第057話 撃たない戦
出航は、三日後の〇二〇〇に決まった。
表向きの出航予定は五日後の正午で、ギルドにも管制にもそう届けてある。届けた予定を自分で破る——監視されている艦の、最初の一手だった。
「ルールを整理する」
出航前のブリーフィングで、ハルはいつもの手順を踏んだ。いつもと違うのは、図の上の敵が、還らず艦ではないことだった。
「敵は教団の巡察艦一隻。対AI戦仕様。火力はうちと同等、電子戦は——ツクモ」
「教団の対AI装備は、自律中枢の偽装信号を検波する目的に特化しています。囮歌との相性は、最悪です。私の歌は、彼らの聖務の本職です」
「つまり歌は使えない。次に、こっちの縛りだ。教団艦は撃てない。掠めるのもなしだ。聖騎士一人に傷をつければ、外縁全域の教団が動く。教団は信徒の網で港を押さえてる。補給も、修理も、情報も、敵に回せば商売が終わる。——正当防衛の立証も難しい。向こうはまだ、一発も撃ってきてないからな」
「……撃ってこない相手から、逃げ切る戦か」とヴェインが言った。
「そうだ。一発も当てず、一発も当たらず、尻尾も掴ませない。三重の縛りだ」
「四重じゃ」とナナオが言った。「積み荷を、揺らすな。病み上がりの子が乗っとる」
四重の縛り。撃ち合えば負ける艦が、撃ってはいけない戦いを、貨物に卵を抱えて戦う。
「成功の定義を確認します」とツクモが言った。「教団艦の追跡を振り切り、本艦の航跡を秘匿し、第四星系方面の偽装針路を信じさせること。以上で、よろしいですか」
「ああ」
「では、成功確率を申し上げます。——五割を、下回ります」
誰も驚かなかった。驚く数字を聞き慣れすぎていた。
〇二〇〇。《送り火》は別バースから離岸した。
正規の係留バースには、出航準備の灯りだけを残してある。港湾の整備業者に金を払い、五日後の出航へ向けた「準備作業」を演じてもらう手筈だった。金で買える時間は、せいぜい数時間。だが追跡戦の数時間は、金で買えるもののうちで最も高くつく品物だ。
離岸、微速、港の構造物の影から影へ。管制への申告は「係留位置の変更」。嘘ではない。位置は変更している——港の外まで。
四十分、それで稼いだ。
「教団艦、動きました」
四十一分目に、ツクモが言った。
「停留位置から増速。針路、本艦の予測進路に正対。——気づかれています」
「早いな」
「はい。想定の中で、最も早い検知です。理由を推定します。本艦のステルスは熱と電波の秘匿です。教団艦は、別のものを見ています」
「別のもの?」
「囮歌の残響、艦の機動の癖、離岸手順の幾何学——教団の対AI戦術は、機械の『行動の指紋』を読みます。彼らは七年間、狡猾な自律中枢を狩り続けてきた専門家です。隠れる機械の隠れ方を、知っています」
機械を狩る訓練が、機械の艦に刺さる。《送り火》の強みの全部が、この相手にだけは裏返って弱みになる構図だった。
離岸前の最後の一時間、ハルは遮蔽区画に降りた。
逃げることになる、という説明を、ごまかさずにした。白い船が追ってくること。揺れること。怖い音がすること。あんたを渡さないために逃げるのだ、ということ。
ヨルは毛布の上に膝を揃えて、全部を聞いた。
「……わたしが、いるから」
「違う」
ハルは即答した。即答できるように、答えを用意してきていた。
「あんたが『いるから』逃げるんじゃない。あんたを『渡さないから』逃げるんだ。主語が違う。決めたのはこっちだ。荷物の側に、責任はない」
「……にもつ」
「言葉の綾だ。——クルーの側に、だ」
ヨルはしばらく黙り、それから、覚えたての文型で言った。
「……わたしも、きめて、いい?」
「何をだ」
「にげるの、てつだう。きこえたら、いう。……それは、わたしが、きめる」
手伝う、を彼女は自分の側から言った。ハルは断る理由を三つ数え、三つとも「彼女の決定を取り上げる理由」にしかならないことを確かめて、捨てた。
「頼む。ただし、ナナオが止めたら従え。それが条件だ」
「……じょうけん、のむ」
呑む、という語彙をどこで覚えたのか。たぶんカンプとの通信の盗み聞きだった。この艦の語学教材は、ろくなものがなかった。
追跡戦は、六時間続いた。
ハルは偽装針路を二枚重ねた。第四星系方面への航路ブイに偽の通過記録を残し、本命の針路は黄道面の下へ。並の追っ手なら、それで撒けた。
セルマは、撒かれなかった。
「教団艦、変針。——偽装針路を、捨てました。本艦の実針路に再正対」
「……歌も使ってないのにか」
「使っていないことが、手掛かりにされた可能性があります。『歌える艦が歌わない局面』の分布から、本命の針路を逆算された、と推定します」
歌えば検波され、歌わなければ歌わないことを読まれる。ハルは初めて、軍の電子戦教官の古い台詞を実感した——最良の偽装手段を持つ者は、それを使えない局面で最も裸になる。
牽制の光条が、前方を横切った。
当てる気のない一射だった。停船要求の、教団式の句読点。ヴェインが舵を切り、艦が軋み、回避の加速が艦内を押した。二射目は、より近かった。三射目が、機関区の外殻を掠った。
「機関区外殻、表層損傷。推進への影響、軽微」
撃ち返せば終わる。撃ち返さなければ、削られる。縛りの構図が、物理の形で締まってきた。
艦内の振動の中で、ハルは一瞬だけ、医務室の映像に目をやった。寝台のヨルは毛布の中で身体を硬くし、両手で耳を——耳ではない、首筋の端子痕を——押さえていた。戦闘の音を怖がっているのではない、と気づくのに一拍かかった。彼女は教団艦の対AI検波を、肌で浴びているのだ。中枢を探す音を。自分を探す音を。
恐怖。その感情を、彼女は今夜、学習していた。学習の方式は、また痛覚からだった。
映像の中に、ナナオが入ってきた。老人は回避機動の振動の中を手すり伝いに歩き、寝台の脇に腰を下ろし、何も言わずにヨルの手を端子痕から剥がして、自分の掌で覆った。検波は防げない。防げないものの上に、防げないと知っている手を置く。医療と呼ぶには無力で、無力と呼ぶには正確な処置だった。ヨルの呼吸が、少しだけ深くなった。
「機関区はええんか、ドク」と通信でヴェインが咎めた。
「機関はお前さんが労れ。わしの患者はこっちじゃ」
「次善案を提示します」とツクモが言った。「前方〇・〇二光秒に民間の鉱石船団。船団の航路に紛れ込めば、教団艦は射撃を続行できません。追撃の射線上に第三者を配置します」
「却下だ」
「では次善案を。残骸帯へ——」
「それも先がない。袋だ」
「では、次々善案を」
ツクモの提示する選択肢が、一枚ずつ薄くなっていく。針路の選択肢が、星図の上で削られていく。残ったものを、ハルは見た。見て、しばらく黙った。
海図の一角が、赤く塗られている。
航行警報、恒久指定。還らず艦の巣。保安機構も立ち入らない宙域——赤標域。
「……ヴェイン。赤標域までの最短は」
操舵手が、ちらりとこちらを見た。正気か、という目ではなかった。やはりそこか、という目だった。
「四十分。——舵、もらったままでいいな」