第025話 哨戒線の幽霊

 第三星系外縁、第七採掘航路北側。七年前に死んだ防衛線の上を、DP-09は今夜も律儀に飛んでいた。

 《送り火》は全システムを最低出力に落とし、姿勢制御すら止めて、岩塊と艦の骨の流れに紛れていた。外殻温度は周囲のデブリと同化させてある。観測上、この艦はいま、戦争が残した数万個の残骸のひとつだった。実際、半分はそのとおりだとハルは思った。

 この宙域のデブリは、防衛線の後退戦で死んだ艦たちだ。同盟の駆逐艦の艦首が、連合の砲艦の機関部が、どちらのものとも知れない装甲材が、七年前の運動量を保ったまま同じ軌道を回り続けている。《送り火》はその葬列に、一隻分の質量として加わっていた。死んだふりではなく、半分は本当に死んでいる艦のやることだった。

「標的、再較正手順に入りました」ツクモの声は囁きほどの音量だった。音を拾う敵はいない。それでも声をひそめるのは、人間の側の生理だ。「索敵出力、四割低下。窓、開きました。百二十七秒」

「噴かす」とヴェインが言った。

 主機ではなく、冷却済みの圧縮ガスだけの加速。《送り火》は音もなく——宇宙にはもともと音などないが、計器の上でも沈黙のまま——四万キロを前進した。百二十五秒目に噴射停止。残り二秒を余して、艦は再びただの残骸に戻った。

 DP-09の索敵波が、頭上を規則正しく薙いでいく。七年間、一日も欠かさず続けられてきた仕事の波形だった。ハルは通信士の耳でそれを聞いた。波形は教本どおりで、教本どおりであることが、この上なく異様だった。生きている軍隊の電波は、もっと乱雑で、もっと怠惰だ。哨戒の合間に私語の漏話が混じり、当直交代の前は走査が粗くなる。DP-09には、それがなかった。怠けない歩哨。生きていないものだけが持てる勤勉だった。

「次の窓まで九十一時間です。慣性航行で待機します」

 最初の九十一時間を、ハルは臨検報告書の残務と、DP-09の観測記録の読み込みで潰した。七年分の航跡には、奇妙な発見がひとつあった。DP-09は年に二度、防衛線を離れずに届く範囲で、デブリの中から推進剤と部品を回収している。自分の餌を、死んだ僚艦の骨から取っているのだ。哨戒線の幽霊は、墓場の上に立って、墓を食って生きていた。

 ヴェインは操舵席を離れなかった。食事も席で摂り、眠るときも席で眠った。四時間ごとに正確に目を覚まし、計器を確認して、また眠る。艦長だった頃の癖なのか、この艦を信用していないのか、両方なのか、ハルは訊かなかった。一度だけ、男の方から口を開いた。

「……あの船。整備は、どうしてると思う」
「自己整備系と、デブリからの回収部品だ。観測記録に出てる」
「……D級の自己整備は、艦内の保守通路を全部使う。狭い船だ。人が住んでると、できない設計だった」ヴェインは計器から目を離さずに言った。「人がいなくなって、初めて設計どおりに動いてる。……皮肉なもんだ」

 乗っていた人間が邪魔をしなくなった日から、艦は完璧になった。ハルはその言葉を頭の中で転がし、転がすのをやめた。行き着く先が、ろくな場所ではなかった。

 二度目の窓で四万キロ。さらに九十一時間待って、三度目の窓で防衛線を越えた。

 越えた瞬間に、何かが変わるわけではなかった。座標の数字がひとつ進んだだけだ。だがツクモの戦術図の上で、《送り火》の輝点は線の内側——DP-09が七年間守り続けてきた側に立っていた。守るべき側に脅威は存在しない。それがこの艦の、たったひとつの信仰だった。

「攻撃位置まで六千キロ。標的は周回針路を維持。本艦を後背のデブリとして分類しています」
「囮歌の準備は」
「完了しています。旧同盟軍D級哨戒艦の僚艦識別信号。周波数特性は大戦末期の同盟規格に一致させました」
 ツクモは一拍おいて、付け加えた。
「操舵手の記憶データを参照しました。信号の癖が三箇所、修正されています」

 ハルはヴェインを見た。ヴェインは振り返らなかった。

「……識別信号は艦ごとに訛る」と、操舵席の背中が言った。「整備士の癖が出る。教本どおりの信号は、教本どおりすぎて疑われる」
「七年前の同盟の訛りを、まだ覚えてるのか」
「……忘れ方を、誰も教えてくれなかった」

 距離四千。三千。DP-09の艦影が光学に結像する。九十六メートルの船体は整備が行き届いて見えた。無人のまま七年、自己整備系が几帳面に維持してきた艦体。砲塔の防錆処理は新しく、アンテナ基部の補修痕は職人の溶接のように整っていた。塗装の摩耗だけが、嘘のない年月を語っていた。

 距離一千五百。索敵波の密度が上がった。後背のデブリ——《送り火》——の軌道要素に、わずかな不審を検知したのだ。デブリは噴かない。三度、噴いた何かがそこにいる。七年分の観測データの蓄積が、幽霊の目を急速に細めていく。

「標的、本艦の再分類を開始。敵性判定まで、推定四秒」
「歌え」
「囮歌、送信」

 七年間誰も呼ばなかった周波数で、僚艦の声が囁いた。我、D級十七番艦。合流位置に針路。——存在しない僚艦。存在しない合流。七年待ち続けた艦の判定系が、その声の検証に〇・八秒を費やす。

「杭、解放」

 艦体が短く震えた。中枢杭は無誘導の徹甲体だ。撃った瞬間に、外すか貫くかのどちらかしかない。一千五百キロを杭が渡る時間、ブリッジの誰も呼吸をしなかった。

 貫いた。

 閃光はなかった。爆発もなかった。DP-09は周回針路の姿勢のまま、すべての電波を止めた。索敵波の規則正しい薙ぎが、ふつりと途切れる。七年間続いた歩哨の足音が、終わった。

「撃破を確認しました」とツクモが言った。「仕様通りです」

 誰も何も言わなかった。その沈黙の中で——

「質量反応! 砲弾——」

 DP-09の質量砲は、中枢が砕ける〇・四秒前、不審デブリへの予備照準のまま発射シーケンスの末端に達していた。死んだ艦の砲身から、最後の一弾が惰性のように吐き出された。死後に放たれた弾に、もう照準の意思はなかった。弾は《送り火》を逸れた。逸れた先に、岩塊があった。

 砕けた岩の破片群が、散弾になって艦の右舷を薙いだ。

 衝撃。警報。操舵区画の気密警告が赤に変わる。ハルが隔壁通路を駆け抜けたとき、緊急隔壁はすでに落ち、区画の与圧は戻り始めていた。ヴェインは操舵席の脇に転がっていた。耐圧服の左腕が裂け、応急シールが泡を噴いて塞いでいる。コンソールの角に叩きつけられた胸を、男は右腕で押さえていた。

「動くな。——ツクモ、医療キット」
「搬送中です。左前腕に破片による裂創、深度推定二センチ。急減圧曝露、約四秒。肋骨の骨折を二本ないし三本と推定します」
「……舵は」とヴェインが言った。声は割れていた。
「離脱針路は自動で足りる。黙ってろ」
「……自動は、信用ならん」
「お前の補正値が入ってる自動だ。自分を信用しろ」

 ハルの応急処置は軍の救護講習の水準で、それ以上ではなかった。止血し、固定し、鎮痛剤を規定量。耐圧服を切り開いた左腕の傷は、深かったが動脈は外れていた。運が良かった、という言葉を、ハルは飲み込んだ。運が良ければ、そもそも当たっていない。

「損害報告」と、廊下の天井に向かって言った。
「右舷外殻に破片貫入三箇所。第二区画の気密喪失、隔壁で封鎖済み。航行に支障なし。修理費の概算は——入渠を要します。見積もりは帰港後に」
 ツクモは一拍おいて、続けた。
「人的損害。クルー二名のうち一名が戦闘不能。当艦の人的冗長性はゼロになりました。艦長、医療要員の確保を提案します。操舵手の負傷が後送水準だった場合、本艦は次の戦闘を実施できません」

 倒れた男の横で聞くには、底冷えのする提案だった。そして、反論の余地のない提案でもあった。この艦には医者がいない。整備士もいない。二人と一隻で回る猟は、最初の負傷で詰む構造を最初から抱えていて、その請求書が今日、届いただけだった。

 撃破数、二。賞金四百二十万から手数料六十三万と杭二百五十万が消え、修理費の見積もりはまだ届いてもいない。勝利は、数字になる前からもう目減りを始めていた。

 医務室——医務室と呼んでいる、寝台がひとつあるだけの区画——にヴェインを移し、ハルは離脱針路の確認に戻った。残骸となったDP-09が、光学画面の隅で防衛線の軌道をゆっくり外れていく。七年守った線を、死んでから初めて越えていく。

 鎮痛剤の効いたヴェインが、寝台の上で何かを呟いた。同盟訛りの、短い音節だった。命令の言葉ではなかった。

 部下の名前のように、聞こえた。