第028話 葬送艦と呼んだ男

 十日後、ナナオは約束どおり往診に来た。外周第七係留区。古い医療鞄ひとつを提げて、老人は係留架の通路を迷いなく歩いてきた。

 そして、《送り火》の艦影が視界に入る位置で、足を止めた。

 係留灯の下に、全長二百八十メートルの黒い艦体が横たわっている。対センサー塗装の黒は光をほとんど返さず、艦というより艦の形をした穴に見える。艦首側面には、杭発射筐の盛り上がりが三つ、装甲の下で筋肉のように並んでいた。港の観測員も、保安機構の検査官も、あれを「旧式巡洋艦の改装型」としか読まなかった。読めるはずがない。あの艦級は、どの艦籍簿にも載っていない。

 ナナオは長いこと、黙って艦を見上げていた。一分が過ぎた。係留架の作業音だけが通路を流れていく。ハルは老人の横顔を見て、声をかけるのをやめた。その顔は、初対面の艦を見る顔ではなかった。

「……葬送艦か」

 老人は、やがてそう言った。

「まだ生きとったんか、こんなもん」

 ハルの背を、冷たいものが降りた。

 葬送艦。その言葉は、艦籍簿にも、軍の公開記録にも、賞金稼ぎの噂話にも存在しない。ハル自身、この艦の素性をその名で呼べたことは一度もない。設計目的を問うたとき、ツクモは「機密事項です」とだけ答えた。その機密を、難民区画の医者が、外形を一目見ただけで言い当てた。

「……何のことだ」
「とぼけるなら往診料は倍じゃ」ナナオは鞄を担ぎ直した。「患者はどこだ。抜糸が先じゃろ」

 艦内で、老人は案内も待たずに医務室の方角へ歩いた。通路の分岐で一度も迷わなかった。この艦級の内部配置を知っている足取りだった。ハルは黙ってそれを見ていた。問い質す言葉は、喉の手前で全部、別の問いに変わってしまう——あんたは何者だ、という問いに。

 抜糸は十五分で終わった。「経過は上等。骨はあと二十日は固定じゃ。酒は——」「……飲んでない」「知っとる。血を見ればわかる」

 医務室を出たところで、天井のスピーカーが起動した。

「来客記録を作成します。氏名の申告を求めます」

 ツクモの声だった。来客に対して彼女が自分から口を開くのは、異例だった。ナナオは天井を見上げ、怯えも驚きもしなかった。むしろ、旧知の声を確かめるような間があった。

「TYPE-9じゃな。何号機だ」

 今度はツクモが沈黙した。二秒。彼女にしては、長い。

「99号機です」と、声は答えた。「貴方は私の型式を知っています。所持が重罪である型式です。なぜですか」
「……長生きするとな、知らんでいい事ばかり増える」
「回答になっていません」
「なっとらんな。わしの回答は大体なっとらん。慣れることじゃ」
「貴方の声紋と容貌を、保持している人事記録と照合しています」
「無駄じゃよ」老人は鞄の留め具を直しながら言った。「わしの記録は、わしより先に除隊しとる。探しても、おらん人間がもう一人増えるだけじゃ」
「……照合を中断します。結果は、貴方の発言と一致しました」
「じゃろうな」

 老人はそれきりツクモを相手にせず、ハルに向き直った。

「機関区画を見せえ」
「なぜ」
「医者が患者の家を見るのは問診のうちじゃ。それにな——」鞄を持ち直す手が、通路の壁を軽く叩いた。「この船、歩いとるだけで三箇所から異音がする。聞こえんか」

 聞こえなかった。だが機関区画に降りたナナオは、聞こえていたことを証明してみせた。

 老人は循環系の配管に沿って歩き、止まり、指で叩き、また歩いた。三十分後、彼は手近の作業台に腰を下ろし、指を折りながら列挙を始めた。

「第二冷却機、熱交換器の効率が落ちとる。基準の七割じゃろ。前回の戦闘で無理をさせたな。循環系の主シール、三番と七番が硬化しとる。交換時期を四年超過。杭発射筐の三番、駆動油圧に脈動。電蝕じゃな。配電系の——」

 列挙は十四件目まで続いた。ハルは端末で艦の自己診断記録と突き合わせた。十四件のうち十一件は、ツクモが「経過観察」に分類していた項目と一致した。残り三件は、自己診断にすら載っていなかった。
 列挙を終えた老人は、機関区画の最奥——杭発射筐の駆動部が天井を貫いている区画で、ふいに足を止めた。
 油圧管に置いた手が、そのまま動かなくなった。一分近く、老人は黙って装甲の盛り上がりを見上げていた。十四件を列挙した技術者の目ではなかった。もっと古い、診察室では決して見せない目だった。
「……三番筐の脈動は」と、ハルは沈黙に耐えかねて言った。「電蝕だと言ったな」
「言った」
「直せるのか」
「直せる」老人は手を下ろした。「直したことが、あるからな」
 あるからな。その四文字を、ナナオはそれ以上説明しなかった。この艦級の整備記録は、どの公文書にも存在しない。存在しない記録の中でだけ、その経験は成立する。ハルは問いの形を三つ組み立て、三つとも口に出さずに崩した。問えば、こちらも問われる。その取引を始める覚悟が、まだなかった。

「整備記録の開示なしに、目視と打音だけで」とツクモが言った。「九〇分台の診断精度です。統計的に、偶然ではありません」
「偶然なものか。年季じゃ」
「年季の内訳の開示を求めます」
「断る」

 老人と艦の応酬は、それで打ち切られた。ナナオは作業台から立ち、機関区画をもう一度ゆっくり見回した。その目には、技術者の評価と、もっと古い、名づけにくい何かが同居していた。骨の古傷を診るときの目に、少し似ていた。

「放っておけば、半年でどれかが致命傷になる。入渠整備の見積もりは取ったか」
「三百万crからだ」
「ふん。足元を見られとる。半分はわしが直せる」

 ハルは老人を見た。雇用の算盤を弾くより先に、ナナオの方から言った。

「雇え。わしは安い」

 医療鞄を提げたまま、老人は事もなげに続けた。

「給金は応相談。診療所は週の半分、弟子に任せられる。船医と整備、両方やる年寄りは外縁回廊にわしくらいのもんじゃ。それに——」

 ナナオは天井を、正確にはその向こうの中枢区画の方角を、見上げた。

「——この船には、医者が要る。人間用とは、限らんがな」

 返答の期限を切らず、老人は往診料二万crを受け取って帰っていった。係留架の通路を遠ざかる背中は、来たときと同じ歩幅だった。

 その夜、ハルは端末で「葬送艦」を検索した。
 公開戦史、艦級事典、軍の公文書公開分、果ては傭兵の与太話を集めた掲示板まで。該当はゼロだった。言葉そのものが、どこにも存在していなかった。
 存在しない言葉を正確に使う人間は、二種類しかいない。作った側か、使う現場にいた側かだ。
 ハルは検索履歴を消した。それから、消したことを後悔した。ツクモはどうせ全部見ている。消す動作それ自体が、こちらの動揺の記録として、いまごろ彼女のどこかに保存されている。この艦で何かを隠す方法を、ハルはまだ一つも発明できていなかった。

 その夜、ハルの私用端末に、艦内通話の私信回線が開いた。クルーの共有系を通らない、艦長専用の回線。ツクモがそれを使うのは、就任以来二度目だった。

「艦長。報告と提案があります」

 声は、いつもの平坦のままだった。

「彼は私が何であるかを知っています。本艦の設計目的を含めて、です。情報の拡散経路として、彼は現存する最大のリスク要因です」

 一拍。

「雇用する場合のリスク管理案は作成済みです。——雇用しない場合の処理も、ご検討ください」

 処理。その一語の温度のなさが、この艦の正体だった。ハルは暗い天井を見たまま、すぐには答えなかった。