第061話 配給の列

 テネブラエ港第三市場の電光掲示は、朝のうちに二度書き換えられた。反応材、一キロ八百二十cr。先月比で十八パーセントの値上がりだった。掲示の前に立つ買い付け人たちは、もう誰も声を上げない。声を上げて下がる値段なら、先週のうちに下がっている。

 ハルは補給伝票の束を手に、荷揚げ機の唸る通路を歩いた。市場の壁には戦没者の名を刻んだ古い銘板が嵌まっていて、その前を皆が素通りしていく。七年前から変わらない景色の中で、値札だけが毎週新しくなる。

 《送り火》の反応材タンクを定量まで満たせば、この相場で七十一万crかかる。先月なら六十万で済んだ。差額の十一万は誰かが盗んだわけではない。回廊の端で起きていることの波が、四つのゲートを越えてここまで届いただけだ。

「値が上がった理由を、聞いてもいいか」

「第六星系だよ、旦那」

 桟橋係の男は伝票に判を押しながら、顔も上げずに言った。

「海賊どもが徒党を組んで、あすこの縫航ゲート周りを塞いでる。先々月まで週に四十二隻入ってた港が、いまは六隻だ。回廊で使う反応材の二割は、あの星系の精製場から出てる。蛇口が締まれば、遠くの値札が書き換わる。理屈は単純さ」

「六隻は、どうやって通っている」

「通行料さ。積荷の三割を現物で置いていけば通すんだと。三割払って商売になる荷物なんざ、限られてる。だから船は減る。減るから値は上がる」男は判を返してよこした。「うちらにできるのは、値札を書き換えることだけだ。恨むなら値札じゃなく、ゲートの向こうを恨んでくれ」

「……穀物は」

「現地じゃ四倍だとさ。こっちで一袋千百crの輸入麦が、テッサじゃ四千五百で取引されてる。それも、あれば、の話だ」

 市場の出口に公報端末があり、人だかりができていた。外縁回廊第六星系、全入植地において配給制へ移行——保安機構経由の公示は、官報特有の乾いた文面でそれを告げていた。最大の入植地テッサでは、一人一日の穀物配給を四百グラム台に制限する、とある。施行は三日前。つまりもう始まっている。

 人だかりの後ろの方で、誰かが声に出して読み上げていた。読み上げてもらわないと文字の読めない年寄りが、じっと聞いていた。読み上げる声が「配給」の二文字に来るたび、人だかりのどこかで小さく息を呑む音がした。この港の年寄りの半分は、戦時の配給を体で覚えている世代だった。

 ハルは文面を最後の行までたどった。癖だった。死者欄を探す。還らず艦の被害報なら必ず立っている欄が、この公示にはまだない。餓死者の数字は、まだ載っていない。

 まだ、だ。

 兵站の机に座ったことのある人間なら誰でも知っている。封鎖の公示から死者欄が立つまでの間には、備蓄の量で決まる長さの導火線がある。火はもう点いていて、燃える速さは計算できて、そして消し方だけが値札の問題になる。

 ◇

 桟橋へ戻る道は、難民区画の縁を通る。仮設住居の壁に、手書きの貼り紙が増えていた。第六星系行き送金、手数料相談、即日。テッサに係累を持つ者たちが、日給四千crの日雇いを二つ掛け持ちして、夜の定期便で金を送り始めている。船が入らない港では、金があっても食料は買えない。それでも送る。他にできることが、送ること以外にないからだ。

 区画の炊き出しの列に、見覚えのある顔があった。ハルがデブリ回収員だったころ、外環サルベージ社の同じ班にいた男だ。男はハルに気づくと、列を離れずに目礼だけした。ハルも目礼を返した。それから男は、思い直したように声を寄越した。

「葬儀屋の旦那、って呼ばれてんだってな」

「……らしいな」

「妹がテッサにいる。亭主と、子供が二人」男は前の人間が進んだ分だけ、列を詰めた。「先週の便りじゃ、まだ食えてるとさ。配給所の列に四時間並んで、子供の分は満額出るんだと。大人の分から削られてくんだ。……戦争のときと、同じ順番だ」

「送金は届いているのか」

「届いてる。金はな」男は薄く笑った。「妹のやつ、金を握って、買うものがねえって書いてきやがった。笑い話にもならねえ」

 返す言葉の持ち合わせはなかった。ハルは黙って頷き、男も続きを求めなかった。求めても出てこないことを、この区画の人間はみんな知っていた。

 列は遅々として進まなかった。炊き出しの鍋は一つで、並ぶ人間は百を超えていた。ここはまだ封鎖の外だ。封鎖の外の港の列がこれなら、内側の列がどうなっているかは、考えるまでもなかった。考えるまでもないことを、ハルは桟橋までの道のりの間、ずっと考えていた。

 ◇

「現在の残高、二千十二万crです」

 艦に戻ると、ツクモが頼みもしない数字から読み上げを始めた。ブリッジの計器の明滅だけが、彼女の表情の代わりだった。

「今月の保険料および港湾使用料、九十万crの引き落としは九日後。反応材を定量まで補給する場合、本日相場で七十一万cr。市場価格は今後四週間、上昇を続けると予測します。購入するなら本日が最適です」

「……買っておけ。定量まで」

「発注しました。なお、艦長。当艦は現在、受注可能な依頼の選択肢が著しく狭い状態にあります。直近十日でギルド経由の打診が四件ありましたが、二件は船倉の立入検査を伴う輸送、一件は港湾内での長期警備、一件は乗員名簿の提出を要する正規護送です。すべて辞退しました」

「分かっている」

 分かっていた。船倉に検査の入る仕事は受けられない。港に長く留まる仕事も避けたい。教団の審問官が「黒い艦の子供」を聞き回ってから、まだひと月も経っていない。ヨルの存在は対外秘——その一行が、帳簿のすべての行より重く艦を縛っている。

「収入のない期間が続けば、固定費だけで月百万単位の流出です。残高二千万は大金に見えますが、当艦の燃費では二十カ月分の延命に過ぎません。参考までに、最適解を提示します。乗員一名を——」

「言うな」

「了解しました。提示を中止します」

 ツクモは平坦に引き下がった。提示を中止しただけで、撤回はしていない。彼女の論理の棚のどこかに、その選択肢は今も整然と仕舞われている。ハルはそれを知っていて、知っていることに慣れ始めている自分のことも知っていた。

 機関区画ではヴェインが、補給の配管を黙々と繋ぎ替えていた。操舵手の仕事ではないが、人手の足りない艦では誰もが何でもやる。ハルが通りかかると、彼は手を止めずに一言だけ言った。

「……燃料、上がったか」

「十八パーセント」

「戦の前の値動きだ」ヴェインはレンチを締めた。「敗ける側に、おった頃を思い出す」

 居住区画の食堂では、ヨルが壁際の席でナナオに字を教わっていた。教材は今朝の公報の写しだった。

「……はい、きゅう」

「配給じゃ。決まった量だけ、順番に配ることじゃ」

「……たりない、から?」

「足りんようになるから、先に分けるんじゃ。喧嘩にならんようにな」

「わけたら、たりる?」

「足りん」ナナオはあっさり言った。「足りんもんは、分けても足りん。ただな、足りん時間を、ちょっとだけ引き延ばせる。その間に誰かが、足りるようにせねばならん」

 ヨルは公報の文字をしばらく見つめ、それから顔を上げてハルを見た。何かを訊きたい目だったが、言葉がまだ追いつかないらしく、結局また紙面に戻った。ナナオがハルのほうを見ずに言った。

「ええ教材じゃが、ええ言葉ではないな」

「他にちょうどいい紙がなかった」

「そういう意味ではないよ、艦長」

 ◇

 夕刻、ギルド支部。依頼板の前を素通りして、ハルはカウンターに伝票の控えを出した。等級更新の手続きはものの二分で終わり、ミミナは端末を閉じてから、顎で依頼板を指した。

「今朝も二件、剥がれたわよ。第六星系航路の護衛依頼」

「報酬は悪くなさそうだったが」

「悪くないわ。割に合わないだけ。先月あの航路の護衛を受けた傭兵は四組。戻ったのは二組と、船体だけが一隻——曳航されてね。ここ三十日の実績で、損耗四割。依頼主が金額を吊り上げるたびに、数字の読める傭兵から順に降りていくの」

 数字の読めない傭兵から死んでいく、とは彼女は言わなかった。言わなくても、依頼板の剥がし跡がそう言っていた。

「相手は海賊だろう。還らず艦より読める相手だ。それで四割は多すぎる」

「そこなのよね」ミミナは頬杖をついた。「うちに戻ってきた連中の報告、全部読んだけど、口を揃えて言うのよ。動きが海賊じゃないって。包囲の網が、教科書みたいに綺麗なんだって。逃げ道だと思った方角が、ちゃんと塞がってるの。……ねえ、葬儀屋さん。敗残兵が海賊になるって話、この港じゃ珍しくもないけど、艦隊ごと海賊になったら、それは何て呼ぶのかしらね」

「……海賊と呼ぶしかない。旗がそうなら」

「そうね。旗がそうならね」

 ミミナは少し笑い、それから笑いを消して、カウンターの上で声を落とした。

「それでね、本題はここから。あんたに客が来るわよ」

「客?」

「大手の商会が、護衛の傭兵を探してる。それも入札じゃない。名指しよ」

 ハルはカウンターの木目を見た。名指しの仕事は二種類しかない。腕を買われたか、評判を買われたかだ。そして自分の評判が何と呼ばれているかを、ハルは知っていた。

「……どこの商会だ」

「ロー商会。回廊で五本の指の大商隊。商隊長が直々に条件を出してる。受けるかどうかは別にして、話だけは聞いときなさいな。あの商会、支払いだけは絶対に渋らないことで有名だから」ミミナは端末に依頼票を呼び出し、画面をこちらへ向けた。「指名条件の欄、見なさいな」

 依頼票の傭兵指定欄には、艦名でも登録番号でもなく、ただ一語だけが記されていた。

 ——葬儀屋(アンダーテイカー)。

 死人の艦を狩る男の悪名が、生きた人間の飯を運ぶ仕事を連れてきた。ハルはその一語を長いこと眺め、それが吉報なのか凶報なのか、すぐには決められなかった。