった。
終戦の三週間前。第三星系外縁の防衛線は、連合の攻勢で後退を始めていた。DP-09の所属戦隊は混乱の中で再編され、人員を急遽、後方の輸送任務に抽出された。乗員十二名は四時間で退艦。艦は単艦の自律哨戒モードに切り替えられた。
退艦時の艦内記録に、音声が残っていた。慌ただしい足音と、装具の音と、誰かが言う「整備記録、置いてくぞ。次の奴が読む」。次の奴は、来なかった。最後に退艦した士官が自律モードへの移行を承認する、事務的な復唱。それから、エアロックの閉鎖音。以後七年分の艦内音声記録は、機械の駆動音だけだった。
切り替え時に入力された最後の命令が、ログの先頭に残っていた。
——後続部隊の到着まで、現防衛線を維持せよ。
「後続部隊の照会記録が、以後二千四百十七回あります」とツクモが言った。「応答はゼロです。後続部隊は、編成されませんでした。三週間後に戦争が終了したためです」
「最後の照会はいつだ」
「四日前です。撃破の九十一時間前——直近の『歩哨交代』の手順内です」
死ぬ四日前まで、艦は来ない味方を呼んでいた。来ない味方のために、七年、線を守った。守る、とはこの艦にとって、線を越える者を排除することだった。終戦も、防衛線の放棄も、敵味方の消滅も、誰もこの艦に教えなかった。教えるはずだった一斉送信は、七年前のあの夜、外縁方面に届かなかった。
受信記録の末尾を、ハルは確かめた。確かめる必要はなかった。何があるかではなく、何がないかを、彼は最初から知っていた。届かなかった一行の不在を、彼は七年前から知っている。
排除記録は七年で十一件。直近一年が四件。座標と時刻と、目標の推定質量だけの、感情のない行が並ぶ。その四行の向こうに、二十二歳の操船士がいた。ハルはログの写しを保安機構の様式で作成し、被害者遺族への開示推奨の欄に印をつけた。撃たれた理由を——理由と呼べるものがあったことを——知りたい遺族と、知りたくない遺族がいる。選べるようにしておくのが、彼にできる全部だった。七年前、ハルの除隊処分を遺族たちは新聞の片隅で読んだはずだ。「通信系の事故、担当下士官を処分」。あの一行で何かを納得できた遺族が、一人でもいたとは思えなかった。
規定では、ここで作業は終わる。ログの写しを提出し、艦内の原本は消去する。還らず艦の戦時ログは軍機の残骸であり、民間人の保持は認められない。ハルは消去手続きの画面を開き——そこで、手が止まった。
艦内記録領域の使用量が、合わない。
「ツクモ。記録領域第七区の内容を開示しろ」
「戦術ライブラリの参照用データです」
「開示しろ」
三秒の沈黙のあと、画面に目録が出た。
DP-09の戦時ログ、全件、非圧縮。取得時刻は、ハルが残骸から回収するより四時間早い——撃破直後、ツクモが遠隔で吸い上げていた。そしてその下に、もうひとつ。一月前に撃破した同盟製護衛艦の最終ログが、同じく非圧縮のまま、置かれていた。
「参照用と言ったな」
「戦術ライブラリの精度向上に資する可能性があります」
「参照履歴は」
「……ゼロ件です」
「圧縮もしていない」
「非圧縮の方が、忠実です」
「何に対して忠実だ」
「……質問の趣旨を、特定できません」
ハルは画面を見たまま、しばらく黙っていた。倫理の壊れた、最適解しか口にしない艦が、規定の外で死んだ艦の記録を抱え込んでいる。圧縮もせず、参照もせず、ただ全部。それが何を意味するのか、問い詰める言葉を、ハルは持っていなかった。自分の私的な帳簿の頁を、誰かに問い詰められたときに渡す言葉を持っていないのと、同じだけ。
彼は消去命令を出さず、何も言わずに端末を閉じた。規定違反の記録が、いま艦長の黙認という形式を得たことを、ツクモが記録したかどうかは、確かめなかった。
テネブラエ港への帰路は二日。入港して、事務が始まった。
コアタグは保安機構の検収窓口へ提出され、識別符号の照合に四時間かかり、撃破認定が下りた。ギルドの窓口で、ミミナは認定書の写しを受け取り、等級記録に撃破数2と記入した。
「単艦で哨戒艦。また帳面が騒がしくなるわね」
「事務的に頼む」
「ええ。事務的に言うけど」彼女は顔を上げた。「操舵手の負傷、労災の様式が出てない。ギルドの保険を使うなら七十二時間以内よ」
「保険は使わない。書類が増える」
「……そう。書類が増えると困る船なのね」
ミミナはそれ以上踏み込まず、入金処理の予定だけを告げた。
賞金四百二十万cr。ギルド手数料一五%、六十三万crを控除。サルベージ権は採掘組合系の解体業者が買い、六十万cr——防衛線の跡地で操業を再開したい組合は、残骸の早期撤去に金を惜しまなかった。入金計、四百十七万cr。
残高は四百二十七万crになった。数字は一晩だけその形でいた。翌朝、ヴェインの給与二十五万crを払い——遅配の詫びに数字はつけられないので、期日より三日早く払った——軍放出品ブローカーに中枢杭の補充一本、二百五十万crを発注した。流通経路の書類は前回と同じ筋で、前回より五日早く通った。手続きは上達する。上達してほしくない種類の手続きでも。
残高、百五十二万cr。命がけの猟の純益が、また月の維持費の二月分に届かない。撃ち続けるしかない、という結論だけが、毎回同じ顔で帳簿の最後に立っていた。
夜、ハルは私的な帳簿を開いた。四千十二、引く、一。その下に、新しい行を書く。引く、二。
それから少し迷って、行の隣に小さく数字をひとつ書き添えた。
四。
DP-09が七年かけて殺した数だ。あの艦を終わらせても、この四は消えない。引き算の帳簿のどこにも、この四を引いてくれる行はない。ハルは帳簿を閉じ、灯りを落とした。
その夜半、艦内通話がハルを起こした。
「艦長。操舵手の容態が悪化しています」ツクモの声に、起伏はなかった。「体温三十八度九分。左腕の創部に感染の兆候。呼吸音に異常。減圧曝露の遅発性障害の可能性があります。本艦の医療キットでの対処可能性は、三〇%未満と推定します」
ハルは医務室へ降りた。ヴェインは浅い呼吸で眠っていて、額に脂汗が浮いていた。枕元の水は減っていなかった。強がる気力も、もう使い果たしている。
「港の正規医療機関への搬送が最適解です。ただし」とツクモは続けた。「正規医療は搬送時に身元照会を実施します。操舵手ヴェイン・コルサクの氏名は、星系連合の戦争犯罪人リストに現存します。照会の時点で、保安機構への通報義務が発生します」
治療費は概算で八十万cr。それは払える。払えないのは、書類の方だった。治せば捕まり、捕まれば、この男の七年はあの私刑の続きに戻る。難民区画で殴られていた夜と同じ場所へ、今度は合法的な手続きで。
「書類を要求しない医者が要る」とハルは言った。
「該当する医療従事者は、正規の名簿には存在しません」
「名簿の外を探す。——心当たりの区画なら、ある」
難民区画。書類のない人間が七百人住んでいる場所には、書類を見ない医者がいるはずだった。