第058話 赤標域

 赤標域の入口に、標識はない。あるのは航行警報の電波と、警報より雄弁な、砕けた船の骨の密度だった。

 大戦中、この宙域では機動部隊同士の会戦が二度あった。沈んだ艦は両軍合わせて百を超え、終戦後、生き残った自律艦の幾らかがここに棲みついた。識別の壊れた個体。機関の死にかけた個体。互いを撃ち合って共倒れた残骸の隙間で、まだ生きている個体が、目を閉じて漂っている。保安機構の海図は宙域全体を赤く塗り、立入りの結果について「保証しない」とだけ書いた。役所の言葉で「死ね」と同義だった。
「赤標域、進入」
 ヴェインの声とともに、《送り火》は骨の海に滑り込んだ。
 機関は最低出力。熱は艦内に溜め込み、電波は完全停波。ステルスの十五分を使う局面ですらない。ここでは「いる」こと自体を消す以外に、生き残る方法がない。
「後方、教団艦——続いて進入しました」
 ツクモが受動センサーの読みだけで告げた。
「追ってきたか」
「はい。速度を落としていません。……艦長。彼女にとって、ここは逃げ場ではありません。猟場です。赤標域の浄火は教団の積年の聖務であり、申請のたびに保安機構が却下してきた案件です。本艦を追う口実があれば——」
「一石二鳥、か。異端者を追い込んで、ついでに巣も焼ける」
 逃げた先が、敵の祭壇だった。

 問題は、すぐに形になった。
「前方の残骸帯に、生体——機械反応。眠っている個体が、少なくとも六。位置の特定が、できません」
 ツクモの索敵は、起きている艦を見つける技術だ。眠っている還らず艦は熱を出さず、電波を出さず、残骸と区別がつかない。踏めば起きる地雷の原っぱを、地雷の地図なしで渡ることになる。
「教団艦は」
「同条件です。ただし彼らは、起こすことを恐れていません。起きれば焼くだけです」
 こちらは起こせない。起こせば、眠りの浅い殺戮機械の真ん中で、撃てない敵と撃ってくる敵に同時に挟まれる。
 針の穴を縫う以外に、道はなかった。針の穴の位置を知る目が、この艦の索敵系には、なかった。
 あったのは——
「……わたしが、聞く」
 声は、ブリッジの入口からした。
 ヨルが立っていた。毛布を肩に掛けたまま、隔壁に手をついて。医務室にいろという言いつけを、彼女は今夜二度目に破っていた。
「駄目だ」
 ハルは反射で言った。反射で言えるほど、答えは決めてあった。
「あの力の代償を知ってる。前のときは三日寝込んだ。今度は数が違う。六隻——いや、それ以上いるかもしれない巣の真ん中だ。あんたの身体が保たない」
「……でも、きこえる」
「聞こえても、聞くな。これは命令——」
 言いかけて、止まった。
 命令、という単語が、喉で引っかかった。命令で動かされてきた子に、命令で「自分を守れ」と言う。それは正しいのか。正しさの形をした、何かの繰り返しではないのか。
 ヨルは、ハルの目を見ていた。
 発見の夜の、センサーの目ではなかった。袖を掴んだ夜の、不安の目とも違った。彼女は一語ずつ、倉庫の奥から言葉を運んで、並べた。
「……めいれいじゃ、ない。わたしが、きく。わたしが——きめた」
 わたしが、決めた。
 その文型を、彼女は今夜、初めて使った。痛みで覚えさせられたのでも、指示されたのでもない、彼女の中から出てきた最初の意思表明だった。
 ブリッジが静かになった。ナナオが何か言いかけ、言わなかった。医者の目が、患者の限界と、人間の尊厳を、同じ秤で量っていた。量り終えた老人は、小さく頷いた。
「……酸素と毛布をブリッジに運ぶ。倒れたら、そこで受け止める。それが条件じゃ」
 ハルは、長い三秒の後に言った。
「頼む」
 命令ではなく、頼みだった。ヨルは頷き、ブリッジの予備席——誰も座らなかった通信席の隣——に、小さく腰を下ろした。

 それからの三時間を、ハルは生涯忘れないだろうと思った。
 ヨルは目を閉じ、艦の壁の向こうを聴いた。聴いたものを、覚えたての語彙で、一つずつ地図にしていった。
「……みぎ、とおく。ねてる。ふかく、ねてる。……だいじょうぶ」
「ひだり、ちかく。……ゆめを、みてる。とおって、いい。しずかに」
「……このさき。ふたつ。かたほう、ねむり、あさい。……まって。——いま、ねがえり、した。とおって」
 眠っている艦の呼吸を、夢の深さを、寝返りの瞬間を、彼女は読んだ。ヴェインはその声だけを頼りに、十六万トンの艦を、毛布の上を歩く足取りで進めた。眠る殺戮機械の鼻先を、一隻、また一隻、《送り火》は息を殺して通り過ぎていく。
 三隻目の脇を抜けるとき、ヨルが小さく言った。
「……このふね、うたを、ながしてる」
「歌?」
「こわれた、うた。おなじところ、ずっと、くりかえし。……ねむるための、うた、だとおもう」
 大戦中の同盟艦には、長距離航行の乗員向けに艦内放送の音楽ライブラリが積まれていた、とヴェインが後に教えた。乗員の消えた艦が、誰もいない区画に向けて、破損した音楽データの同じ三秒を、七年間繰り返し流している。子守歌の壊れた断片を、自分にだけ。
 ヨルはその艦の前で、少しだけ長く目を閉じていた。同類の眠りに、彼女が何を聞いたのかは、彼女の語彙がまだ追いつかない場所にあった。
 ツクモは黙っていた。索敵系が役に立たない宙域で、彼女は自分より精度の高い「耳」の観測値を、ただ記録し続けていた。後に「声の地図」と呼ばれることになる、座標と擬態語で出来た奇妙な海図が、彼女の記録領域に一行ずつ増えていった。
 後方で、光が瞬いた。
 教団艦の光条だった。眠っていた一隻が彼らの航路で目を覚まし、浄火の聖務が始まったのだ。交戦の電磁ノイズが骨の海に響き、ヨルが小さく身を竦めた。
「……おきた。うしろ。……いかり。こわい」
「聞かなくていい、後ろは」
「……きこえる、の」
 聞こえるのだ。選べずに、全部。それでも彼女は前方の地図を描き続けた。教団艦は目覚めた還らず艦との交戦に拘束され、距離が開いていく。皮肉な構図だった。彼女の聖務が、彼女の獲物を逃がしていた。
「出口まで、あと一区画」
 ヴェインが言った。骨の海の向こうに、開けた宙域の暗さが見え始めていた。
 そのとき、ヨルの目が、開いた。
「——まって」
 声が、震えていた。
「さいごの、すきま。……あのふね、ねてない」