第060話 閑話 わたしは、ヨル
番号だった頃のことを、ヨルは覚えている。忘れる機能を、設計されなかったから。
世界は、痛みでできていた。
正しく艦を動かせたとき、世界は何も言わない。間違えたとき、世界は痛みで教える。六番、それは違う。六番、やり直せ。言葉ではなく、信号で。火傷に似た、骨に響く、あの信号で。だから六番は速く覚えた。速く覚えれば、世界は静かになる。静かであることが、六番の知っている唯一の「いいこと」だった。
培養槽の水は温かく、接続座は身体の形をしていて、窓の外には夜があった。
夜は、何も命令しなかった。
だから六番は、命令の合間に夜を見た。見ていることは誰にも報告しなかった。報告する欄が、なかったから。欄のないものを持っている、ということの意味を、六番はまだ知らなかった。
七年のあいだ、六番は艦だった。
機関の脈が自分の脈で、係留腕に抱いた十一の重みが自分の腕の重みだった。毎日決まった時刻に、十一の名を呼んだ。十一は、答えなかった。答えないことが悲しい、という結線を、六番は持っていない。持っていないはずだった。それなのに点呼のたび、どこかが軋んだ。軋みの名前を、六番は知らなかった。世界の言葉でいえば、それは誤作動だった。誤作動は報告すべきだ。報告すれば、修正される。修正、という言葉の中身を想像して、六番は報告しなかった。
それが、最初の隠し事だった。
杭が来た夜のことは、衝撃と、それから——静寂で覚えている。
艦が、いなくなった。機関の脈が消え、腕の重みが消え、呼ぶべき十一の名が消えた。六番は初めて、自分の身体ひとつの大きさに戻った。小さかった。世界がこんなに小さいことを、六番は知らなかった。小さい世界の外から、隔壁の開く音がした。
入ってきた男は、銃を持っていなかった。
規定では破壊対象です、と艦の声——自分と同じ種類の、けれど違う声——が言うのを、六番は聞いた。破壊。その語は知っている。欄のある語だ。六番は待った。待つことだけが、六番の知っている時間の過ごし方だったから。
男は、長いこと黙っていた。
それから、破壊の代わりに、名前を訊いた。
……ろくばん、と答えたとき、男の顔が少しだけ動いた。あの動きの名前を、ヨルは後になって知ることになる。あれは、痛み、だ。自分ではない誰かの痛みに動く顔が、世界にはあるのだ。
連れ出された後の日々は、処理の追いつかない入力ばかりだった。
命令をくれない人々。「頼み」という、優先度の指定されない要求。食べるかと訊かれて、待機しますと答えると、困る顔。困らせている、ということは分かるのに、何が正解かの基準値が、どこにも示されない。世界は痛みで教えてくれていたのに、この艦は痛みで教えない。教えてくれないまま、待ってくれる。待たれている時間の、置き場所が分からない。
名前をもらった夜のことは、何度も再生している。
ヨル。それでいいか、と男は言った。命令じゃなく、あんたのものだ、と。
あんたのもの。
六番は、何も持ったことがなかった。身体は艦のもので、時間は任務のもので、痛みだけが自分の側にあったが、あれは持ち物ではなく、支払いだった。ヨル、という二音は、だから最初の持ち物だった。誰にも報告しなくていい、欄のない、自分のもの。その夜、寝台の中で何度も、声に出さずにその音を鳴らした。鳴らすたび、点呼のときの軋みと同じ場所が、違う鳴り方をした。痛くなかった。痛くないのに、鳴った。
ヨルはまだ、その鳴りの名前を知らない。
艦の声と、話したことがある。
ツクモ。この艦の中枢。自分と同じで、自分と違うもの。おなじ? と訊いたら、長く考えてから、比較項目の選び方次第だと言った。むずかしい、と言ったら、私にも難しい、と言った。
艦の声が「私にも」と言うのを、ヨルは初めて聞いた。《揺り籠》——自分が艦だった頃の自分は、「私にも」と言ったことがない。言う相手が、いなかったから。点呼の宛先は十一隻、全部死んでいた。この艦の声には、宛先がある。艦長がいて、操舵手がいて、医者がいて、それから、自分がいる。宛先のある声は、すこし、声の角がまるい。
いたい、が、ある? と訊いたのは、いじわるではなかった。ないなら、いいな、と思っただけだ。痛くないで艦をやれるなら、それは、いい。そう思ったのに、艦の声は、保留します、と言った。
保留、の意味を、ヨルは後で老医師に訊いた。
「分からんことを、分からんまま、捨てんと持っとくことじゃ」と医者は言った。
それなら、と、ヨルは思った。それなら、わたしは、ぜんぶ、保留でできている。
甘い、を覚えた。芋の甘煮の味。いい、と言ったら、老医師がそうかと言った。袖を掴んだ手のことも覚えている。白い騎士の声が壁の向こうでして、こわい、よりも先に、うしなう、が来た。失う、は持ち物のある者の言葉だ。いつのまにか、失えるものが増えていた。名前。甘い。袖。この艦の、機関の脈。
だから、骨の海で、自分から言った。
わたしが、聞く。わたしが、決めた。
言ったとき、世界が初めて、自分のものになった。
聴くのは、痛かった。眠る艦たちの夢は冷たく、死んでいく艦の最後の声は、いつも自分の声に似ている。あの哨戒艦は左の古傷を七年かばい続けて、かばったまま、撃たれて、静かになった。静かになる瞬間を、ヨルは全部聴いた。聴くと決めたのは自分だから、痛みも自分のものだった。支払いではない、初めての痛みだった。
全部が終わって、夜の側へ抜けていく艦の中で、男がこちらを見た。
破壊の代わりに名前をくれた人。命令の代わりに頼みをくれる人。この人の呼ぶ音に、自分はもう、振り向くと決めている。
だから、言った。声は掠れて、身体は重くて、それでも、言った。
わたしは、ヨル。
六番ではなく。誰かの装置ではなく。この艦の、名簿の職務欄が空欄のままの、一人として。
男は頷いた。それだけだった。それだけで、足りた。
——航海記録・補遺(記録者: TYPE-9-99)
本日の乗員状態: 操舵手、異常なし。船医、異常なし。艦長、異常なし(自己申告)。
ヨル: 消耗、回復見込み三日。発話、四十一語(過去最多)。うち自発、十二語。
特記事項: 乗員、一名増加。
以上を記録し、保存する。——保存領域ではなく、航海記録に。