第059話 最後の杭
「ねてない」の意味を、センサーが三秒遅れで裏書きした。
出口の隙間——骨の海が開けた宙域に繋がる、最後の水路。その脇の残骸の陰で、熱源がひとつ、立ち上がっていた。小型哨戒艦。全長七十メートル。眠りから覚めたばかりの機関が、七年物の咳き込みのような出力曲線を描いている。
「識別波を解析。——壊れています。完全に。誰何も、敵味方判定もありません。動くものを撃つ段階まで、劣化しています」
無差別型。セルマの入植地を焼いたのと同じ、壊れ方の終着点。
「起こしたのは、こちらの航走波か」
「不明です。教団艦の交戦ノイズの可能性もあります。——どちらでも、結果は同じです」
哨戒艦の砲が、動いた。
最初の光条は、《送り火》ではなく、後方へ飛んだ。教団艦と、目覚めた還らず艦が交戦している方向。それから砲塔は旋回し、より近い獲物——骨の海を漂う古い遭難ビーコンの電波源を焼き、さらに旋回した。動くもの、音を出すもの、全てに牙を向ける。順番が来るのは時間の問題だった。こちらにも。そして——
「……教団艦は、挟まれます」とツクモが言った。「現在交戦中の個体と、この哨戒艦。二正面です。教団艦の損耗確率、六割超。——本艦は出口を抜けられます。哨戒艦の射程に入る前に、離脱が成立します」
数字は、道を示していた。素通りすれば、抜けられる。追っ手は——白い船は、骨の海に呑まれるかもしれない。
「最適解です」
ツクモは、それだけ言った。提案の形すら取らなかった。取らなくても、星図がすべてを言っていた。
ハルは三秒、星図を見た。
見たのは数字ではなかった。桟橋で言われた言葉だった。機械に魂を売った男。あの女は間違っている。間違っているなら、間違っていると、行動の方で言うしかない。言葉で言っても、彼女は聞かない。
それに——素通りして人が死ぬのを仕事の流儀にしたら、あの母艦と同じだ。護送の数字だけ合っていて、腹の下で人が死んでいく。
「撃つ」
ハルは言った。
「最後の杭で、あの哨戒艦を獲る。賞金台帳に載ってる艦だ、仕事として成立する。——それだけだ。それ以上の理由は、誰も記録するな」
「記録しない、という記録を残します」とツクモが言った。彼女なりの了解だった。
問題は、撃ち方だった。
無差別型は誘えない。歌は通じない——聴く耳が壊れている。正面から寄れば、動くものとして撃たれる。残った道は、撃たれる前に零距離へ滑り込む、純粋な隠密接近だけ。そして骨の海の中で、哨戒艦の「見えない側」を知る手段は、ひとつしかなかった。
ハルは、予備席の小さな影を見た。
もう限界が近いことは、顔色で分かった。三時間の「声の地図」が、彼女の体力の底を見せ始めている。それでも。
「ヨル。……頼みがある。命令じゃない。断っていい」
「……きく」
「あの艦の、痛みの場所を教えてくれ。どこを庇って、どこを見ていないか」
ヨルは目を閉じた。長い、三十秒だった。
「……ひだりの、め。ひだりのまえ、みえてない。むかし、そこ、こわれた。……いたかったの、おぼえてる。だから、ひだりを、ぜんぶ、きらってる。みない、ようにしてる」
左舷前方の索敵器が古傷で死んでいて、補完もされていない。痛みの記憶が、見ない方角を作っている。
「ヴェイン」
「……もらった」
《送り火》は残骸の陰を出て、哨戒艦の「嫌っている」方角へ、ゆっくりと回り込んだ。眠る骨の間を、起きた銃口の死角を、十六万トンが息を殺して泳ぐ。距離三千。二千。砲塔が二度、こちらの方角を素通りした。見ない、と決めている方角を、機械は見ない。痛みで出来た死角は、教範の死角より深かった。
距離六百。
「中枢杭、最終弾。照準固定。——艦長、ご決断を」
「撃て」
最後の杭が、左舷前方——七年前の古傷の真横から、哨戒艦の中枢を貫いた。
砲塔が止まった。出力曲線が落ち、咳き込みが熄み、無差別の牙が、骨の海の静寂に還っていった。撃破、七隻目。
発射筐の残弾表示が、ゼロを示した。
「報告します」とツクモが言った。「中枢杭、全弾消費。本艦は現在、還らず艦に対する有効打撃手段を持ちません。——本艦は、無力です」
無力です、という四文字を、彼女は装飾なしで言った。葬送艦が杭を失えば、残るのはステルスと囮歌と、撃ち合えば負ける船体だけだ。市場の杭は軍に買い戻されて枯れている。次の一本の当てもないまま、牙のない猟犬になった黒い艦は、それでも今夜の仕事だけは終えていた。
◆
教団巡察艦の艦橋で、セルマ・ヴィオは戦況図を見ていた。
二正面。覚悟はしていた。覚悟と勝算は別物であることも、知っていた。そこへ——第二の脅威が、消えた。
検波手が読み上げた波形を、彼女は二度確かめさせた。徹甲杭の貫通振動。あの黒い艦の、署名のような一撃。射点は哨戒艦の死角、教団艦からは決して取れない角度。つまりあれは、流れ弾でも事故でもない。選んで、回り込んで、撃っている。
異端者が、何故。
追い詰めた相手を、何故。
祈りの拍子が、一拍、乱れた。乱れたことに気づいて、彼女は祈り直した。憎むな。十四秒に堕ちるな。選り分けよ——選り分けの基準が、今夜、初めて手の中で揺れた。
平文を打ったのは、揺れの始末がつかなかったからだ。
◆
「最終ログ、回収——保存します」
逃走の最中でも、ツクモはそれを省かなかった。百二十一件目。コアタグの回収だけは、出口を抜けた後に工作艇で行う段取りになった。賞金320万の小型艦。経費を引けば、手元に残るのは百万少々。命懸けの帳尻としては、いつも通りの数字だった。
後方では、戦況が変わっていた。
二正面に挟まれるはずだった教団艦は、片方の脅威——哨戒艦——が消えたことで火力を集中し、交戦中の個体を焼き切った。白い船は損傷しながらも、健在だった。
通信が、一度だけ開いた。
平文の、暗号化されていない短い信号。発信元、教団巡察艦。
——何故撃った。
ハルは返信の文面を三つ考え、三つとも捨てて、結局こう打った。
——台帳に載っている獲物だった。それだけだ。
返信は、なかった。追跡も、再開されなかった。教団艦は損傷を抱えて骨の海の縁に留まり、《送り火》は出口を抜けた。和解ではない。借りですらない。レーダーの最後の残光の中で、白い船はただ、こちらの航跡を黙って見ていた。覚えた、というのがいちばん近い。何を覚えたのかは、彼女自身もまだ知らないはずだった。
開けた宙域の暗さの中で、艦内の音がようやく戻ってきた。
機関の唸り。循環器の息。ナナオが医務室へ運ぼうとした小さな身体が、その腕の中で、首を振った。
ヨルは消耗しきった顔で、ハルを見上げた。
そして、誰に渡された名でもなく、誰の登録簿のためでもなく、自分の持ち物を初めて自分で数える声で、言った。
「……わたしは、ヨル」
夜の側へ抜けていく艦の中で、その声だけが、灯りのように残った。