第036話 七年遅れの帰還命令
帰還命令の復元に、三日かかった。
初日の夜、ハルは薬を貰いに行くという口実で、医務室の戸口に立った。口実だということは、二人ともわかっていた。
「眠れんか」
「いや。……いや、そうだな。眠れない」
「薬は出せる。出すが」ナナオは棚に手を伸ばしかけて、止めた。「あんたのは、薬で眠らせていい不眠かの」
「どういう意味だ」
「眠れん夜には二種類ある。身体の故障と、勘定の途中じゃ。勘定の途中で眠らせると、朝になって帳尻だけが合わんようになる」
老人は結局、何も出さなかった。代わりに、診察室の椅子を顎で示した。ハルは座らなかった。座れば、喋ってしまいそうだった。七年分を、全部。
「……組み始めた。今日から」とだけ、彼は言った。
「そうか。手ェ動かすのが、あんたの薬じゃろうしの」
戸口を離れるとき、背中に老人の声が追いついた。
「アマノ。一つだけ言うとく。──罠に使う言葉はな、罠に使った後も、言葉のままじゃ。汚れたりはせん。それだけは、医者が保証しちゃる」
何の医者だ、と問い返す代わりに、ハルは小さく頷いて通路を戻った。
書式は、ハルの頭の中にあった。終戦協定第一条付属の特別命令書式。冒頭の優先度符丁、発令権者の識別列、全艦一斉の宛先指定。七年前のあの夜、彼の卓の画面にあったものと同じ並びを、彼は一字も忘れていなかった。忘れる努力は、何度かした。努力が実らなかった結果が、今になって兵器になる。
認証鍵列は、ツクモが持っていた。
「終戦時点の連合軍共通認証系を保持しています。本艦は葬送任務の性質上、帰還命令を含む全権命令の検証鍵を搭載していました」
「……お前は、あの夜、帰還命令を受信したのか」
「いいえ。本艦は当時、単独追跡任務中で通信封止下にありました。帰還命令の存在を知ったのは、戦後です」
受け取り損ねた者同士か、とハルは思い、その考えを口には出さなかった。
二日目、認証鍵列の検証段で、世代の問題が出た。終戦時の共通認証系には四つの鍵世代が並行して生きていて、KC-118がどの世代で待っているかは、向こうの最終更新日に依存する。ハルは記憶の底から方面網の鍵更新計画表を引きずり出し、外縁第三中継線の下流が最後に受けた更新日を割り出した。第三世代。ツクモの保持する鍵列と、二世代ずれていた。
「第三世代の鍵列は、本艦には──」
「ある。正確には、導出できる。世代間の導出手順は更新計画表の付属文書だ。覚えてる」
「七年前の付属文書を、ですか」
「忘れる努力はした」
卓に向かう彼の指は、途中から考えるのをやめていた。手順が、手が、覚えていた。七年間使い道のなかった知識が、一行ずつ、正確に降りてくる。降りてくるたび、あの夜の卓の冷たさが指先に戻った。三日目の朝、ヴェインが当直交代で通信席の後ろを通り、組みかけの命令文を一瞥して、何も言わずに通り過ぎた。何も言わない、という気遣いの形を、この艦の全員が使うようになっていた。
最後の中継経路証明だけが、難物だった。命令がどの局を経由して来たかの証明書。偽造は不可能──のはずだったが、ハルは抜け道を知っていた。経路証明は中継局の実在を照合しない。照合するのは局の識別子と署名鍵の整合だけだ。そして外縁第三中継線の識別子と署名鍵を、彼は知っている。
自分の局だ。
「経路は、外縁第三中継線経由とする。──七年前に通るはずだった道を、そのまま書く」
「それは経路偽造ではなく」とツクモが言った。「経路の、復元です」
慰めなのか分類なのか、判別はつかなかった。三日目の夜、命令文は完成した。七年前のあの夜、外縁方面へ流れるはずだった信号と、寸分違わぬもの。画面の上のそれを、ハルは長いこと見ていた。見ていても、どこにも嘘がなかった。嘘がないことが、これを罠にする。
第二星系外縁、旧船団残骸帯。
《送り火》は残骸帯の外周、KC-118の「帰路」──帰還針路が必ず通る縫航ベクトルの会合点に伏せた。ブイ網の外側だ。網を抜く必要は、もうない。向こうから出てくる。
「杭、装填」
ヴェインの操舵が、艦首をベクトルに正対させた。固定帯の取れた左腕は、まだ動きにわずかな硬さを残していたが、舵には出ていなかった。
「送信手順を最終確認します」とツクモが言った。「送信は本艦からの直接送信ではなく、残骸帯外縁の旧中継ブイを一基経由させます。発信源の方位を秘匿します」
「ああ」
「艦長。送信の実行者を、確認します」
一拍、間があった。
「本艦のシステムからでも、送信は可能です」
逃げ道の提示だった。あの夜と同じ卓に座らずに済む道。ハルは首を振った。
「俺が打つ。──俺の仕事だ。七年、滞っていただけだ」
通信卓に、彼は座った。誰も座らない操舵席の隣の、誰も座ったことのなかった通信席に。指を置くと、配列が軍の卓と同じであることに気づいた。気づかないふりをして、彼は打った。
送信。
四十七秒間、何も起きなかった。
それから、残骸帯が目を覚ました。
四十基のブイ網が一斉にざわめき、KC-118の全アンテナが、信号の来た方位へ向いた。検波。解析。書式照合。認証鍵列の検証。七年分の埃をかぶった検証手順が、一段ずつ、確実に通っていく。
「書式照合、通過。認証、通過。経路証明──通過」
ツクモが読み上げる。最後の応答を、ハルは画面で見た。
──再送要求。
「……再送要求です。検証は全て通過しています。エラーではありません」
「わかってる」
わかっていた。痛いほど、わかった。
七年待った言葉は、一度では受け取れないのだ。
ハルは同じ命令を、もう一度打った。あの夜、彼は再送を打って、応答のない闇に呑まれた。今夜の再送には、応答が来た。
──受領通知。
全艦帰還命令、受領。任務待機を解除。帰投針路、設定。
KC-118が、動いた。
七年間守り続けた残骸帯の中心から、ゆっくりと、巨大なアンテナの翼を畳むように艦体を回頭させる。死んだ船団の声の中継は──止まらなかった。中継任務は帰投中も継続される。二十六隻の最後の声を流しながら、中継艦は七年ぶりに、家へ帰る針路に乗った。
加速。
縫航ベクトルへの会合。教範どおりの、美しい航跡だった。その航跡が、装甲の最も薄い機関区背面を、《送り火》の正面に晒す。
「照準、固定」
ツクモの声は、平坦だった。
「艦長、ご決断を」
ハルは、一拍だけ遅れた。
一拍の中に、七年があった。受け取られなかった夜と、受け取られた今夜と、受け取られたことがそのまま死になる、この仕事の形があった。
「……撃て」
中枢杭が、帰る途中の艦を背中から貫いた。
KC-118は、帰投針路に乗った姿勢のまま、すべての電波を止めた。
二十六隻の声が、七年ぶりに、消えた。
残骸帯は、ただの墓地に戻った。誰の声もしない、正しい静けさの墓地に。
撃破数、四。
誰も、何も言わなかった。ヴェインは針路を保持し、ナナオは医務室で物音を立てず、ツクモは戦果の定型句を、今回だけは省略した。通信卓の画面に、囮に使った帰還命令の送信記録だけが残っていた。送信者識別、外縁第三中継線。受領、確認。七年前に終わるはずだった往復が、そこで完結していた。
「中枢残骸、回収可能です」
長い静寂のあとで、ツクモが言った。
「──最終ログも」
ハルは目を閉じた。
「拾え」
それだけ言った。