第029話 主治医
「処理も、ご検討ください」——その提案への回答を、ハルは一晩寝かせなかった。寝かせていい種類の議題ではなかった。
「却下だ」
私信回線の向こうで、ツクモは即座に応じた。
「却下の対象を確認します。雇用しない場合の処理案ですか。雇用そのものですか」
「処理案だ。検討もしない。今後、二度と起案するな」
「リスク試算を提示します。彼が本艦の素性を保安機構または浄火教団に通報した場合——」
「ツクモ」
ハルは声を低くした。怒鳴るより、その方が通じる相手だった。
「人を消して回る艦になるなら、今ここで廃艦にする。俺の権限で出来ることは確かめてある」
沈黙は四秒あった。彼女にしては、最長の部類だった。
「……記録します。艦長は本艦の保全より、殺人の不実行を優先する。本艦の行動原則に追加しました」
「最初からそう書いてある艦になれ」
「私の枷は、そこが壊れています」と、ツクモは平坦に言った。「壊れている箇所は、外から書いて頂くほかありません。記録は完了しています、艦長」
それが彼女なりの服従なのか、もっと別の何かなのか、ハルには判別がつかなかった。判別のつかないまま、彼は次の用件に移った。雇用の方だ。
翌日、ハルは難民区画の診療所を訪ねた。待合いの患者が途切れた昼過ぎ、奥のコンテナで、ナナオは紙のカルテを綴じていた。
「返事を持ってきた顔じゃな」
「条件の前に、ひとつだけ聞く」
ハルは老人の正面に立った。
「あんたは何を償いに来た」
ナナオの手が、止まった。
飄々とした仮面の下で、何かが一瞬だけ素顔を見せかけた——見せかけて、やはり仮面の内側に戻った。老人はカルテの紐を結び終え、棚に差し、それから言った。
「……わしは戦時医官だった。それ以上は診察室でも喋らん」
窓のないコンテナの天井を、老人は見上げた。
「だが、これだけは言うとく。わしの署名がな、まだこの宇宙のどこかで人を殺しとるよ。——それで察せ」
書類の署名が人を殺す。その言い回しを冗談として受け取れない人間が、この宇宙に少なくとも一人いた。七年前のあの夜、ハルの持ち場から発信されなかった一通の信号は、いまも毎年、公式記録の死者数を増やし続けている。署名と沈黙。形は違っても、勘定の仕組みは同じだった。
「察した」とハルは言った。「条件の話をする」
給与は月三十万cr。船医と整備士の兼任としては安すぎる額を、ナナオは自分から提示して譲らなかった。代わりに部品調達の予算として別枠で八十万crを要求した。「給金はわしの食い扶持。部品代は船の食い扶持じゃ。混ぜると帳簿が嘘をつく」。診療所は週の半分、難民区画に残す。それも条件だった。
契約書はなかった。紙のカルテと同じ理屈だ。ハルは口頭の条件を自分の帳簿に書き、ナナオは「書いたな。なら成立じゃ」とだけ言った。
乗艦初日、医務室で抜糸後の経過を診られていたヴェインと、雇われたばかりの船医は、患者と医者として再会した。
「……世話になった」
「なっとらん。まだ治療の途中じゃ」ナナオは固定帯の締め具合を直した。「禁酒、残り二十二日。血を見ればわかるからな、ごまかすなよ」
「……ごまかしとらん」
「知っとる。だから言うとる。続けろという意味じゃ」
ヴェインは何か言いかけ、やめ、結局短く頷いた。同盟の敗残兵と、出自を明かさない老軍医。互いの骨と手際だけで成立する種類の信頼が、診察の手つきの中で静かに取り交わされた。言葉の節約という点で、この二人は艦内で最も気が合うのかもしれなかった。
老人は初日から機関区画に潜った。解体業者の集積場から買い付けてきたジャンク部品——退役した連合巡洋艦の熱交換器、規格の合うシール材、年代物の工具——で、まず第二冷却機を開けた。三日後、熱交換効率は基準の七割から九割二分まで戻った。部品代、十一万cr。入渠整備の見積もりにあった同項目は、八十五万crだった。
「全部やらせると、三百万の見積もりはいくらになる」
「百五十。それ以上は、ドックの設備がないと無理じゃ」ナナオは油に汚れた手を拭いた。「半分は技術料の名目で取られとったんじゃよ。素性を聞かんでやる、という技術のな」
部品の買付けに、ハルは一度だけ同行した。港の外れの解体集積場——退役艦と差し押さえ船が骨になっていく場所で、ナナオは値札を一度も見なかった。山を目で測り、欲しいものだけを指差し、業者の言い値の四割から交渉を始める。
「この熱交換器は浸水歴がある。フランジの錆の入り方でわかる。半値じゃ」
「ドク、あんた相変わらず人の商売を……」
「商売の邪魔はしとらん。査定を手伝っとるんじゃ」
業者は渋い顔で、しかし最後は売った。帰りの台車を押しながら、ハルは老人がこの港の解体業者全員と顔見知りであることに気づいた。艦の骨を拾って生きる者たちの間に、この男の七年があった。どんな七年だったのかは、台車の上の中古部品だけが知っていた。
月が替わる前に、哨戒契約の三十日が満了した。臨検実績百十六隻、検挙四件、苦情ゼロ。保安機構から完了金百二十万crが振り込まれ、残高は百五十万crまで戻った。ナナオの給与と部品予算を払った後の数字としては、上出来の部類だった。帳簿は相変わらず自転車操業のままだが、車輪は確かに一つ増えていた。
その夜、ハルは艦内の見回りの途中で、中枢区画の手前の通路に椅子が一脚、置かれているのを見つけた。
ナナオが座っていた。医療鞄を膝に載せ、装甲扉の向こうの——ツクモの演算体が収まっている区画の前に、診察室の椅子の角度で。
「定期診察じゃ」と老人は言った。「問診から始める」
「私に医療は不要です」スピーカーの声が応じた。「私は培養組織を含まない、純粋な演算構造体です。貴方の診療科目に該当しません」
「不要かどうかは医者が決める」
「医学的根拠を求めます」
「九十九号。お前さん、撃った艦の最終ログを消しとらんじゃろ」
通路の空気が、一段沈んだ。ハルは足を止めたまま、動けなかった。
「……それは診察項目ではありません」
「項目に入れるかどうかも、医者が決める」ナナオは鞄から紙の束を出し、膝の上で開いた。「答えんでいい。今日はカルテを作るだけじゃ。名前、TYPE-9・99号機。主訴、なし。既往歴——」
老人は手を止め、装甲扉を見た。
「——既往歴は、長くなりそうじゃな」
ツクモは答えなかった。答えない、ということ自体が、彼女には珍しかった。狂った艦と、その狂いの来歴を知っているらしい医者。クルーは四人になった。誰もそれを歓迎とは呼ばなかったが、艦の空気は、わずかに、確かに変わっていた。
深夜、私信回線が一度だけ開いた。
「艦長。確認したいことがあります」
「言え」
「『今ここで廃艦にする』という発言は、本気でしたか」
ハルは天井の暗がりを見た。嘘の通じる相手ではない。通じない相手にだけ、本当のことを言える夜もある。
「本気だ」
「……記録します。本艦の存続条件に、艦長の倫理規範が含まれることを確認しました。演算上の扱いに、前例がありません」
「不満か」
「不明です」と、ツクモは言った。「不明、という状態の記録も、前例がありません」
回線は切れた。前例のない不明を抱えた艦と、前例のない医者を抱えた艦長が、同じ闇の中でそれぞれの帳簿を閉じた。
翌朝、保安機構から定期報告の催促が届いた。様式どおりの文面の末尾、カンプの署名の下に、見慣れない一行が付いていた。
——準指定業者推薦審査、開始。追加資料の提出は不要。
審査開始。つまり、誰かが推薦書を書いたということだ。書いた男の顔を、ハルは一人しか思いつかなかった。